2016年12月31日土曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ミシシピー河)・・・11

2016.12.31土 快晴 午前4:56
 ミシシッピーー河が目前になった。橋の上を走りながらの見学となった。河幅は広く、水の
無い箇所は大きな石が犇めき、曲がりくねって流れている。五大湖周辺から始まり、ニュー
オリンズまでの数千キロを悠然と流れている河である。アメリカ大陸に幾多の恵みをもたらし
た河である。アメリカの歴史の証人にもなれるのではないかと思った。私は数千年の歴史を
見つめてきたミシシッピー河をあっという間の時間で渡ってしまった。高速上なので、運転し
ながら後ろも振り返ることができない。西部劇やドキュメンタリー番組で見たミシシッピーは
何処にもな見られなかったのである。友人に「あれがミシシッピー河だ」と言った言葉は、
瞬間的に水と岩石だけの河になってしまった。素っ気ないアメリカ大陸の一幕であった。
私達はアイオワ州に入ろうとしていたが、私たちはこの州の高速のドライブインにバイク
集団が集まる有名な箇所があることの情報を得ていた。そこはドライブインアイオワという
そうである。バイク好きの友人は、是非そこのドライブインに入ろうとして、目を皿のようにし
て見逃さまいとしてした。友人「会った、あそこだ」私はゆっくりとハンドルを切り、巨大ドライブ
インに車を進入させた。そこはアメリカの代表的なライダー達の溜り場であるようだ。ヤマハ、
ホンダ、ハレー、BMW等、私の知っている限りのバイクが集まっていた。友人は食事も忘れ
てバイクを見るために、あっちこっちを移動しながら、ライダー達との話を楽しんでいた。
私は幾分覚めた眼差しでレストランに向かって歩き、アイオワ定食を探したのであった。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月30日金曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(シカゴ出発」・・・10

2016.12.30金 快晴 午前7:35
 シカゴの町を一巡してからミシガン湖の畔に行った。日本では湖では見た事のない水平線
を眺め、その畔では湖の浜を見た。浜は砂で覆われ、夏を名残惜しそうに若者が海水浴を
していたり、甲羅干しをしている人々がいた。浜の奥には夏の売店が店じまいの準備をして
いた。秋の海水場は何と形容して良いか分からない雰囲気をかもし出していたる。世界どこ
の海水浴場も同じであることが分かった。私たちは浜を後にして、州間高速道路80に戻る
ためにミシガン湖の周りを北西に走った。途中にシカゴカブスの野球場を偶然に見られた
が、立ち寄ることもなく目的方面に急いだ。シカゴは発展した町のようだとの印象を受けた。
イリノイ州から次はネブラスカ州に向かうのであるが、私はアメリカを代表するミシシッピー
河を横切ることを密かに楽しみにしていたのであった。シカゴの町を離れて数時間経ち、
そろそろ河が見えてくるころと思っていたら、その河が遠くに見えてきたのである。これが
世に聞こえるミシシピー河と思い、だんだんそこに近づいて来た。橋が見えたので、友人に
話しかけた。「あれがミシシピー河だ」、そして、私は更にアクセルを踏み込んだ。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月29日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(イリノイ州へ)・・・9

2016.12.29木 晴 午前5:11
 ニューヨーク州➡ぺンシルバニア州➡オハイオ州➡イリノイ州へ向かっていた時、イリノ
イ州のシカゴを見ておくべきと考えた。州間高速道路80号線から数百キロ北上すると
シカゴに行ける。何故、シカゴを見たくなったかというと五大湖周辺の産業の巨大さを目に
したかったからである。それと今迄のアメリカ映画でシカゴの町を幾度となく見ていたから
でもあった。私はシカゴ見たさにスピードを上げ、アメリカ音楽にラジオを合わせ、快調に
走った。数時間でシカゴが近づいてきたので、あらゆる目に入るものを観察し始めた。
橋げたの厚さと太さは鉄の町を象徴し、数十本の線路とその方向の枝分かれ、鉄粉
が飛び交っていた名残か、錆びた道路沿いの金属性の構築物、シカゴの町に入る高速の
車線が極端に多くなってきた途端にシアーズタワーが見えてきた。アメリカで一番高い
ビルである。いよいよシカゴの町の中心に入ったので緊張感が湧いてくる。思い出したが、
テレビ映画で有名になったR66号の始発点や野球のカブスも見ることができると思うと
ワクワク感が私に押しよせてきたのであった。駐車場を探して車を停め、待ちきれない
ように町に歩いて出た。真っ直ぐに鉄道のシカゴ駅に向かった。周囲のビジネスマンの
いでたちが実にスマートで眩しく見えたのであった。町を歩く男女のカッコ良さは、日本
では見られないカッコ良さである。女性は金髪を靡かせ、流行のスーツを着て、長い脚で
目的に向かって歩く姿はグーであった。次回は、シカゴを出るを記します。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月28日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(オハイオ州を走る)・・・8

2016.12.28水 晴 午前5:11
 ペンシルバニア州からオハイオ州に入ったが、景色は同じようであった。しかし、高速を
隊列を組んで走るハーレー集団に度々出くわせた。彼らのいでたちは革ジャンとブーツ、
足を広げて乗る独特の厳めしいスタイルでやってくる。私は彼らに親指を立てて、エール
を送ると、彼らも親指を立ててエールを送ってくれた。次々にハ―レー集団と会うので、
そのうちに飽きたのと次々に出会うのでエールを送ることを止めた。次に現れたのは
クラシックカーの集団であった。1960年代の四輪車を手入れしてピカピカにしてある
派手な車で走っている。運転しているのは、60代後半の男女である。裕福なアメリカなら
ではの光景である。高速を長く走っていると飽きてくるので、恰好な目覚ましになるので
面白く感じてしまう。幾多の山や河を越え、車は120km前後のスピードで西に向けて
走る。ラジオ音楽をかけて、眠気を覚まし、アクセルを踏む、パトカーみたいな車を
見るとスピードを緩めて安全策をとる。コンボーイトラックを追い越す時は、荷台が長いの
で要注意である。日本のトラックを追い越す時の1.5倍の時間が必要である。追い越され
足り、追い越したりしながら終日を走った。既に700km相当を走っているから、ガソリンが
少なくなってきたので、適当な出口を見つけてモーテル探しに入った。大きな交差点なら
モーテルは多くあり、小さな交差点ならば少ないことが経験から分かってきた。小さな
交差点であったから、鄙びたモーテルに入った。明日は前夜とシカゴへを記します。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月27日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ただ走る)・・・7

2016.12.27火 雨 午前5:43
 ペンシルバニア州は終日をただ走った。ガソリンンを満タンにしようとしてスタンドに行った
が、注油機の取り扱いが出来なく、店のおばちゃんに助けを求めて注油した。助けを求める
ために、店から外に出てもらい、注油機を操作してもらった。そのおかげでチップを10ドル
支払う羽目になってしまったが、機械操作を覚えたので、それ以後は支払うことがなかった。
IN80に戻るのであるが、乗る時の注意はウエスト又はイーストのどちらかに乗らなくてなら
ないから注意を要する。無事にウエストに乗り、私達はウエストに向けて順調に走った。
秋の温和な日差しを受けて、西へ西へ走る。数10Kmも真っ直ぐな道や長ーい下り坂
だったり、日本にない道路環境を味わいながらただ走った。周囲の景色はトウモロコシ畑と
隣と隣が離れている農家や何やら不明の大型店だったり、色々経験していない物を見るこ
とができた。正に百聞は一見にしかずである。旅に出ると、楽しく経験が積めるのである。
だから俺にとって旅は重要で辞められないのである。4車線の真っ直ぐな高速、木の枝の
下てカモを待つパトカー、昇りと下りの車線が数百メーター離れている箇所、森の海原、
何処まで走っても先が見えないアメリカ大陸を終日ただ走った。走行距離を計算すると
約700kmを走ったことになる。アメリカ横断ドライブの二日目はただ700kmを走って
いただけであった。次回はオハイオ州を走るを記します。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月26日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ペンシルバニア州泊)・・・6

2016.12.26月 快晴 午前5:50
 ニューヨークを出てIN80号線を西に走った。初めて見るアメリカ西部への出発である。
午前中はニューヨークの貿易センタービルやセントラルパーク等周辺を一回りして観光、
午後になり、ジョージワシントン橋を渡り、IN80号線に乗り西にむかったのである。その
景色の感想は、小高い木に囲まれた美しい家並みや中層ビル群、ところどころに見える
トウモロコシ畑の広々とした耕作地であった。とにかく、交通事故だけを注意して走った。
同乗のA君はビデオを回すのに熱中していて、景色はあまり目に入らないようであった
が、事故が起きないように名ナビゲター振りを発揮していてくれた。2時間も走ったら、
ドライブインがあったので、アメリカの初経験として入ってみた。駐車場も入り易く、悠々
と停められたし、駐車の安全性も日本より優れていた。思うに、アメリカの駐車場は広い
土地を更に将来を考えて作ってあり、狭い土地を工夫して今利用できるように作ってある
のが日本のようである。建屋に入ると、コンビニ有り、マック有り、休息所有りで悠々とした
ドライブインである。トイレに入ると、備え付けのテッシュがあり、いつも清掃されている
綺麗な床が目に入った。便器と便器の間は十分なスペースがあり、清潔な便器が備わっ
ていた。旅人を不快感にしてはならないという意識が感じられる公共施設であった。
その後のドライブインは、全くどこも同じようであった。一体どこから高速料を取らない
アメリカの高速道路の維持費用は賄われているのか、不思議な感覚を抱いてしまった。
2時間で約250km走り、ペンシルバニア州に入ったので、高速を一寸降りてみた。
目的は田舎の一般道はどうなっているかであった。対面からも後ろからも車は全然来ない
道であったので、飽きてしまい、直ぐに高速に戻り今夜の宿屋を探した。モーテルの看板
が見えたので、車を高速道から一般道に降ろし、モーテルに直進させた。田舎の名もない
町にはモーテルは二三ヵ所しか無い。そのモーテルの客は、大型トラックの運転士又は
営業マンで観光客や彷徨う客は居ないようであった。パス―ポートとカードを出して
カウンターのおばちゃんに宿泊できるかを聞くと、部屋はありますと返事をくれた。
いかにも田舎のおばあちゃんのようで、微笑えましい人柄であることを感じた。アメリカの
田舎の人の人柄は美しいという言葉で全体を表せるようだ。部屋に入り、近くに見えた
ファミリーレストランに夕食に向かった。アメリカで始めてのステーキを食べ、勘定を
済ませると1200円程度であったが、味は表現しない方が良く、唯満腹感だけは満たせ
た。次回は「ただ走る」を記します。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月25日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(アメリカ居酒屋)・・・4

2016.12.25日 快晴 午前5:45
  ニューヨークに着いて最初の夜、モーテルの隣に居酒屋があったので行ってみた。
アメリカ在住数十年のような日本人女性が働いていた。彼女が私たちのテーブルに
来て注文を取った。私はメニューを見て、日本と同じようなものをワンパターンで注文
し、早く来ないかなと思い待っていたら、彼女が話しかけてきた。「ニューヨークには
何しに」私「アメリカ横断をしようとして来たばかりだ」彼女「どこまで行くの」私「ニュー
ヨークからサンフランシスコまで」彼女「私はニューヨークに数十年いるけど、大陸横断
したことないよ」私「俺も初めてだ」そのうちに酒とツマミが運ばれてきたので会話は
中断した。思うに、アメリカの居酒屋は日本と同じくらいの種類のツマミはあるが、
酒は日本ビールと大関くらいの種類があるようだ。ウイスキーは本場だから何でも
あるようであった。日本にいる時のような量を食べ、ビールと冷酒を二人で飲んだ。
勘定はしめて100ドルくらいであり、高い気がしたがレジで支払うとすると、私の
チップが入っていないよと付いてきた見送りの彼女に言われた。それもそうだと思
い、幾らと言うと20%欲しいと言われた。日本で聞いて来たことでは10%~15%
でチップは良いと言われたが、彼女は一見の客と考えて20%としたのである。私は
反抗しないで20%の額を計算書の中に書き入れたのである。これ以来、私は居酒屋
でのチップに気を遣うようになってしまった。居酒屋でのウエートレスとの会話を他の
客より多めにしてしまうと高めのチップを支払うことになってしまうのだなと思うように
なった。居酒屋での長めの会話はご注意。笑笑。
次回はペンシルバニア州までを記します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月24日土曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(モーテル泊)・・・4

2016.12.24土 快晴 午前6:41
 三回目のニュヨークであったがキチンとしたホテルに泊まったことが数少なかった。その
経験不足から予約なしの宿探しに不安があった。マンハッタンのホテルは高すぎて泊り
たくなく、自身でホテルを探す他ない旅であったから、私はアメリカのモーテル事情を多少
しいて調べておいた。最も前回と前々回はモーテル利用を多少経験したが、その時は
アメリカの友人が連れて行ってくれたから泊まれたのであって、自身で部屋をとったわけ
でなかった。今回は安いホテルをとるのが目的であったから、それはモーテル以外に
無いのである。その安めのモーテルはマンハッタンには無い、そこから少し離れた町に
行くほかない。そこで運転練習の意味で、マンハッタンから外の町に出ることをしてみた。
ハドソン河を左に見て走り、ジョージワシントン橋を思い切って渡り、IN80号線を西に
走った。30分ほど走り、ハイウエー出口を出て、一般道に入った。程なくしてスーパー
があったので、運転練習代わりの思いで駐車場に入った。駐車をして店の中に入り、
買い物をするふりをして気を休めようと考えたのである。カートを押して店内を歩り、
商品探すふりをしていたが、カートが空だと怪しまれないかと思い、安いペットボトル
を2ダースほど買った。それに非常食もあれば便利と思い買い、精算を済ませ外に
出た。駐車場からまたハイウエーに乗り、30分走り、モーテルの看板を見たので
そのモーテル駐車場に入った。私が先に入りモーテルのクロークで「Get a room toni
ght?」とゴチャペ英語で叫ぶと「Ok one bed or two bed」と聞き返された。私はツインが
合理的で安いので「Two bed」と言い、パスポートとクレジットカードを出した。受付
女性は怪訝な顔をして私たちに部屋の鍵を渡したのであった。私はアジアの男が二人
ずれで部屋をとったからだろうと考えた。これが初めてアメリカで自分の力で部屋を
とった最初であった。これ以後の旅で部屋を探すのが私の役目となってしまった。
次回は、アメリカの居酒屋での思い出を記します。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月23日金曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(大都市へ入る)・・・3

2016.12.23金 雨 午前4:50
 レンタカー会社でリースした車はクライスラー6人乗りの四駆車である。ガソリンは相当
食うようであるが、故障と事故にはめっぽう強いような車であった。ニューヨークからサン
フランシスコまで約4000kmを走るので万全を期した車にした。万全というのは、①事故
にあった場合、②故障や道路に迷い砂漠の中で一夜を明かすことになった場合、③水
臨時食を積み込むスペースが必要等を考えたからである。ともかく、レンタカーを無難に
借りだすことができ、私達中学同級生の2名はマンハッタンに向かって出発した。アメリカ
のハイウエーのスピード感、距離感、車線変更等のスリルを味わってというか、冷や汗を
かきながら目的に向かった。約1時間で偶然にもマン八ッタンのど真ん中に着いた。丁度
ワシントン広場のあたりだったかもしれない。兎に角、無事にマンハッタンに入れたと安堵
感から少々の時間を休みたくなったが、車を一寸の時間も停める場所が無いのである。
そこで私は走りながら休む場所を探した。他の車の流れに乗って、ハイウエーを走ったら、
ブロンクスの方まで行ってしまった。必死になり車をハイウエーから出して、一般道に入り
空き地を見つけてUターンをし、またハイウエイーに乗りハドソン河の方に向かった。この
ようなミスを何度か繰り返しているうちに、周囲の町やニューヨーカーの運転の癖を見ら
れるようになった。そのうちに、マンハッタンは自由の女神を基点に動けば分かりやすい
ことを発見した。つまり、自由の女神を背にして、左側にハドソン河が有り、右側にイース
トリバーがある。マンハッタン島の真ん中を上に上がっていくとセントラルパークに突き当
たる。道路は一本おきにワンウエーとなり、非常に走りやすいことを理解できた。マンハッ
タン島の先端の場所に、車を停める空き地を見つけ休息をとることにした。マン八ッタン
にも盲点のタダの駐車場があったのである。但し、運転士は離れてはダメな駐車場で
る。この地のお蔭で車の中で1時間の休息が取れた。目をつぶり1時間を休んだ。
エネルギーがチャージされ目を覚ましたら、ニューヨークの秋の空がきれいであったこと
を思い出した。次回は宿舎探しを記します。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月22日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(NYに着く)・・・2

2016.12.22金 快晴 午前5:12
 JAL機は成田から13時間のフライトを経て、ニューヨークJFK空港に無事にランデング
をした。成田を飛び立ってから9時間でアラスカ上空になり、それから約4時間でNY上空
になる。機は一旦は大西洋に出てから向きを替え着陸態勢に入り、当空港に着陸するの
である。上空からNYの町を眺めると、西の方面にマンハッタンビルが眺められる。眼下の
住宅街は整然と街づくりが行われように眺められ、道路も正確に長方形の形を成している。
暫くすると、機は低くなり滑走路に向かってまっしぐらに降りていく。ガタンと鈍い音が聞こえ
てから乗客はホッとするのである。機は滑走路から乗客が乗り降りする箇所に横づけと
なる。客はドアが開いてから一目散に外に出ていく。入国審査を経て税関検査を過ぎて
外に出る。ここまでは何の緊張もないが、エアートレインでハーツレンタカーの営業所に
行く時に少々の緊張感が押し寄せるのである。つまり、右回りか左回りで良いかを迷うの
である。今言えることはことは、左回りのトレインに乗れば最短コースでレンタカー会社に
行けるのである。駅で降りると、そのレンターカ―会社は目の前になり、カウンターの大柄
の女性が二人で待っているのである。8年前から同じ女性であり、顔なじみのようになって
いる。挨拶はいつも「ハーィ」である。こちらも「ハーイ」を発し、おもむろにパスポートと
クレジットカード、日本から申し込んだ証明書を出す。黒人女性はPCのキーをパタパタと
打ち始めるのである。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月21日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(大陸横断)・・・1

2016.12.21水 快晴 午前6:19
 アメリカは①横断、②縦断、③太平洋側縦断、④大西洋側縦断、⑤V字ゴルフ横断、
⑥メキシコ湾側南下往復、⑦ダラス中西部往復、⑧東部ボストンとペンシルバニア往復、
⑨ロングアイランド往復、➉ニューヨーク周辺彷徨2度であるから通算11回程訪米した
ことになる。全てが彷徨いか商用の旅であった。今回から20回にわたりその旅を記し
終わったら、中国の旅に戻るという繰り返しをしながら私の旅の歴史を記します。
訪中回数は数えきれないので200回前後になる筈と言っておきます。
   ①アメリカ大陸横断の旅から入ります。私が還暦をむかえた時でした。私は30年前か
ら、友人たちに「アメリカ大陸を数人でドライブ横断をしてみないか」と言ってきたが、実現
しないでいた。それまでにアメリカは3回程の彷徨旅の経験があった。一回目はニューヨー
ク彷徨、次も同じ、三回目はサンフランシスコの友人を訪ねた旅であった。①の旅はスリリ
ングであり、面白いから記していきます。
 10月の秋にニューヨークに行き、レンタカーを調達し、約12日間でサンフランシスコまで
真っ直ぐ走る旅を計画した。アメリカ旅の経験のない中学時代の友人も参加してくれた。
この旅の行程の一部始終を20回のブログで記します。その旅は考えられないほど無謀で
危ない旅であったが、終わってみると呑気の旅であったことを思いだされます。
 日本で事前に出来たことは、レンタカーの手配であった。いわゆるネット手配をしたので
ある。レンタカー会社の営業所、借りる日時、車種、返却場所、費用など一切を日本で
ネット利用でできた。それと航空会社のチケットもネットで手配ができた。これは私の
本格的なネットデビューであった。今日はここまでを記しますが、明日はニューヨークに
着き、レンタカーを借りたところまでを記していきます。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・・照沼重輝

2016年12月20日火曜日

照沼重輝の中国彷徨記(紹興酒)・・・20

2016.12.20火 快晴 午前6:44
 義鳥から杭州方面に戻ったが、道筋は蕭山から銭塘江の大橋を渡り時点で真っ直ぐ
行けば杭州市の町に入るのだが、南に反れて紹興市に向かった。紹興は作家魯迅や
政治家周恩来の故郷でもある。私は魯迅の阿Q伝に出てくる居酒屋に行きたかったので
ある。この居酒屋はビールでも紹興酒でも茶碗でしか飲めない居酒屋である。つまり、
コップを使わない居酒屋で有名である。それと蔵出しされた紹興酒と水ピーナッツは
阿Q伝にも出てくるので、中国人の観光客でいつも一杯である。チッケトで臭豆腐と
ビールと水ピーナツを買い、席に着いた。食堂のおばちゃんタイプの女性が、無言で
チケットをもぎり、茶椀を置いていった。間を置くまでもなく、注文したものが運ばれてきた。
強烈な匂いの臭豆腐、お椀に入った水ピーナツ、地ビール瓶、紹興酒は最初から茶椀に
入っている。ビールで乾杯をしたが、そそくさに醤油色の紹興酒を私は口に運んだ。
芳醇な香りをもつ紹興酒は滑らかに口に入っていった。右手で臭豆腐を口に入れ、
左手で水ピーナツをさぐり、現地の味を一刻でも早く味わうとする姿勢で食し飲んだ。
紹興酒はほどなく体にしみわたり、私の目は和んできた。そうすると、紹興酒の力を
借りて、魯迅の人物伝を私の口から発し始めたくなるのである。何故魯迅に関し、
興味があるのかなと言えば、中国に行き初めの頃に中国関連書籍を雑読みしたが、
その中で魯迅の日本への留学記の中で茨城の水戸市が書かれていたからである。
魯迅は仙台医学専門学校に留学をした。仙台に向かう途中で、夜半に水戸市という
町を通過したと出てくるのである。魯迅は旅費のためか、時間のためか夜汽車で仙台に
向かったのである。私の魯迅に対する思いは夜汽車と水戸駅通過にある。それと、
臥薪嘗胆の山が紹興にあることも付け加えたいのである。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月18日日曜日

照沼重輝の中国彷徨記(商業地義鳥)・・・19

2016.12.19日 晴 午前5:23
 浙江省の奥地に世界の商人が集まる巨大な卸団地がある。そこは義鳥というのであるが、
日本人はあまり見かけないところである。上海から南西に約400kmの所である。交通手段
は、電車、バス、高速道路を利用する。私はいつも自家用車で行く。上海を朝の9時に出た
とすると、午後の2時ごろに着く。中国の南方特有の岩肌の間を縫って走る高速道路を走り、
様々な中小の町を見ながら行くことになるので、自分の目を楽しませることができるから、
何度行っても飽きない旅路である。時々、高速上に大きな石が落ちてきたリ、トラックの
荷物が落ちていたりする道路だから、注意をして走ることになるが、楽しめる道路である。
上海、桐郷、杭州、蕭山、碑頭、安華、義鳥の行程で行く。歴史上で有名は、この町の
出身者の兵隊は中国で一番に強いそうである。町に入ると目につくのは、世界の自動車の
デイラーが集まって出店している。理由は、車を購入する経済力が急速に高まった町で
あり、世界の貿易会社の支店などが設置され始まったからであると思う。次に、ホテルの
建設を多く見かけるが、これも人々の往来が多くなったことによる。私はいつも決まった
ホテルに宿をとる。四つ星ホテルなので安心できる宿舎である。このホテルは世界の人種
が集まり、人種ウォッチングに最適の場所である。アフリカ、ロシア、中東、ヨーロッパ、
アメリカなんでもござれであった。但し、朝食は中華食であったから、日本人は困らないが
他の国の人はどうであったろうか。
 次回は商業施設のことを記します。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月17日土曜日

照沼重輝の中国彷徨記(夜河の遊覧)・・・18

2016.12.17土 曇天 午前5:15
 千島湖の近くの流行ってない淋しいホテルに泊まった。夕食は山の中の田舎レストラン
で摂った。温かいビールと山菜、豚肉の不明料理等を食べて終わりにした。とても風景や
風情を味わうようなわけにいかない場所であった。ホテルの戻り、村の観光案内を読んで
みると、夜の8時に河昇りの遊覧船があることが分かった。船は100人くらい乗れる大きな
船である。中国の河は桁外れに広く、日本の河という概念では理解は無理である。
その始発ステーションに行ってみた。何処にこんな観光客がいたのか不思議になるほどの
人が集まっている。船を覗くと立派な観光船である。ためらわずに切符を買い、いそいそと
船に乗り、良い場所に座り、船が進む前方の暗闇に目を移した。蛍と虫の乱舞が照らし
出され、虫の音色が聞こえてきそうな雰囲気であった。客が一杯になると、船は汽笛を鳴
らし音もなく出港した。船のサーチライトで前方が良く見えるた。大木の緑の葉、猿が追っ
てきそうな岩肌、夜鳥の群れ、青白い月等が夜の行脚を醸し出している。船は静かに
河を上っている。最初は目を見張って見ていた景色も飽きてくると、自然に観光客の方に
目が移っていく。親子連れ、若夫婦、職場の仲間、恋人どおし、老夫婦を連れた子、
仕事で来て、ついでに観光している人等が見られた。船は1時間の遊覧を経て、広い
淵でUターンをして帰路に就いた。思うに、遊覧の1時間は幻想的な密林と河の水の
匂いで終わったのであった。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月16日金曜日

照沼重輝の中国彷徨記(杭州の奥)・・・17

2016.12.16金 快晴 午前5:17
 杭州の奥地には何度も行ったが、想い出の深い土地は千島湖である。台湾人を船に
乗せ、船頭がその船に鍵をかけ、全員を焼き殺し、財物を奪った事件である。当時は
大きな事件で全世界に報道されたから、知っている人も多いはずである。俺は中国人
とその千島湖に行ってみた。上海、杭州、建業、何とかいう地名を経て、約500km
西に向かった。杭州の奥の100kmゾーンは茶畑が多く、豊かな農民の家が点在して
いる、更に200km奥地に行くと別世界のようであり、素朴な生活ぶりの農民の家が
あった。安徽省の境まで行ってしまったことになった。そこに千島湖があった。何でも
旧ソ連との仲が良い時に作られたダムまであり、上海の奥は杭州、その奥の奥が
千島湖であった。果てしない広さを持ち、計りしれない深さを秘めたよな湖であった。
しかし、湖の中に川魚の養殖場が有り、その養殖場で昼食まで取れるという箇所が
あるのでそこに船で渡った。養殖場は浮かんでいて、大きな基地の全部が筏で作ら
れていた。筏の上には犬や猫が生息をしていたが、そこで住んでいる家族が飼って
いる。俺たちは水着に着替え、湖に飛び込み泳いだが、途中でゾッとした。若し、
筏の家族が俺たちを置き去りにするか、筏に上がれないようにしたら、俺たちは
全員が抹殺される。そして、俺たちの持ち物を奪うことができるのだ。俺はゾッと
して、早めに筏に上がり、泳いでいる全員の保護を何食わぬ顔をしてカバーした。
しかし、そんな心配はする必要もない昼食台が待ち受けていた。他の三人は泳ぎ
足りないような平和な顔をして、昼食のために水から上がってきたのであった。
危険だった千島湖の話でした。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月15日木曜日

照沼重輝の中国彷徨記(毛沢東の西湖別荘泊)・・・16

2016.12.15 木 快晴 午後3:44
 西湖河畔の毛沢東の別荘に中国外交官のお世話で泊まった。中国地図にも杭州市
地図にも載っていない。タクシーの運転士では連れて行って貰えない。なぜ地図に載っ
ていないかの理由は、毛沢東は絶えず狙われるので、中国政府が載せなかったと言う
のである。俺はこの宿舎に日本車の自家用車で入った。案の定、正門に中国軍人の
制服を着た歩哨が、宿泊する人を誰何するのである。おまけに歩哨兵が2時間おきに
巡察もしている。正宿舎に行って宿帳の記帳をしてから、小さい小屋に行き、勘定と
正式記録をする。そこで部屋を割り振られることになる。ホテル風の建屋かコテージを
割り当てらるが、希望すればそこの部屋に行けると言うわけでもない。ホテルの部屋か、
毛沢東が愛用したコテージ風建物かは、運次第となる。俺は運良くコテージに数回ほど
泊まれた。コテージの広さは60㎡の広さがあり、ベッドは超キングサイズ、バスルーム
は25㎡くらいの広さで、スポーツ器具も取り揃えてある。ベッドのシーツは申し分なしの
清潔さ、但し、ベッドの高さが欧米人向きの高さ、日本人の俺には少々不便であった。
夜半に起きて窓から外を眺めた時があったが、歩哨兵6名が銃を肩にしてイーアール
サンスーと掛け声を揚げて通り過ぎる場面に出会った時があった。西湖の湖畔まで
10mの距離に立っているコテージであったので、窓の先に歩哨兵と美しい夏の水面が
妙なコントラストであったことを思い出す。この宿舎は中央高級役人と地方高級役人だけ
が利用できる宿舎のようである。俺は中央の伝手でこの宿舎に日本人を何度か泊めた
ことがあったが、皆さん全員が感激をしてくれた。夜半に目を覚まし、寝つけづ、背の高
い窓から西湖の最高の景色を一人ボンヤリ眺め、中国の歴史と詩人の偉大な漢詩を声
を出して、朗読したことがあった。「烏鳴いて霜天に満つ、江風漁火、・・・・の寒山寺、
夜半の・・・・・に至る」俺も同じ気分になり、寝つけなくなってしまったことを思い出した。
中国の旅が何時も淋しくなるのは何でだろうか? 長い長い重い歴史を背負っている
からであろうか。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月14日水曜日

照沼重輝の中国彷徨記(西湖湖畔の食堂)・・・15

2016.12.14水 雨 午前6:15
 上海から250km西の杭州に西湖はある。電車ならば昔は3時間だが、今は2時間も
かからないで行けるし、高速道路で行けば2時間一寸で行けるところである。中国の地上
の天国は、蘇州と杭州という。私は多分に20回以上はこの町を訪問していると思う。
車で行ったり、電車で行ったりしたが、杭州は歴史のある巨大な町であり、南宋時代の
昔は首都でもあった。その杭州の町に有名な西湖がある。岳飛や蘇東坡などは歴史を
代表する貴人であるが、数えきれない有名な人を輩出した町が杭州であり、その杭州を
代表する有名な観光箇所が西湖である。私がこの町へ行く目的は、商談と日本からの
貴賓客を案内する時が多かった。上海を出ると、ビル群が遠ざかり、水田風景が暫く続き、
桑畑が出迎えて、二層や三層の農民の家が見えてくると、間もなく杭州である。高速を
降りると、高層ビルがやたらに多くなり、広いラッシュ中の道路を西に向かうこと1時間、
美しい西湖が真正面に見えてくる。大きな西湖を1周するには1時間を要するであろう、
俺はいつも西湖の周りを、四分の一程度の時間を走ったところで、左に折れて有名な
うどん屋に向かう。この店はいつも超満員である。今までガラガラの時にお目にかかった
ことのない有名な店である。中国人でも一度は行ってみたい有名な店である。
 西湖を見ながら、有名な沢庵みたいなお新香と日本でいうなら田舎風の白いウドン、
ボールで運ばれる川魚のスープを食しながらの昼食は格別である。食べ終わって
寛ぐ時間は無い、早く開けてくれないかと次の客が並んでテーブルを待つのである。
口に入っている食物を嚙みながら退席をする羽目になる。そんな有名な店が杭州
にある。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月13日火曜日

照沼重輝の中国彷徨記(浙江省の夜に)・・・14

2016.12.13 火 曇天 午前4:45
 いつだったか、上海から自家用車で杭州湾を跨いで台州に行った。杭州湾を跨ぐ橋ができ
たので見学方々輸入品の発掘をしようとでかけた。橋を渡り、浙江省の端まで走り、その日
は台州の山の中のホテルみたいなところに泊まった。夜の食事は農家が経営する食堂で
摂れた。面白いことに、肉の値段がべらぼうに高く、肉野菜炒めと白飯、スープを添えて
注文した。ビールもついでに頼んだが、いつものように中国では冷えていない。我慢をして
ビールを飲み、白飯をスープで流し込んだ。山の中腹の宿屋であったので、徒歩で帰る途中
の夜の青空が表現できないほど美しかったことを思い出しています。黒々とした山の天辺の
方に青白い煌煌とした月が出ていた。暫く足を止めて、月を仰ぎ、私の深い苦しみや責務を
思い出し、一方未来の夢を思い出し、天秤にかけて思索をしてみた。苦しみと楽しみの重さ
は、私の今の状況においては、バランスが取れているのでないかと結論をつけて、思索を
中途で終わりにした。これ凡人の生き抜く方法の中心となるべき思考方法だと考えた。
思うに、人生は甘い砂糖と辛い塩は同等の量を食べるようになるのである。だから、尻込み
をしないで、これからの人生は塩も砂糖も同じ量を躊躇なく食べようと考えた。これが旅行の
大きな収穫である。宿屋に帰るまで、何か得した気分になった。旅をするだけ、思考方法が
増えるのである。日本人よ、老若男女誰も旅に出ようぜ!旅しない貴人はいなかった。
                   アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

 

2016年12月8日木曜日

照沼重輝の中国彷徨記(福州市)・・・13

2016.12.8木 晴 午前6:02
 上海から石材の購入先の相手探しで行った。上海から1時間半のフライトで行けた。思い
出せないが何故か軍人の案内で福州市を廻った。泊まったホテルは五つ星で立派なもので
あった。ホテルの中庭が広く、中国古来のつくりのようであり、私たち5人はそのホテルで
食事をしたり、バーで飲んだりをして楽しんだ。次の日の仕事は、石材の工場を探さなくては
ならないので、朝から軍人の車で石材工場を探した。道中に石の建造物があると、そこで
車を降りてそれを見たりしながら、福州市周辺を彷徨った。福州市の石質は柔らかくて、
墓石などに役に立たないものであることが徐々に分かりかけてきたので、私の発見力と
探求力が落ちてしまった。色々探しまわっているうちに建築物に有用な石は、福州市から
800km程、南下したアモイの近隣の山から出る石が良質であることが判明した。そこで
福州市周辺の観光をしようと決めて町の100km周辺を観光した。1000年前に埋もれた
お寺や弘法大師の漂着した海岸等の観光地を求めて歩いた。そのお寺は、数十年続いた
砂嵐で埋もれたようなお寺であった。寺の僧に案内されて、地下の寺の中に入った。
寺と一緒に埋もれていて生きていたガマガエルが、水槽の中に生息していた。このガマ
カエルは1000年も生きていたのであろうかと疑問を感じながら見つめた。日本にもいる
ような模様のカエルであった。カエルの目がジッーと私を見つめている。私はカエルに
「どうやって長年生きていたの」と話しかけたが、無言で私をカエルは見つめ続けていた。
思えば、人間の浅ましい疑問かなと考えて、その答えを待たないで次のスポットに移動
し、大汗をかいて寺の外に出た。何とも不思議なカエルであった。何時までも忘れれない
不思議な見学であった。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月6日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(着いた)・・・12

2016.12.7水 晴 午前4:53
 海口から南へ400kmで三亜に着いた。この島は小さいが人口も結構あるし、観光
スポットも感心するほど多くあった。三亜に着くまでの道のりの沿道の観光地を巡り
ながら走って、三亜に着いた。流石に南の果ては、湿度と温度が高く、正月なのに
泳いでいる人がいる。しかし、波打ち際は遠浅でなく、入ればすぐにドブンである。
誠に泳ぎにくい海岸のようであるから、浜に精通していなければ危ない海岸である。
夕刻にホテルでチックイン手続きをやり、部屋に落ち着いた。窓を開けて大海原を見ると、
南国のギラギラした海らしい風景であった。直ぐにも海に向かいたかったが、じっくり
と海に行くのも悪くないなと思い、ホテルの設備を案内書で見ると、地下が飲食店街に
なっている。後に行くことにしたので、さっぱりとシャワーを浴びることにする。
 夕方のシャワー後にホテルの地下に行った。盛りだくさんのフロアーであり、南の島の
解放感がただよっている。私たちは店を冷かしながら、地下見学をした。そして、
ロビーに上がり、ガーデンに出て、夜空を眺め、南十字星を仰ぎ、南国の夜を満喫する。
ホテル、玄関前の白砂、夜空が全ての南国風景であり、楽しい旅行であったことは、
間違いありませんでした。次回は福建省福州市の短い滞在記を記します。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月5日月曜日

照沼重輝の中国彷徨記(南方方面)・・・11

2016.12.5月 曇天 午前5:19
 海南島を南に南に走り、三亜に向かった。途中の岬で休み、少数民族の施設の見学を
し、心が和み、疲れが取れた。少数民族の子供をビデオで写し、その映像をみせたら感激
した様子だったので、ビデオをプレゼントしてしまうかなと思ったが、思いとどまった。プレ
ゼントを映像管理が無理だろうと思ったからである。
 現地族の子供と別れて更に南の三亜に向かった。左手に太平洋を見ながら走る。窓を
開けると、南からの潮風が匂う。高い椰子の木がツンと青空に向かっている。白砂には
漁民の小船が船体を乾している。正に南の浜の理想の美しい景色を、先ほどから数時間
を眺め続けられている。私は先ほどから北の浜と南の浜の大きな違いを考えていた。
北浜には雪と北風が似合うが南浜には椰子の木とギラギラ輝く太陽が似合う。今は南の
浜沿いを、更に南下しているのだ。ラジオからインドネシア的な音楽が流れている。私の
心は南方のベトナムの方に向けられていた。私には朝日、白砂、椰子の木、入道雲、
青雲、岸で砕ける波、漁民の小船、波打ち際で戯れている子供、太陽光の海面での
反射光、南風、南十字星、夜半の海等は全く詩的な気分になってしまうのである。
今夜の宿の三亜では、何を楽しもうかと考え始めた。間もなく三亜に着く。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月4日日曜日

照沼重輝の中国彷徨記(島の朝)・・・10

2016.12.4日 曇り 午前11:33
  海口を振り出しに南へ南へ走った。昨夜に泊まったリゾートホテルから早朝散歩に
出た。高い椰子の木の下を部落の方に歩いた。子豚が野放しで飼われている風景や
農民が朝の軽作業をしている風景を眺め、俺の心は和むのである。道路は舗装され
ていないので、足元を見ながら小一時間を歩いた。遠くの青い空にジェット雲を見な
がら歩いたり、目を落として白砂を眺めたりして、更に奥の部落に入っていった。
中国奥地の海南島の島の雰囲気を十分に味わえたので、ホテルに戻り、現地の朝食
のバナナだけを食べてから、ホテルを出発した。更に、南へ南へ車を走らせ、地名の
知らない岬で休息をとるために、岬の最先端に入っていった。すると、現地の若者数人
が、私たちの車を取り囲み、ハンドルが操作できないようにして、先導をし始めたので
ある。案内された駐車場は、現地民が占有利用している駐車場であった。初めは
恐怖があったが、自分たちの収益に関するだけの先導であることが解り、我々はホット
した気分で現地民に接触をし始めた。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月3日土曜日

照沼重輝の中国彷徨記(海南島縦断)・・・9

2016.12.3土 晴れ 午後7:51
 5人で海南島の縦断をした。海口から三亜までの約400kmである。楽しかったな、気の合
う友人だけ5人で縦断をした。ミニバンを貸し切りで南の果ての三亜まで走った。太平洋側を
左に見て走った。水平線が遠くに霞んで見えたが、何が見えたかを突き止める必要が無い
旅であった。水平線と入道雲、椰子の木と波打ち際、青い空と砂浜、潮の匂いと南風、夜の
南十字星等を夢見て走った。一日の走行距離は約200kmが限度であった。途中の東山温
泉という地名の所に泊まった。確かにプールが温泉であり、保養地のような雰囲気を醸しだ
している所であった。俺たちは水着になってプールに入り、年の差もなく水遊びをしたり、
プールサイドで寛いだりした。大きいプールで50mの長さが十分にあるプールであった。
プールサイドには椰子の木とビーチベッドが一対に並んで、遊ぶ我々を待ち受けていた。
俺たちは泳いだり、プールに浮かんで南国の夜を楽しんだ。暫くすると、肌寒くなることを
感じたので、部屋に戻り、ベッドに入ったが、鄧小平の伝記テレビをやっていたので見たが、
美化的に表現されたものであった。しかし、鄧小平は偉人であることには、日本人の俺も
同調できる。凡人が偉人をどうのこうのいうのは自由だが、そのまねを凡人はできないの
である。鄧小平は中国の建国をやった一人である。だから偉い人である。凡人は理由なく
賛同しなくてはならない。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月2日金曜日

照沼重輝の中国彷徨記(海南島)・・・8

2016.12.2金 快晴 午前5:25
 海南島には一回だけ行った経験がある。友人たちと5名で上海から飛んだ。約2時間の
フライト後に海口空港に着陸をした。海口は海南島の首都であるから、大都会にである。
遠く昔には流刑の島でもあった。俺の知っている歴史上の詩人である蘇東坡もこの島に
流されている。島暮らしをしていた蘇東坡は「青山一髪是中原・・・・」と赦免されて中国大陸
に戻る途中に詠んでいる有名な漢詩を思い出します。日記を見ないと年度は思い出せない
が、正月一日をこの島で迎えたことがあった。この島に着いた途端、季節は冬から夏に
なる。上海の気温2度、2時間のフライト後、機外に出ると気温は27度となる。着ていた
冬衣料をカバンに入れて半袖に着替えることが必要であった。夕方に着いた私達は、
夕食をソコソコに食べて、深夜の日付が変わる瞬間を迎えようとして早めに休んだ。
 12時ジャストから翌年に代わる瞬間を全員でホテルのレストランで迎えた。一斉に
交互に「あけましておめでとうございます」と新年の挨拶を交わした。ホテルの灯りで
照らされた椰子の木も新しい年を祝っているようであった。ここでしこたま酒をやらかした。
地ビール、紹興酒、白酒などホテルの酒蔵が空になるのでないかと余計な心配をするほど
であった。ヘロへロになりながら部屋に戻り、新年の年を深酒のため、ベッドで終日を過ご
すことになってしまう等とは思いもよらなかった正月になってしまった。翌日から、この島を
縦断することになり、楽しい旅の始まりを次回に記します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
遣唐使や遣隋使の船のようです
 

2016年11月30日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(フェリーで戻る)・・・7

2016.11.30水 曇り 午後16:09
 コロンス島からフェリーで戻るようになるが、島の後から戻るのは結構足を使うこと
になる。島に上がる時は海を左手に見るが、戻る時も左手に海を見て戻る。このように
言えば島は丸い形をしたお椀型をしていることが分かる。周囲は4km無いような島であ
るが要塞に使えば万全の守りができる島である。大陸側から攻めても海があり、上手く
上陸しても山頂から野砲を撃つことができる島である。ここに鄭成功は南シナ海の制海権
の拠点を構えた。但し、現代においては、ロマンテックで麗しい島と言える。私は上る時に
左手に見えた砂浜を散策し、厭きたら島をドンドン登り、島の後で思索に耽り、英雄の館
では休息をとり、喉が渇いたらカフェリーの売店まで降り、飲み物を口にする。適度に
時間を過ごして、帰りのフェリーに乗り、厦門の港まで帰るのが常であった。面白いのは、
帰りのフェリーは何時も一杯で座る席が殆んど無かったことである。何時も一杯なのは
観光客や島の観光設備の関係者の方々であると思う。島から陸に戻る客の顔は何かと
淋しそうである。何でだろうか、余りに美しい景色を見てきたせいだろうか、その景色と
さよならをするからであろうか、未だに答えが出ていない。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
始皇帝の陪葬墓

2016年11月26日土曜日

照沼重輝の中国彷徨記(コロンス島の後)・・・6

2016.11.26土 晴 午後16:48
 カフェリーでコロンス島に渡り、坂をドンドン上に登る。中腹にお寺と大きな吊り石が
ぶら下がっていた。更に、上に登ること1時間が経過、そうすると島の背面にでた。後ろは
は断崖絶壁、切り立った絶壁にあたる波しぶきが目に入った。絶壁の上にある小道を右の
方に歩いて行くと、大きな鳥の檻があった。その檻は巨大な鳥籠になっていた。鳥籠の中は
南方特有の鮮やかな色をした鳥が入っていた。鳥は種類ごとに群れを成して飛んでいる。
日本では見たことのない景色である。そこを横目で見ただけで、更に前に進む。今度は大き
館が目に入ってきた。中に入ると、この館は鄭成功記念館であることが分かった。日本人の
母と貿易商の中国人との間に生まれた鄭成功は、幼くして中国渡り、学問を身につけて
大人物に成長した武人である。揚子江を遡上し南京攻撃に向かったり、台湾島からオラン
ダ人を駆逐したりした。中国の南方では英雄扱いをされている人物である。その鄭成功
の記念品や歴史物語を収集してある館に入り、暫し見学をした。何といっても、日本人の
私には、鄭成功は特別な興味を抱く人物である。次回は、フェリーに乗り、厦門に戻るを
記します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
  
             
中国上海の夜

2016年11月18日金曜日

照沼重輝の中国彷徨記(アモイ)・・・5

11月25日金 晴 午前5:11
 過日、水戸ロータリークラブの例会で卓話をした。タイトルは「実録・
 アメリカ大統領選挙」でした。私なりに面白く可笑しくした内容であったが
評判は疑問です。
 さて、アモイには何度も石材輸入の仕事で行きました。歴史では鄭成功
物語があります。最近では司馬遼太郎さんが書いています。綺麗な海と
小さな島の・・・島が印象に深く残っています。アモイの岸壁からフェリー
で小さな島に渡ります。石の坂道を登ると、更に坂道が急になってきます。
中腹にお寺が有り、大きな石が中吊りになっている観光名所があり、その
高台から南シナ海の一部を望めます。青い空、紺碧の海、真っ赤な太陽、
白い波シブキ、海に浮かぶヨットやクルーザー、ヤシの木、南国の音楽、
どれをとっても和やかな景色が目に入ってしまいます。一服が終われば、
更に島の上に向かって歩きます。島の後ろ側には、更に素晴らしいい
景色が見られます。次回は島の後ろ側を記します。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                                   何とも不明な食べ物

2016年11月16日水曜日

照沼重輝の中国彷徨記(深圳でゴルフ)・・・4

2016.11.16水 晴 午前4:25
 トランプショックで1週間を掲載できなかった。アメリカの政変というのか、
トランプショックというのか、形容できないでいます。
 今日は中国が開放政策を取り入れてから間もなく深圳にゴルフ場ができた
というので遊びに行った話を記します。香港から電車で深圳に入り、ゴルフ場
にタクシーで行き、プレーをしました。できたばかりのゴルフ場であったから、
スタッフたちもバタバタしていたようでした。その日のプレーは私たち四人組
だけでした。しかし、待ち構えていたキャデイたちは大勢でした。私たちは各々
キャデイを選び、貸しクラブでプレイをしました。キャデイ達もある程度の教育を
受けてはいましたが、私たちにとっては未熟なキャデイ達で、グリーン上の
プレイになるとキャデイ達は次のテイグランドに行って休み、キャデイ同士の
会話に夢中でした。大きく反れたボールなどは探さずにいました。プレイヤー
が自ら探す始末でした。そんな是也ですから私たちもスコアは大きく崩れ、
何とも満足できないゴルフとなってしまいました。スコアを他の正に出来ない
のがゴルフでもあることは分かっています。拝
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年11月10日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(敗北)・・・3

2016.11.10木 快晴 午前7:03
 アメリカ大統領選挙はドナルド・トランプの勝利となった。アメリカ情報を
まとめると、以下の理由で彼が勝った理由と結論を記します。
 1.アメリカの体制側が挙って応援したので、被体制側の人々が自己の
   意志で反対にまわったこと。
 2.キリスト協会が、民主党の性政策に反対を唱え、一斉に選挙運動員に
   なったこと。
 3.仕事がなく、何かを変えてもらいたいと思っている人々がトランプを
   応援したこと。
 以上は、政治に素人の私の結論ですが、アメリカ人情報をもとに考えた
ことです。
 明日からは、中国彷徨に戻ります。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                                マンハッタンの政変

2016年11月9日水曜日

照沼重輝の中国大陸彷徨記(広東)・・・2

2016.11.9水 天気不明 午前4:59
 初めて広東に行った時の話から、
 私は中国との海産物貿易をしている。そこで乾しアワビの取引先に表敬訪
問をしたことがあります。早春の訪問であったが、とても暑かったことを思い
出しています。流石に世界の商人が貿易に訪れる町である。乾しアワビの
製造者の2人と私の中国スタッフが混ざり合計5人で訪れました。上海から
乗り継ぎ夜遅くの飛行機で空港に着きました。迎えの使いに、五つ星のホテ
ルに案内をされ、宿泊しました。
  翌朝は、広東最大の飲食店業店を訪れ、昼食を御馳走されてびっくり
したことを思い出しています。その店の豪華さは金ぴか過ぎ、豪華なシャン
デリアや絵画が惜しみなく掲げてあり、おまけに借景が素晴らしく、ひと時ほど
現在を忘れてしまうほどでした。超高級料理をオーナーの説明と一緒に食べ
たことを思い出しています。次の日は、骨董店に行き、目の保養をしたことも
思い出しています。最後の晩は、彼の経営する空中一番という店の天辺で
の食事でした。空中がドームになっていて、突然に開くのです。この部屋での
食事は誰がするのだろうかと思いながらの食事をしました。まだまだ、おまけ
のことを記載したいのだが、早朝トレーニングに出かけますので、終わりにし
ます。
             アメリカ・中国馬賊隊・・・照沼重輝

2016年11月8日火曜日

照沼重輝の中国大陸彷徨記(香港)・・・1

2016.11.8火 快晴 午前6:37
職場の仲間を誘い38年前の香港に行った時の話から、
 子供の頃に海に行っては水平線の彼方を想像した。夏の海では海釣、秋の海
では散策、冬の海では運動、春の海では水平線の彼方までキラキラ輝く波を観
賞した。早く大人になって海の向こうに行ったみたい。海を見るたびに考えた。
 就職してから多少の長い休みを取れたので、職場仲間を誘い香港に行った。
飛行機に乗り、これでやっと海外に行けると興奮したことを思い出した。3時間
の空路であるが夢の時間であった。青い空、輝く太陽、日差しが窓から注ぎ、
経験したことのない明るさであった。機内食を食べたが美味しく、スチュワー
デスの笑顔が眩しかったことを思い出す。飛行機は町の赤や青のネオンの
渦の中を降りて行った。日清製粉のネオンが空港の横に輝いていた。地元の
ガイドが出迎えてくれ、たどたどしい日本語で案内を始めた。俺たちはホテル
に案内をされ、空港で買ったジョニーウオカーで乾杯をしたことを思い出した。
 翌日から観光を始め、慕情という映画になった高いところから街を眺めたり、
船の上での食事やマカオに遊んだ。小高い丘から中京の広東方面を眺め、
これが外国の匂いと食べ物だとしみじみ思いに耽った。3泊4日のジャルパッ
クので初めの頃の海外旅行でした。その後に海外旅行が病みつきになり、
250回以上のアジア・アメリカの旅に出るようになった。次回は広東省の旅を
記します。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝


2016年11月7日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(最終回)・・・24

2016.11.7月 快晴 午前6:56
 日本に帰ってからの回想、
 今回も2週間のアメリカ彷徨を終えて無事帰れた。法律違反
やアクシデントは一切なく、山山や海を自然に愛でられたし、
大都会の人々の坩堝に飲まれることもなかった旅行でした。
 思えば、アメリカ大陸の縦断横断を始めたのは、還暦の年
であり、それから8年の間に10数回のアメリカ大陸彷徨の
旅をした。今回はヒラリーアメリカ大統領候補の選挙事務所
を訪ねた貴重な経験もできた。それにマンハッタン5番
街の駐車場に車を乗り入れたことで、マンハッタンの物価
の価値を身をもって知った。歴代アメリカ大統領が履く靴を
売り続ける靴店にも行けた。私はケチな性格ではないが、
1泊のホテル料金は平均で6万であるが、このホテル代を
3万弱で泊まる技も身についた。おまけに、ハーバード大学
とイエール大学にも行けた。これで、二つの同大卒のエリー
と学問以外の話を身近にできる。笑笑笑。ペンシルバニア
の農産物と超縮小ゴルフの発見はビジネスに繋がるかも
しれないと企画中である。国内飛行機の乗り継ぎ技も発見
できた。長丁場の海外旅行で何もなくても楽しめる技もつい
でに身に着いた旅行でした。
 旅行数の多さ広さは思考領域の枠を広げる最良の道具で
あると思えた。次回から、中国大陸彷徨を記します。
       アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
アメリカの宿舎でウイスキー・ビール・ツマミを並べて寛ぐ
 

2016年11月6日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(再見、USA)・・・23

2016.11.6日 快晴 午前5:00
 ニューヨーク、ボストン、ニューヘブン、ペンステート、ハリスバーグ、ダラス
を廻り帰国した、まとめての話。
 10月4日にアメリカに向かい、帰国は10月18日の2週間の旅をしてきた。
ニューヨークではアメリカ大統領候補者のヒラリー選挙事務所に陣中見舞い、
その後に5番街を遊泳、北に向いボストンのハーバード大学を参観、NYに
戻る途中でイエール大学も参観、NYマンハッタンで歴代大統領ご用達の
靴屋で土産の靴4足購入、ニュージャージーに飛んで宿泊を繰り返し、山野
に遊び、NYに戻り5番街で夕食、大統領テレビ討論会はホテルのテレビで
見た。帰国する友人をJFKに送り、ペンシルバニアに農業産品の発掘に
向い、ハリスバーグで新ゴルフゲームを発見観察、NYに戻りラガーデイア
空港からダラスに移動、ダラスでは企業パートナーのオフィス兼宿舎で焼肉
パーティ、裕福層の住む町の近くででゴルフに興じ、連夜の歓迎パーティで
胃袋が疲弊、その後に3日過ごした宿舎を後にしての帰国でした。
  思うに、アメリカの人々の生活感はリッチで人生の楽しみを心得ている
ようでした。社会の物的施設は十分に近く備わっていて、アジア人から見れ
ば何不自由があるのかと思うような生活ぶりでした。不自由と言えば精神
的満足感であるのでないかと考えてしまいました。また来るとアメリカ大陸に
言い、日本に戻ってきました。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年11月5日土曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ダラス空港発)・・・22

2016.11.5土 曇り 午前6:39
 ダラス空港から帰国の時、
 空港に二時間前に着いたので、ゆっくり搭乗手続きができる。車から荷物
を下ろし、カートに積んでカウンターに向かった。JALカウンターに受付嬢が
待ち構えているので安心しながら前に立った。パス―ポートを出して、キョロ
キョロしていたら、何だか様子がおかしい。受付嬢がさかんにキーを打って
いる。どうやら私の名前が出てこないようである。JALの申し込み表を出して
くださいと言われたので、カバンからファイルを出し、その中のJALから貰った
記録表を出した。受付嬢に「違う」と言われてしまった。慌てたが、時間がある
ので安心感を戻し、「どこ?」と聞くと、カウンターが三つ離れた場所を指され
たのでそこに向かい、搭乗手続きをやり直した。ここで分かった、JALとアメリ
カン航空の共同運航便であるから、アメリカに向かう時はJAL機で日本に向
かう時はアメリカン機となる。受付嬢の手際のよい業務で簡単に搭乗券が
出た。出国ゲートの検査もスムーズにとおり、待合室に入ったが、搭乗ゲート
が多数あるので探すのに苦労をしてしまった。ダラス空港は巨大なので、
一階や二階、それに3階等の搭乗ゲートがあるから、迷子になりがちである。
アメリカン機のゲートは三階のトレインで二つ三つ離れた搭乗口に向かう
のである。私はダラス空港は何度か訪れているが、いつもパッパとはいかな
い空港の一つである。無事、機内に入り座席に座り、一時間遅れの出発と
なったが、帰国便は日本に向けて飛び立ったのである。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
日本に向けて飛び立つ準備のアメリカン機


 

2016年11月4日金曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ゴルフと帰途)・・・21

2016.11.4金 快晴風冷たし 午前6:51
 ダラスのゴルフ場での話、
 アメリカ白人三人組を相手にしてワンプレーが終わった。カートをカート置き
場に戻し、係員にサンキューを発し、スタート前広場に戻ったら、三人組がい
てサヨナラの握手を求めてきた。私は1人一人に礼を述べながら丁重にサヨ
ナラを言った。最長老のボスが丁重に握手をしてくれた。思うに、彼のボール
を何度かバンカーから出したり、バンカーを撫でたりの礼を尽くしたことに対す
る礼だと思えた。ゲーム終了間際に「グッドボーイ」と言われたことを思い出し
た。私は三人組が立ち去り、車で戻るまで礼を何度もして見送った。丁重すぎ
たかもしれないが、清々しいゲームの終了を楽しんでいたのである。勘定は
受付の段階で終わっているので、郁君の迎えの車に乗り、事務所兼住宅に
戻った。その夜は、私の奢りで中華料理店で企業パートナー達との宴会を
楽しんだ。明日はダラス空港から一人帰国と思うとふと淋しさがただよった。
 宿舎に戻り、明日の荷物の整理をしていたら、更に淋しさがつのってしま
い、予定変更してあと二三日を過ごそうかとも考えたが、それもできない
身分であることも、更に淋しさをつのらせたのであった。翌日は早朝の5時
に起床、宿舎発7:00、空港へ8:00に到着、離陸9:45、誠に日本人的
思考となったなと考えていたら、眠りについてしまった。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年11月3日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(残りハーフ)・・・20

2016.11.3木 晴れ 午前5:52
 毎日毎日寒さが押し寄せる深い秋の朝です。今日は祭日だが仕事が
あるので緊張感をもって起きた。ダラスの楽しき日々を思い出して記し
ます。
 午前のハーフは1人でプレイをした。午後になり後ろの白人三人組が一
緒にやろうと言ってきたので合流した。三人組の1人がボスであり、年は
97歳という、後輩役は私と同じくらいの年で2m近い人であり、もう一名は
97歳のボスが乗るカートを運転しながら、替え添え役をしている人であっ
た。三人組が私に先に打てという。素直にテイ―グランドに立って、一打目
を打った。ボールはファインショットで三人組から「グーショット」のお褒めを
いただいた。次にご老体がテーグランドに立ち、ゆったりとした、いかにも
隠居株の打ち方で一打目を打った。私は迷った、他の2人がグーショットを
言わないのである。確かにグーショットを言うか言わないかの瀬戸際の
ボールである。残る二人が交互に打った、私は「グーショット」の連発を
した。私より数十ヤードは先に飛んでいる。2m近しの男は、どうだと言わ
んばかりに私を見た。私は親指を立てて彼の目に入ったのを確認して
から手を下ろした。正に日米対抗のゴルフ大会となってしまった。孤軍の
日本軍対連合軍のアメリカ軍の第二次世界大戦のようだと言いたかった
が、そこまでの英語の単語が出ないので口を結んだ。97歳のボスを
面倒見る後輩と遠慮なく面倒を見てもらっているボスの先輩後輩の
情は素晴らしく輝いていた。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年11月2日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(テキサスでゴルフ)・・・19

2016.11.2水 晴 午前5:32
 私はテキサスのダラスで日曜日に快適な朝を迎えた。いの一番に今日
は何をするかを考えたら、ゴルフが一番だとの結論に至り、どこが良いか
をベッドの中で考えた。宿舎の近くにゴルフ場があるので朝の散歩がてら
に行ってみようと思い、郁君の車で行ってみた。ところが高級クラブでメン
バー制断られてしまった。カウンターで聞いたら、近くにパブリック制の
ゴルフ場が有るという。ではそこに行こう考え向かった。立派なメンバー制
クラブに負けないようなゴルフ場であった。1人でカウンターに向い、受付
をしてから、カートに自分でクラブを積んだ。一番ミドルコースのテーグラン
ドに立った。分譲地の空き地を使ったゴルフ場であるが広々としている。
記念にビデオを写しながらプレイをした。日本のゴルフ場と比べても遜色
ないコースである。
   左側幅十分、右側スライスを注意すれば大丈夫、左肩を十分入れて
顎を引いて、ゆっくりしたスイングで力を抜き、つま先重心で打った。ボ
―ルは見事に弾道が普通のコースでグリーンの真ん中に飛んでいった。
カートに戻りボールの方向にアクセル一杯で向かった。グリーンの良い
場所にボールがあったので、空かさず第二打目をグリーンに向かって
スプーンで打った。これも良い弾道で真っ直ぐに飛んだが、落ちる瞬間に
右の方に反れた。パーオンならずでピッチングで三打目でのせた。パター
を取り出し、カートをカート道においてパターを持ってグリーンのボールに
向かった。左フックのラインを読んでパターを打った。20cm残して入らな
い、最後はチョコンと打って入れた。ボギーで上がった。先ず先ずである。
  そして、2番ホールのロングにカートを走らせた。気分上々、体が軽
い、空は青空、口笛でも吹きたい気分になってきた。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
住宅地内に普通のコースが備えてあるテキサスのゴルフ場

2016年11月1日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(テキサス入り)・・・18

2016.11.1 火 雨 午前6:11
 ニューヨークラガデイア空港からテキサスに向かった。飛行
時間が3時間というから約2000kmである。安売りチケット
なのでお茶も水も出なかったが、安定飛行でダラスのエアー
フォート空港に着陸をした。中国系アメリカ人の友人の出迎え
を受けて私たちの事務所兼宿泊地に辿りついた。その日は
日本人では贅沢感のあるような待遇を受け、その夜は痛飲を
してしまった。大きなスペースの家で、良く整備された庭に
プールが有り、満々と清潔な水が満たされていた。夕方にな
ると一斉に庭木にイルミネーションが灯り、幻想的なテキサ
スダラスの夜を過ごした。案内をされた私の部屋は二階の
来客用の清潔感のある部屋であった。その日は早めに
休み朝までぐっすりとなった。ベッド上で日本から今までの
移動距離は飛行機が10000km、アメリカ国内の運転で
1800km、国内の飛行機が2000km、合計15300km
を移動したことになる。無事故、無違反、過労等のアクシデ
ントは一切無かったことを神様一切に感謝して眠りについた。
       アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年10月30日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(西からNYへ)・・・17

2016.10.30土 曇天 午前6:46
 NYから350km離れたペンステートで農産物を発掘し、更に100km離れた
ハリスバーグで新種のレジャーを発掘、そしてNYの戻るためにIN80号線に
乗り、高速を飛ばした。40トントレラーを次々に追い抜き、オハイオ州に入り
NYに戻るために、マンハッタンから50km手前の知らない町に泊まった。
そこは何と偶然に8日前に泊まった同じモーテルであった。カウンターの
インド人から「このモーテルが好きなのか」と言われたので、面倒くさいので
「イエス」と言ったら喜んでいた。このモーテルは凡そ客室が100以上もあり
出来たばかりのようであった。客のために中華料理店があり、夕食は中華で
済ませた。中国人の男が2名、中国女性がママも含めて4人の家族経営の
ような店であった。青島ビールを飲み、麺類と一寸したツマミの夕食であった
が、アメリカでの醤油系の食事は、東洋人にとっては貴重な食事である。
何と言っても醤油系食事はアジア人にとって元気が出るのである。
  翌朝、早朝にモーテルを出た。既にマンハッタンに勤めに出る人の車で
ラッシュ状態であり、潜り抜けるような運転でジョージワシントン橋を渡り、
マンハッタンの北側を抜けて、国内方面の飛行場であるラガーデア空港に
向かった。同飛行場のレンタカー会社に車を戻し、そこからバスで発着場
に行った。安売り航空便なので、搭乗手続きの全てが機械によるセルフ
サービスである。ここでは手続きで大変な苦労をした。機械の操作は
英語によるコンピューターであり、いちいち辞書を引かなくてはならない
が、そんなことをしていたら後続に叱られることになる。絵や英語が出てく
るが慌てるとミスを生じ、初めからやり直しとなる。一応全ての手続きが
終わったので、一寸観察を試みた。アメリカ人はコンピューター慣れをして
いると思えた。理由は老若男女が、この操作を自然にやっていた。日本国民
も何らかの方法で、追いつくべきであると考えた。間もなく、搭乗時間がやっ
てくるのでゲートをくぐった。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
戦闘意欲旺盛にならないと大陸を縦横無尽に出来ないのだ


 
 

2016年10月29日土曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(NYから移動)・・・16

2016.10.29土 雨 午前5:00
 今日は午前4時に起きてしまった。天気雨、外はまだ暗闇であり外気寒し。
アメリカの二週間は別次元で生活をしていたような気分であったが、特にNY
からペンシルバニアに抜ける昼過ぎから夕餉の時間帯が素晴らしかったの
で投稿します。
 NYJFK空港で日本に帰る友人を見送り、新農産物の発掘のためにペンシ
ルバニア州のペンステーに向かう時の模様です。IN80号線で西に向かって
走ると、先ずは綺麗な紅葉に出会います。紅葉の高さと太さは日本の
倍以上、赤は人工色より赤く、アメリカ大陸の青空にピタリとマッチし
ていた。そんな風景を車の窓越しに期限なく見られたのである。5時間
400kmの運転であったが、ずーっと見られ、夕餉の暗い時間で紅葉と
さよならをさせられた。今でも、その紅葉の色が忘れられません。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                          北に向かうIN80号線の紅葉

2016年10月24日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(5番街)・・・15

2016.10.24月 天気不明 午前5:33
 アメリカから帰って1週間が過ぎた。そろそろ毎日の生活が順調になって
来る頃だ。頭もすっきりしてきたのでいろいろなことを思い出せる。今日は
NYマンハッタン五番街の実感を記します。
 5番街には10回程行きましたが、殆どが通過をしただけでした。今回は
その5番街の高級ホテルに泊まり、食事と散策をしました。5番街
は世界からの観光客で溢れていました。その中でもアジア人を多く見かけ
ました。中国、韓国人が多く、日本人の若者よどうしたんだ、と思いながら
歩きました。その後、夕食を有名な店で食べることにしてその店に入りま
した。世界中の若者が楽しそうに食事をしていました。あらゆる言葉が行き
来し、若者のエネルギーが満ち溢れていました。
 すごいスーツや宝石、対比的に1ドル7前後の雑貨店などの店は、どこも
一杯で、地球上のあらゆる物品が溢れているような気がしました。
 ホテルは通常は1泊が6万円ですが、日曜日の夜なので半額以下で泊
まれました。しばらくぶりに豪華なホテルに泊まりましたが、ただ寝るだけで
もったいなく思いました。
 不思議な大都市ニューヨーク、しばらくするとまたニコチンが切れたように
また行きたくなる街です。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年10月23日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(想い出)・・・14

2016.10.23日 曇り 午前5:51
 アメリカの二週間の旅を終えて帰ってきた。今はとにかく忙しいのでブロ
グは休みがちになっています。今日も仕事の遅れを戻すのに午前5時に
起床、間もなく仕事場に向かいます。
 そこで、想い出の一つを記してみます。12時間以上のフライトが間もなく
終わるアメリカ東部時間の午前7時頃飛行機からの見える眼下の景色は、
無数の湖とキラキラ輝く東の空でした。あと少しでニューヨークと思うと
胸が高まり、気合が入ってきます。体に力が沸き上がり、眼は若人のよう
に引き締まります。数分ごとについ眼下を眺めて、期待や希望を膨らませ
てしまいます。一時間後には大西洋が目に入ってきて、より期待が膨らん
できます。反面、心配事事も思い浮かんできてしまいます。それは、
入国時の審査官の現地英語による質問に英語で答えなくてはならない
ことと日本の土産が通関検査で通るかどうかの心配です。過去の審査の
状況を思い出しながらも期待や希望の方が優先して思い出します。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
飛行機の中に表示されるお知らせ

2016年10月20日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(新事業)・・・13

2016.10.20木 午前5:11
 アメリカ大陸での新ビジネスの発見はあったが、今の時点での発表は
困難である。理由は、企画研究中であるからであり、第三者等の利益を
損なう心配があるからである。
 そこで、今日はアメリカ彷徨の写真を二枚掲載します。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
ハーバード大学入門

2016年10月19日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(帰国報告)・・・12

2016.10.19水 天気不明 午前4:46
 昨日に帰国はしましたが、夕食を食べて7:30頃に寝てしまいました。
今日は昨日までの時差の影響で午前3:30頃に目が覚めてしまいました。
昨夜片づけられなかった土産や洗濯物の片づけをやり、今からいつもの
運動に出かけようと思っています。しかし、忘れないうちに昨日までの
行動の概要を記しておきます。10月4日午前NY着NY泊、5日ヒラリー
事務所へ訪問、6日ボストンに向い途中の町に泊、7日ハーバード大学の
訪問、8日NYへ戻る途中でニューヘブンのイエール大学訪問、9日ニュ
ージャージのNY周辺の町に宿泊、10日NYマンハッタン5番街に泊、
11日JFK空港に友人を送る、ペンシルバニア州ペンステート泊、12日
周辺農家の見学、13日同州のアイリスバーグのウオターゴルフを見学、
アイリスバーグ泊、14日移動のためにNYに戻る、ニュージャージ州泊、
15日NYラガディア空港からダラスに飛行機で3時間で移動、ダラス泊、
16日ゴルフ場に一人で行きプレイをする、後半白人3人と同じ組でプレイ
45:47をやっと維持したのでゴルフの形が崩れていなかったので安心、
17日ダラスフォートワース空港から13時間で帰国、18日日付変更線
を経て東海村に帰宅。
 今回の旅行の目的は①ヒラリーの選挙支援②ニュ―ビジネスとの発掘
であった。どちらの目的も今後の行動次第で完成度は増すと考えていま
す。来春の雪解け前後の頃に再度の訪問をして完成度を増したいと
思っています。
 関係者の皆様の絶大な支援があってこそ実行できると肝に銘じていま
す。皆さん、大変ありがとうございました。
    アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝 68歳になりました。

2016年10月17日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(PC故障)・・・11

2016.10.17ダラスは月曜日 快晴 午前6:15
 10月14日〜今日の朝までPCが不通であった。諦めて携帯電話でヤフーを見ていた。
だが突然回復したので、ブログを掲載していますが、なかなかまとまりません。そこで
行程経路を記します。
 NYラガディア空港~ダラスフォート空港~寿司店スタッフの激励~夜は飲み会~
1人でのゴルフプレイ(後半は白人3人とプレイ)~輸入品発掘回り~夜は彷徨~
これらの繰り返しを経て今日の午前10:40発のJAL便で帰国します。
 今度の旅を総括すると、①ヒラリー事務所の訪問は出来ましたが完成度は50%だけ
でした。②討論会の観戦はラスベガスへの参加依頼はあったが時間都合により行けま
せん。③ヒラリースタッフとラインができたので今後の何かに役に立つでしょう。
 輸入品の発掘ですが、①ウオターゴルフの設計施工等の企画を研究してみようと思い
ます。
 以上、出発の時間になってきました。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年10月14日金曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(移動する)・・・10

2016.10.13木 雨 午後5:16
 ペンシルバニアから400km離れたニューヨークに戻りつつあります。
雨の中をただ事故のないように走ってきました。運転中に考えたことは
ウォーターゴルフの言葉を登録しなくてはならないと思いました。定年後
の軽い運動の手段として、このゴルフを楽しむ人が多く出てくるのでない
かと思っています。そこで、この言語を登録すれば何らかの権利を確保
出来るのでないかと思いついたわけです。ネットで調べてみても出てきま
せんでした。運営母体やその管理システムを官公庁に売り込めると思っ
ています。帰るまでにその管理システムのあらましを記述してみようと思
っています。
 このゴルフ場のあった町はH市といいますが、チャンスがあれば政治家
を連れて来ようと思っています。全て帰国後に報告や発表をします。経済
人や建築設計家や政治家でグループを作り、営利団体として活動をして
みようと思います。
 明日はNYラガーデア空港からダラスに入ります。ダラスでは郁氏の鮨店
のチエーン店と新しいお店のグル―プ化の会議と相手方の中国人との折衝
に臨みます。今から12時間後にはダラスに空路で入りますが、飛行機がロ
ーカルなので30人くらいしか乗れないそうです。日本人としてゼロ戦に乗っ
たつもりで、ダラスを空爆に行きますから、その支援や声援を宜しくお願い
いたします。事務所の皆さんの成長と幸運を祈っています。事務所の長い
仲間や新人の皆さん、ありがとうございます。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
カップまでの障害物はロックです



2016年10月13日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ウオターゴルフ)・・・9

2016.10.13木 快晴 午前5:30
 アメリカの新ゴルフを見た。農産物を探しに行った時に、偶然の大きな川の公園に立ち
寄った時に目にした。1ホールから9ホールまであり、4人一組でゴルフのようにパターだ
けで競技をする。パターで打つ1打から2打だけのホールであるが、カップまではアンジュ
レーションがあったり、ウオターハザードやレンガのウオールとかバンカーなどが備わっ
ていてまるで普通のゴルフを縮小しただけである。以前に日本にあった観光地のホテル
のミニゴルフをより複雑化しスリリング化したようなものである。使用面積は約500㎡程
度である。プレイをしていた人々は白人黒人の老若男女であった。アメリカ人らしく、大
声でキャキャやっていた。ゴルフを経験した人ならば簡単にできるが、コースは本物と
同じで簡単ではない。フェアーウエーの真中に岩があったり、サイドはレンガで仕切られ
ているが、所々に空間があり、そこからボールが出てしまうとOBとなる。あるコースでは
断崖絶壁にホールがあり、一寸でもボールが反れると崖下の川にボールが転落をして
しまう。ショートの一打コースではホールインワンが出やすくなっていて、一打で入ると
ホールインワンとなり、誠にハッピー感を味わえたりする。山あり、川あり、谷あり、
バンカーあり、OBあり、本物のゴルフと全く同じようにゴルフを味わえてしまう遊びで
ある。このウオターゴルフを老若男女の健康増進のために、公園などに設置したらど
うかと考えています。日本に戻ったら、私の土地か公的土地に設置する提案を町など
にしてみたいと思いました。諸々の資料を写真で収集したので仲間で計画をしてみよう
と考えました。
 農産物の探索は興味あるものは発見できませんでした。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                    二打コースト一打コースの併設

2016年10月12日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷(写真掲載)・・・8

2016.10.12木 快晴 午前9:00
 農産物の探訪へ

ペンシルバニア州での選挙雑誌と州の絵画

照沼重輝のアメリカ彷徨記(今までの経過)・・・7

2016.10.11木 天気不明 午前6:34
 今までの移動歴と経過を思い出しながら記します。1日目NY到着後マンハッタン近く
の町で寛ぐ、2日目NYのヒラリー事務所訪問、3日目ボストンのハバード大学を見学、
4日目NYに戻る途中でイエール大学を参観、5日間NY5番街に宿泊、6日目ペンシル
バニアの新農業の見学、7日目新農業の見学、8日目NYを経てダラスに移動する準備
中です。
 大統領の直接討論会には行けませんでしたが、NYの5番街のホテルでテレビ観戦に
なってしまいました。ヒラリー事務所の2カ所に行きましたが、ヒラリーはいるはずもなく、
選挙の事務所スタッフに訪問理由を聞かれました。「必勝祈願のお札を届けること、
ヒラリーを励ましに来た」というようなことを言いました。スタッフが「贈り物は郵便局止め」
にしてくださいと言われました。後で考えると、厳重なテロ対策と一定以上の物は
収賄になってしまうからとのことが分かりました。そして、スタッフ曰く「会いたい人がい
ればメールで申し込むことを言われました。その晩にメールで選挙事務所に訪問願いを
出しました。今はその許可をNY周辺を徘徊(ニュービジネス探し)しながら待っています。
  アメリカニューヨークの5番街は人種の坩堝でした。あらゆる人種が集まっていました
が、俺がアジア人だから同種族の人間が気になってしまいます。中国や韓国人が多く
見受けました。5番街の韓国語の看板が目だったし、中華街の漢字も目立ちました。
日本人の影は殆んど見られません。若者が国を出て勉強や将来のために働いている
姿が中国人や韓国人より極端に少なかったです。未来の日本を憂いるのは、俺が
年寄りになったからでしょうか。若者が海外に出る支援などをやろうかななどとも
考えています。日本が恋しくなったからではありません。
 今日は農業事情を求めて周辺を徘徊します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・・照沼重輝

2016年10月11日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(お札をヒラリー事務所へ)・・・6

2016.10.10月 快晴 午前7:00
 ニューヨーク市内からヒラリー事務所にお札を郵送できた。郵送の理由は、ニューヨー
クの爆弾事件があったばかりで非常に警戒厳重であり、選挙中の物品の贈与を厳しく戒
められているからである。郵便局の私書箱宛てに送ると、爆弾探知機やX線検査で検査
を受けた後に本に手渡されるからである。今回の受け取る側は、いやしくもアメリカ大統
領に立候補しているヒラリーであるから、数々の厳重な検査をパスしてから受け取るはず
である。大統領の直接討論会が終わったばかりであるから、今は相手方から何らかの連
絡メール入るはずであると思い待っています。
 そこで、俺は思いきりアメリカの田舎に行って、そのメールを待つことと輸出品探しを
やろうと思い、NYから520km離れたNY州の隣りの州のペンシルバニアの町に来てい
ます。この町の名前はまだ分かりませんが、そのようなことは不思議と大陸に来ると気に
ならないのです。周りは畑だらけ、牛だらけ、草だらけで人はあまり見られません。ペンシ
ルバニア州は農業州のようです。輸出できる農産品が無いかを探索してみます。
 そこで今日のブログはハーバード大学とイエール大学に行った時の写真を掲載します。
                  ハーバード大学の正面門に茂木さんと立つ
イエール大学ロースクールに茂木さんと立つ
アメリカ・中国大陸馬賊隊

2016年10月9日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(NYに戻り待機)・・・5

2016.10.9土 天気不明 午前5:00
 昨日はボストンの帰りにニューヘブンに泊まった。ジョン万次郎が住んでいた町だと
思ったが違うのであきらめて、ヒラリーやクリントンが卒業したイエール大学に行ってみ
た。Mさんがロースクールの校舎を探し当てたので行ってみることにした。イーエル大
学もロースクールの雰囲気も貫禄十分であると表現できる。小豆色の石を使い、形良
く積み上げ、所々に彫刻を施した建物は華麗でもあるが、豪壮であり、学生の心を落ち
着けさせる雰囲気をもっていた。Mさんの知識と探求力にすがったイエール大学での
ひとときでした。
 ニューヘブンを後にしてNY5番街での用事を足すのに2時間がかかり、雨模様天気
の中をハドソン河のジョージワシントン橋を横切り、ニュージャージ州に入り、宿探しを
始めたが、辺りは暗くなり、モーテルがあるかな無いかなの心配をしたが、クイントイン
というモーテルに泊まれた。
 これまでの行動記録を時間的に記してみます。8:00食パンコーヒだけの朝食➡9:
00出発➡9:40イエール大学入門➡11:40大学を出発➡13:00高速を降りてマン
ハッタンへ➡13:40番街の駐車場➡14:00アレンエドモンド靴店入店➡15:30駐
車場へ戻る1.5時間料金約3000円➡16:00出発IN80号線を西へ西へ➡18:00
モーテルクイントインに宿泊できた➡19:00モーテル内の中華店に酒を持ち込み夕食
をとる➡20:00パタンキュー翌日5:00目覚めたのでこれを記しています。
 Mさんも私も元気に旅をしています。今夜はMさんとNYの近くで飛び込みのゴルフを
しようと思っています。夜はヒラリーとトランプの討論会をNYマンハッタンでテレビ観戦を
することになりました。ちなみに土曜日のマンハッタンのホテル料金は安めで5万前後、
日曜日の今夜は安いところで1.5万円前後なのでマンハッタンに泊まります。尊敬する
Mさんの良い思い出を作らねばなりませんから。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝



 

2016年10月8日土曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ハーバード大学入門)・・・4

2016.10.8土 天気不明 午前5:56
 やっとハーバード大学の門をくぐった。アメリカの大学は校庭が広く、一つの町を
乗っとたように広い。正門から入ろうとして探したが不明なのでやむを得ず、大学を
創った創始者の銅像がある横の入口から入門した。そこに見たものは、全世界や全米
からハーバード大学を一目見ようとしたり、何かにあやかろうとしている一団であった。
俺とMさんはその一団に混じって歩いた。ハーバードの図書館を一目見てから、創始
者の銅像があるところまで歩いた。創始者の銅像の左足が記念写真を撮る人の手で
頻繁に触られるためピカピカに光っている。俺もあやかろうとして記念写真を並んで
取った。アメリカの大学は一つの企業集団でなかろうかと考えながら歩き、ハーバード
の正門の一つと思われるところから出た。車が心配で急ぎ足で戻ったところ、やはり
駐車違反のシールがピタリと貼ってあった。しかし、駐車違反は過去にもやっている
ので、今回はたいして驚かずに、そのシールをカバンの一角に入れた。
 ハーバード大学からNYに戻ろうとして5時間の道程を急いだ。夕方にNYに戻れるが
80Km手前のイエール大学のある町のニューヘブンという町に泊まっている。一度は
停まろうとして受付に立ったモーテルは、何やら変な男や女がいるので危険を感じ
辞退をして別なモーテルに泊まっている。チエーン店のモーテル8である。予算より20
%ほど高いが泊っています。夕食は歩いて行けるので裏手の藪を突き抜け、野良道
のような坂を上がってイタリヤ料理店に入り、食事を済ませた帰ろうとしたら大きな
音が聞こえたので、その音を探って行ったら地元の歌手のような人がテント小屋で
歌っていました。急遽、私たちは帰らずにその野外パーテイに参加をしましたが、
観客がノリノリで私たちもノリノリ気分になり、白人と日本人の乱稚気パーテイのように
なってしまいました。踊り出す白人、お囃子を出す日本人、まるで白人のパーテイを
横取りしてしまったようでした。時に時間は午後の10時頃でした。部屋に無事に戻り、
そのままパタンキューとなりました。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
大学の創始者
                     


2016年10月7日金曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(メール通信)・・・3

2016.10.7木 天気不明 午前5:44 外は暗い
  明け方に目が覚めた。時差のため連日の睡眠不足で約10時間ぐっすり寝られた。
今日はハーバード大学に入れる日である。入れると言っても正門をくぐるだけであり、
入学するわけではない。老人一歩手前年で入れる学部があれば入ろうと思っている。
俺は事務局又は教授に近づいて、「この大学に入りたいがどうすれば良いですか」と
聞いて、その返事が「試験等がある」と言われたら俺は「試験があるなら、面倒くさいか
ら俺は辞める」と言い、更に「試験を学校に出したいのは俺の方だ」と言って教授方に
ジョークを飛ばしてみたい等と考えています。
 さてバカな話は辞めて、一昨日の顛末を記します。ヒラリーの二カ所の事務所には
行けました。しかし、ニューヨークのゴミ箱爆発事件等により、警戒レベルが非常に
高くなりました。大統領候補やそのスタッフに近づくことは困難です。全て予約制と
言われました。それに日本から持っていった村松大神宮の必勝祈願のお札はヒラリー
の事務所郵送してくださいと事務所の担当者から言われてしまいました。郵便局に
よる爆発物の検査を受けてから頂く方法だそうです。それでも俺は次のユニークな手
渡し方法を考えています。日本では考えられないほどの警戒が行われているのが
アメリカ大統領選挙でした。
 第二回目の大統領の直接の討論会は10月9日のミズリー州のワシントン大学で
開催されます。その討論会に参加できないかをメールで事務所に申し込んでみまし
た。その討論会のヒラリー事務所の責任者はMOOKという人物です。その人物から
昨夜メールが届きました。現在、その準備で忙しいから少々お待ちくださいというよ
うな内容のメールですが、英語力Cクラスの俺には意味不十分の状態です。
そのメールの解読をアメリカ在住の華僑のケン氏にお願いをしました。何れ正確な
内容が分かることになります。
 昨日はニューヨークからハーバード大学への移動で6時間を費やしました。今は
大学まで30分手前の分からない町に泊まっています。偶然に見つけた町の公共
迎賓館のようなところです。広すぎる敷地と数百人が泊まれる宿泊施設が立なら
んでいます。如何にも古き良きアメリカの雰囲気を醸し出しています。Mさんと
その施設のレストランで夕食を取りましたが、全員白人ばかりの社交クラブのよう
なところでした。西部劇時代の銃や用具が飾ってありました。珍しいのか我々に対
する視線を強く感じました。また眠気が襲ってきましたので終わります。
 因みに、そのレストランの料金は地ビールを飲むだけ飲み、食べるだけ食べて
1万円くらいでした。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
Hillary事務所

2016年10月6日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ヒラリー事務所内)・・・2の②

2016.10.6木 天気不明 午前5:15
 寝られずにまたPCを迎えた。続き、ヒラリー本拠地の選対事務所に入ろうとしたらメー
ルでの予約を請求された。そこで何時でも入れる事務所を教わり、そこに向かった。クリ
ントン通りからスリーブロック先の住所を教わり、そのビルに歩いて行った。同じような
格式あるビルの受付嬢に自由入室できる階を教わり、その階で降りるとそこはヒラリー
一色のフロアであった。廊下のコーナーごとにヒラリーの選挙用のシールが貼ってある。
俺は再度、忠臣蔵の討ち入り時のような気分でどんどん前に進んだ。部屋をノックして
中に飛び込んだ。受付ボランティアの男に用事を聞かれた。俺は「ヒラリー選対事務
所のB氏に会いたい」それに「日本から持ってきた選挙の必勝祈願のお札を渡したい」
というと彼に「重要人物に会うためにはメール予約は必要である」と言われた。予想して
いた返事である。それで二の矢として俺は「重要人物のメールアドレス」を教えてくれと
ねばった。彼は一片のメモ用紙にアドレスを書いてくれたのである。これで次のチャンス
を掴んだと考えて引き下がった。ボランティアのルームを見渡すと多数の女性参加者が
PCの前で何やらキーを叩いている。今度の大統領選挙でニューヨークか国内や世界
に情報を発信しているのである。
途中にして寝る。
                   アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

照沼重輝のアメリカ彷徨(ヒラリー事務預所へ行けた)・・・2

2016.10.6水 晴 午後20:30
 天気快晴、北風やや吹く、ラッシュ時を避けて、ブルックリンのヒラリー事務所に向か
う。頭の中は、居ない時の対処や居る時の会話等を描きながらハンドルを握っていた。
ブルックリンにクリントン通りがあり、その一角に伝説の一族が持つビルがあり、ビルの
中の24階にオフィスがあるという。あれやこれやを考えながら1時間程を走ったら目標
のビルの屋根が視界に飛び込んできた。おもわず「あれだー」と叫んでしまった。それ
は緑色の屋根を持つニューヨーク特有の形をしていた。少年の頃に山野に遊んでメジ
ロ捕りの遊びをしていた頃、早朝に林の中に潜んでメジロが天空のどの方角から飛ん
でくるかをジーッと睨んでいた心地を思い出した。それは獲物を狙う野生の目となり、
音を立てないで呼吸を止め、獲物に近寄る神経が甦ったようであった。俺はハンター
気分でそのビルに車ごと近づいて行き、駐車場を探した。大都会の駐車場はなかなか
無く、ビル周囲を一周し、駐車場を探し当てて駐車した。何と駐車料が1時間2,500
円の聞いたことも経験したことも無い駐車場に入ったのである。今から超ターゲットが
いる場所に行くのに値段など構ってはいられない。車に鍵をかけるのもそそくさに駐車
場を出た。作戦は先ず、①ビルの周囲を一周する。②出口がいくつあるかを確認する
。③ビルの周囲に屯する人々を観察する。④看板を見つける。⑤ガードマンがどこにい
るかの確認。⑥警護員からどのようにヒラリー事務所に入る許可をもらうか。⑦贈り物
の手渡し理由をどう述べるか。諸々の心配を重ねながらビルの中に入った。しかし、
そこはまるで別世界の雰囲気をもった受付カウンターと黒人の大男数人が待ち構えてい
た。ニューヨークは爆弾騒ぎがあったばかりで日本では考えられない警備状況である。
俺は非常に強い決意を持って忠臣蔵で吉良邸に討ち入る赤穂浪士のような意気込みで
前にどんどん進み、カウンターの前に立った。計画半ばですが、これ以後は次の時間に
記します。現地時間午前3:15ですが、今日のためにまたベッドに入ります。
今は700km先のハーバード大学に向かっている途中です。
Mさんも元気で一定のペースを保ち前進していますから、関係者の皆様ご安心ください。
夕食はスーパーで買ったチンスイッチ料理とメキソコの冷えたビールでどうにかとれま
した。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝



 

2016年10月5日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(出発)・・・1

2016.10.5水 快晴 午前8:45
 マンハッタンに朝日が注いでいます。俺はホテルの窓から眺めています。頭がぼんや
りしているので、あ、そうか、ここはニューヨークなのだという気分です。ホテルの窓から
下を眺めています。今からマンハッタンのヒラリー事務所に直訴に参上します。30分後
に出発します。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ニューヨーク到着)・・・2

2016.10.4火 晴 午後11:05
 成田を午前10:50発のJAL006便で出発した。同日の午前10:50にJFK空港に無事
についた。空港を出てからエアートレインでハーツレンタカー会社に行き、スムースに車を
借りることができ、マンハッタンから10km離れたフラッシングという町のプラダホテルに宿
を取れた。現在は真夜中の午前1時であるが、寝付けなくキーを叩いています。マンハッタ
ンの賑わいの音が枕元まで聞こえてくるような距離感のところにいます。
 別な話であるが、PCの調子が良くなく心配をしています。キーのところの証明がつかなく
なりました。明かりを近くに持ってきてキーを叩いています。どうにかなるまで使用します。
 同行者のMさんも寝不足で調子が今一のようですが、熱心にメモを取り執筆の資料を
収集しています。次は早朝に記します。
今夜は早く寝ましょう。眠いなー。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝  (マンハッタン近くで)





2016年10月4日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(アメリカへ出発)・・・1

2016.10.4火 天気不明 午前4:11
 今日はアメリカニューヨークに出る日である。興奮して早く眼が覚めてしまった。
友人と2人なので全行程の無事を祈る。さー出発だ。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年10月2日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(レンタカー操作)・・・11

2016.10.2日 天気不明 午前4:43
 レンタカー受付嬢から鍵と何かの書類を渡され出口の指をさされた。言われ
るままに出口に向い、数百台が並んでいる駐車場に入る。鍵についている
番号を探すが、なかなか見つからないので黄色い服を着た作業員に聞く。
この番号は車のナンバーでないのである。駐車場所のナンバーであるから、
間違わないようにした方が良い。駐車場にある車の程度は新車に近く、ピカ
ピカ車が多く、正に車天国のアメリカと言える。車を見つけ鍵を開け、車内に
入り、キーを差し込む。新しい車の匂いである。何となくホッとしてキーを回す
ことを忘れてしまう。エンジンをかけないでワイパー等を操作してしまう。それ
でも思い直し、エンジンを始動する。日本にいるような気分になり、直ぐ走り
たくなるが、我慢をしていろいろな操作をして、アメリカの車に徐々に慣れて
いく。俺は左の運転席を降りて、車の周囲を廻り、トランクを開けて、スぺヤ
タイヤの位置などを確認して、ホット一息を入れるのである。トランクをトランク
に入れて、運転席に戻り、ナビシステムをセットして、やっとゆったりとした
スピードで出口に向かう。出口ゲートで書類を係員に渡して、ゲートを開けて
貰い、潜り抜けて外に出られるのである。外はビュンビュン走っている車だら
けであり、即座にそのスピードに入るのは大変であるから、先ず頭を切り替
えておくのもコツである。外に出たら、そこは大都会の戦場となる。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年9月29日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(レンタカー契約)・・・10

2016.9.29木 雨 午前6:38
 エアートレインに乗りレンタカー会社に向かう。その間数分間であるが、
ひどく心細いのである。何処にレンタカー会社の営業所があるのか分から
ない。何処で降りたら良いのか、どのように借用契約をするのか、不明のま
までエアートレインの中にいるのである。大きな旅行鞄を抱え、やっと分かっ
た降車口で降りると、真正面にアメリカ最大のハーツレンタカー会社のニュー
ヨークJFK営業所があった。カウンターに数名の受付嬢がいて、カモンカモン
というアメリカ的仕草で俺を待っていた。こちらから受付嬢を選べないので
呼ばれたままそこへ進む。レンタカー申込み書の控え、パス―ポート、
国際免許証、日本国内免許証、アメックスカードを持ってカウンターの前に
立った。アメリカ嬢が何かを言うが、理解できないので「フロムジャパン」と
だけ言って、受付嬢の推理能力に頼ると「・・・」と何かを言われる。俺はただ
黙って受付嬢の事務手続を眺めるのである。しかし、費用がかさむことが
多い保険加入は心配であるから「インシュランス・・・」と言う時はやたらと
イエスとノーを言った覚えがある。レンタカーの保険について勉強をしておい
たのが役に立った。黙っているとすべてがカバーできる保険に加入させられ
高額の保険になりかねないのである。あれやこれやの手続きが終わると、
受付嬢はレンタカーの鍵と何かの書類を手渡し、レンタカーの駐車場所を
書いた紙をくれるが、そのナンバーを書いた紙はただのメモ用紙である。
そこで間違いが起きる場合がある。そのナンバーは駐車場の路面に書かれた
レンタカーの駐車場所のナンバーであり、車のナンバーでない。これを勘違いし
てとにかく広い駐車場をウロウロしてしまったことがあった。とにかく広いアメリカ
では駐車場から出るのも一苦労であった。次回はレンタカーの操作練習です。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝



 

2016年9月26日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(エアートレイン)・・・9

2016.9.26月 晴れ 午前5:58
 ニューヨークJFK空港を出るとエレベーターが有り、三階にエアトレインが走っている。
無料であるから荷物を引きずったままで乗る。レンタカー会社の営業所に向かう。高いところ
からJFK空港を眺める。ターミナルが71~9まであり、巨大空港といえる。ターミナル1はJAL
が使い、ターミナル7はANAが使っている。右回りに回るエアトレインは静かで快適であるが、
どこで降りれば良いかを心配しながらハーツレンタカーJFK営業所に向かう。色々な国の人々
の男女が大きな荷物を引きずって乗っている。俺は何時でも飛び降りられるように、椅子には
座らず出口の近くで降りる待機をしている。正に田舎の者が電車や汽車に乗っている姿である。
子供の頃に常磐線に乗って出口近くに待機をしていた頃を思い出し、自嘲気味になる瞬間
である。数分間乗ればハーツレンタカー会社に着くが心配は絶えず付きまとってしまう。俺は
生涯にわたり田舎者であるが、その田舎者を楽しんで都会で生きている。これも一種の
・・・・・感であると感じている。高いところを走るエアートレインなのでわけなくハーツレンタカー
会社が見つかる。エアートレインを下り、ドアをくぐるとそこに営業所がある。お出迎えは
黒人の大柄な受付嬢が待っていてくれる。大柄な女性は小柄の俺をいつも親切に迎えてくれ
るのである。俺はいつも「ヤー」と声を出して挨拶をしている。でもそれは俺のニューヨークへ
の第一歩の気合であることは彼女は分からないのだ。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年9月25日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(アメリカの匂い)・・・8

2016.9.25木 雨 午前4:56
 機体は滑走路の端から乗り降りする桟橋のあるところに進んでいく。俺は
無事に着陸をしたことを神に感謝をして降りる心の準備をする。機体の出口
が開いて、乗客が外に出始める。俺の番になりそそくさと外に出る。瞬間、
アメリカニューヨークの匂いを感じる。ニューヨークの外気に触れて、俺は
気合が入る。背筋がちゃんとして、足腰の筋肉が緊張する。機体から出る
桟橋のスロープが坂になっていて、ここち良く筋肉を稼働させる。俺は五感
が目覚めていくのが心地良く感じ始める。桟橋を渡り切る頃は、いつものよう
な観察力が戻ってくるから、空港のスタッフや並んでいる飛行機を観察し始め
る。やがて、入国管理局に並ぶ頃は適度な警戒心を持ち、パスポートを出し
て入国審査の準備をする。順番が来て審査を受けるが、質問がある場合が
ある。大概「何をしに、どこに行く、いくらドルを持っているか」等である。いつ
もの答えは、「観光、ヒルトンホテル、2000ドル」である。ダラス等の土地では
「ここに観光できるところは無いよ」等の答えが返るが、ニューヨークでは
そのような答えでは無く、「行ってらしゃい、幸運を」等の答えが多かった気が
する。荷物を受取り、空港の外に出るが、モノレールでレンタカーの会社まで
行くのもなれないと大変である。次回はモノレールでレンタカーの会社に行く
を記します。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年9月21日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ニューヨーク湾の東から)・・・7

2016.9.21水 曇天 午前5:48
 飛行機は暫く数々の湖の上空を飛んでからニューヨーク湾上空にでる。
俺は窓から海面を眺めて、海面の形を見て楽しむ。同じような海面の波
は一つもない。空の雲を飲み込んで映している海面は無限の広がりを
示している。でもこの海は大西洋であることをふっと思い出し、日本の
太平洋とどこが違うのか等とたわいもないことを考えてしまいながら、
空中散歩をする。機は左45度の角度で滑走路に向い、機を立て直し
て着陸態勢に入る。眼下には空港周辺のゴルフを楽しむ人やジョッギン
グ等をする人の姿が見える。道路が直線に伸びて、周囲の家が白を
基調としたカラフルな色で染まっている。正にアメリカに着いたと思い、
ホッとする瞬間に機はガタガタと音を立てる。これが着陸の瞬間であり、
やれやれ無事に着陸をした。この瞬間に着陸の心配からアメリカ大陸
への大きな希望に変わる。
         アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年9月20日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(明け方)・・・6

2016.9.20火 雨 午前5:40
 アメリカ大陸の中心のオマハを過ぎて1時間も過ぎると朝日が東から
微かに出てくる。何というのか、神々しい光である。日本人は朝日は海
から出てくるように思う。アメリカの東海岸の住民も同じく思う筈である。
機内から見る朝日は、地上で見る朝日よりもっともっと光輝くのでる。
思わず心の中で手を合わせてしまう雰囲気となる。ボストンかポート
ランドのあたりであろうか。とにかく太陽が海から出てくる瞬間を機内の
窓から眺めるのでる。眼下の無数にある池や湖の水面までが朝日に
合わせて輝きだす。何度行っても新地に向かう気分となる。もしかする
と朝の太陽には、特別なパワーを抱いているのかもしれない。俺はその
朝日を機内の窓から眼下に見て、間もなくニューヨーク空港だと思いを
抱き、日本人らしく靴を履きなおしたり、身支度を整えてしまうのである。
だが着陸するまで約1時間以上あることを思い、長い旅路であったこと
を再認識するのである。そして、疲れを感じながらも次の地点の環境に
対応すべく心身の整理をするのである。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年9月19日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(大陸中心上空)・・・5

2016.9.19月 台風有り 午前6:08
 飛行機はアメリカ大陸のワシントン州周辺から大陸に入るようです。俺は
入る瞬間は寝ていることが多かったので、大陸に入る瞬間は経験したこと
は無い。シアトルかポートランドから入るようである。入ると間もなくロッキー
の上空を超える。冬は雪で真っ白、春は残雪で寒々、夏は地肌を直視
するほかなく、秋はなんともいえないもの淋しさの孤高を感じてしまう
山脈である。但し、上空から見る場合の表現であり、近くに行けば別な
表現になるはづである。窓際に座れれば暫く上空からの景色を楽しめる
が、アメリカ行きの飛行機はアメリカ大陸上空にさしかかる時は明け方
であるから、春先の陽の長い時に入ればこの雰囲気を楽しめる。
 やがて、ロッキーを超えた飛行機は二時間も過ぎるとアメリカ大陸の
真ん中に差しかかる。眼下は大陸の真ん中のオマハ辺りであろうか。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年9月16日金曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(アメリカ上空)・・・4

2016.9.16金 曇天 午前6:03
 アリューシャン列島のやや上空からアラスカ沖を経てアメリカ大陸のカナダ
側から大陸に入ります。5月だとカナダの雪原が見えるが9月では雪原がな
く、緑の平原を見ることになります。カナダ大陸も素晴らしい眺めがあるが、
アメリカ大陸から放射されるエネルギーとその人々のパワーは、日本人の
俺には眩しいほどである。機の上からアメリカ大陸の生活の営みをあれや
これや想像しながら、俺は機内で目を閉じて休んでいるが、本当は気合が
入り、諸々の行く先々の楽しみを考えていることが多い。窓際に座っている
場合は、ずーっと下界を眺めている。目を凝らし、想像力を高め、五感を
働かせて下界を眺める。俺はこれからの旅路の楽しさを想像してしまう。
心は既に、ニューヨーク、ワシントン、フロリダ、テキサス、ニューメキシコ
ヘミングウエーのキーウエスト、ニューオリンズ等等、何日でもアメリカに
居続けたい夢をみてしまうのがアメリカ大陸である。不思議にアメリカで
の美味しい食事は考えたことはない。食事等よりは目と心の要求が勝る
のが大陸のムードである。多分に俺は、死ぬまで大陸旅人で終わること
になるであろうと考えている。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年9月14日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(飛行航路)・・・3

2016.9.14水 曇天 午前6:37
 アメリカのニューヨーク飛行時間は約13時間である。どのような航路で
飛ぶのかを思い出してみた。成田を離陸したJALは太平洋上を右上がり
に飛び、アリューシャン列島沿いに地球の北極に向かって上がっていきま
すから、地球が丸いことを五感で感じることができます。6時間が経過して
も、まだ太平洋上を飛んでいます。6時間×飛行速度800km=4,800
kmしか飛んでいません。機内の食事をとり、アルコールの力を借りて
うとうとした後に目を覚まして時計を見ます。機内のナビを見ると、アラスカ
沖の遥か彼方を飛んでいます。「未だかー」と独り言をつぶやいてしまい、
疲れが増します。そこで、靴を抜いて足の疲れを取り、周囲を見渡します
が、知人友人は当然いませんので、話し相手を探したくなります。両隣に
英語圏の人では話し相手には困難ですが、日本人だと話し相手になるの
で安心します。映画を見ようと思い、画面を出してみますが、気が散漫に
なっているので映画の内容の把握はいまいちになってしまいます。どう
にもこうにもならない時間とは、このような時間をいうのかと思ってしまう
のです。そこで、次に考えることは着陸後の楽しいことを思い出し、更に
諦めの境地に入ります。やがて飛行機はアラスカ沖を境に地球を右下が
りに飛んでいきます。機体はニューヨーク迄約6時間の位置に来ました。
もう一度、寝ようと考える時間帯となりました。次回は、アメリカ大陸の
上空を記します。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年9月13日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(機内へ)・・・2

2016.9.13火 雨 午前6:35
 アメリカ大統領選挙を観戦しようと思い行く準備をしている。今朝は日程表
作りをしたが、完成は明後日くらいになると思っている。そこで、行くまでを
仮想して記してみようと考えた。その理由は、友人を連れて行くので慎重な
計画をしなくてはならないからである。昨日は友人を迎えに行って飛行場ま
で行って機内に乗り込むまでを記した。そこから次に記してみます。
 機内の持ち込みを許されたものだけをもって機内に入ります。右通路か
左通路かを確認し、安いチケットなので後ろの方まで行くことになります。
後ろの洗面所近くの席が我々の席となる予定です。窓際か通路側か、
それとも三席の中央か、場所によっては快適か、遠慮しなくてはならない
席か、運不運が付きまとうのが、席の位置です。窓際はトイレに立つときが
不便であり、中央は左右に知らない人が座るから、人見知りする人は
窮屈な席となり、通路側は下界が見えないので退屈な席となります。
初めて乗る飛行なら機内の食事や図書類でけっこう楽しめるが、何度も
乗っている人は窮屈退屈の双方を味わうことになります。そこで、それらの
防止のために何を持ち込み、何をして時間を過ごすかを経験値から
記します。機内に持ち込むと退屈しない一番の物は、①図書(小説、雑誌
の2冊程度)②PC(旅日記をつける)③好きなツマミ類等(酒のツマミ等)
と思います。NYまで13時間の飛行だから、寝るか、読むか、聞くか、
見るか、動くか等の組み合わせで時間を過ごすことになりますから、
要は各自にあった方法で疲れないように過ごすことが第一と思われます。
次回はNYまでの飛行航路を探ってみます。
         アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年9月12日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(仮想日本発)・・・1

2016.9.12月 曇天 午前6:24
 10月4日からアメリカ大統領選挙の観戦に友人と二人で行くことになった。
そこで、本計画のために渡米10回歴を思い出しながら予定に基づいて記して
みます。今や、俺の経験は資料を一切を用いずアメリカを記すことができるまで
になっている。当日、10月4日午前7時に友人の自宅に迎えに行きます。成田
までまっしぐらの2時間は、友人と雑談や予定を話しながら、ウキウキ気分で行
きます。いつもの駐車場に車を預けて第二ターミナルに入り、JALカウンターで
搭乗手続きをします。二人とも20kg未満の大きな荷物になり、68歳の俺は
大変ですが、大統領観戦に行けることを考えたら苦になりません。9時頃に
搭乗手続きを終わり出国ゲートを抜けて入出管理局の検査を受けて待ち合い
ゲートの前に行きます。約2時間をゲートの前のベンチに座り待つのですが、
俺はここで自分の体力を消費するために待ち合い室内をウォーキングをして
待ちます。何故、体力を消費するのかといえば、飛行機の中で熟睡するため
です。2時間弱をその辺中を歩き、体力を消耗して13時間のフライトを睡眠
で費やせるように考えているためです。出発時間の11時までひたすら歩き
まわります。走行距離にして3kmは歩きます。これが長時間のフライトを
有意義に過ごせる俺流のやり方です。そろそろ11時近いので搭乗をします
が、パスポートを手にして搭乗口に向かいます。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年9月11日日曜日

照沼重輝の中国彷徨記(中国を終了)・・・14

2016.9.11日 快晴 午前10:54
 中国を記してきたが、一先ず終わりにします。理由は10月4日からアメリカ
の大統領選挙を観戦に行きます。中国を数十回にわたり記してきましたが、
解放、改革、改正、修正、進化、突出と変わった中国は超資本の大国になっ
てしまい、昔の中国を追いかけていても面白くなくなってしまった。30年前に
政府高官と食事をした時に、彼曰く「今や我が国は衣食住のうち衣食は到達
出来た、これからは住の問題だ」と言った記憶を思い出した。多分にその通り
になったと思う。地方に行くと地方高官が日本人をチヤホヤしてくれたが、
今や説教を日本人にする時代となった。これは微笑む出来事である。うぬぼ
れた日本人が目を覚ます良い現象である。昔は日本の父ちゃん母ちゃんまで
が、中国に行ってうぬぼれた時があった。優越感を味わえた日本人は多かっ
た筈である。これからのアジア人同志は全世界の白人に肩を並べる努力をす
るべきである。白人の価値観を勉強しようではありませんか?そして、アジア
から世界の人々に貢献できる青年を輩出しましょうよ。アジア人同志が喧嘩を
している時代ではなくなったのである。
次回からヒラリーの大統領選観戦に向かって記します。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

 

2016年9月9日金曜日

照沼重輝の中国彷徨記(上海蟹)・・・13

2016.9.9金 曇天 午前7:07
 縁起の良い時間に記すことになった。ハッピータイムである。
中国滞在中に陽橙湖のある昆山市に仕事で行くことになった。上海蟹を
食べる良いチャンスである。俺たちは仕事を早く切り上げ、陽橙湖の蟹
揚げ漁港に向かった。湖特有のくすんだ船が多数終結していた。丁度
水揚げの時であったので、取れた蟹を見ることができた。もぞもぞと
蠢ている蟹が船倉にいた。上海蟹の色は全体が泥色で腹の一部が
黄色じみた白色である。両手のハサミに多量の毛が生え、力強く閉じた
り開いたりしている。蟹の腹の蓋みたいなものが丸いのがメスで三角形
で尖っているものがオスである。漁民がヤニで真っ黒くなった歯を出して
買人と値段の交渉をしている。買人を観察するとやり手の都会人のよう
である。値段交渉が終わり、漁民と買人が握手をして別れていった。
その漁民は俺に蟹を買っていけと言っている。町の一流料亭で食べたら
眼をむくような料金を取られる上海蟹である。上海人は上海蟹を食べ始ま
ると言葉が無くなり、沈黙の食事風景になる。俺はその場面が滑稽で
面白く見える。日本でいえば上海蟹は河に生息する毛蟹である。日本人
はあまり食べない。俺も子供の頃、河で取ったことがあるが、食べたことは
無かった。しかし、中国では上海蟹と言えば高級中の高級である。毎年
秋風が吹くころになると、上海市内では上海蟹の水揚げ具合を心配し始め
る。身の付き具合や成長等の有無を風の便りで情報入手をする。そして、
いつ頃に買って家庭内で食できるかをそれぞれ判断するのである。
俺は今頃になると、そんな秋の上海風情を肌で感じたくなってしまう。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年9月8日木曜日

照沼重輝の中国彷徨記(蘇州と杭州)・・・12

2016.9.8木 曇天 午前6:22
 昨夜中国から戻ったら、テレビで杭州のことがもちきりで放映されていた。
何度も蘇州杭州に行った。この町に特別の感情は湧き上がっていないが、
観光地としては面白いので記してみます。昔の蘇州は呉の国で杭州は越
の国であった。「呉越同舟」「臥薪嘗胆」等の言葉を思いだされる。
蘇州には20回以上、杭州にも20回以上は行っているはずであるが、いず
れもビジネス絡みで行っているので大した観光はしていない。それでも
記憶に残ることを記します。
 蘇州は揚子江沿いの発展している町である。上海駅から電車に乗ると
約1時間30分で着く。蘇州城や斜塔が有名であるので、登ってみると
確かに城跡のような台地があり、中腹に1,000人は座れるという岩板
平地があり、そこを過ぎると闔閭が名剣を池に埋めたとする場所があり、
更に登ると台地の頂上に着いてしまい、あっという間に降りなくてはなら
ないくらいの見るものしかなかった観光地であった。
 杭州には水戸の千波湖のモデルとなった大きな西湖がある。杭州の
東方100kmのあたりに紹興市が、昔の越の国の都である。西湖を
周遊すると徒歩ならば二日はかかり、車ならば半日はかかると思う。
有名人の岳飛や秋瑾の記念物を見て廻り、毛沢東の別荘を改築した
ホテルに泊まるのも歴史を思いだす旅になれる。俺は毛沢東の別荘に
数回は泊まれたチャンスに恵まれた。昔の政府要人の外交官が手配を
してくれたのであった。軍隊の歩哨が24時間にわたり周囲を警戒してい
る迎賓館であった。このようなことを比べると、蘇州と杭州の地域の差は
明白である。蘇州は昔の観光地で杭州は昔より現在の観光地である
が政府の重要拠点が数多くある。呉と越の名所旧跡の戦いも越が勝利
を維持しているのでないだろうか。
         アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 


2016年9月4日日曜日

照沼重輝の中国彷徨記(一泊の南通市)・・・11

2016.9.4日 曇り 午前5:43
 台風が来ているから外は薄暗いが、台風余波は無い。
上海から中国の原子力関連の先生に連れられて南通市まで日帰り旅行をした時の話だ。
1993年代、その先生が発達している町が上海近くにあると言い、俺を連れて行くと迎え
にホテルに来た。ヒルトンのハイヤーに乗り、フェリーで揚子江を渡り、その町に入った。
中国経済の黎明期の頃であったが、沿道筋には粗野な食堂が出来始まっていた。先ず、
南通市に入ったら、日本の大企業が既に工場建築を始まっていた。町はその建築業者
や建築作業員達で賑わっていた。ホテルもマーマーのホテルが有り、いきなり行っても
泊まれたのである。中国的なホテルに泊まったので何処となく西洋式を演出しているが
チグハグである。このチグハグさを楽しもうと、ホテルのバーに行った。年齢不等いの女性
がホステスとしていた。給料はチップ制のようで自ら稼ぐためにガボガボ飲み物をせがむ、
俺は好きなだけ飲めよと頷くと飲む回数が少なくなった。帰る時に明細を見ると、目が飛び
でるほどの料金ではなかった。未だ良心のある経営ぶりのバーである。今の中国の高級
バーは違うと思う。目が飛び出るくらいなら良いが、身の毛がよだち、逃げようかと出口
を探すが、自信のない脚力に逃走を止められる羽目になる店もあるようだ。夜の金銭
支払いは熟慮の上に為さないと思わぬポカが生じることになる。黎明期の南通市では
幸か不幸か何もなく、目の保養だけで一泊で上海に戻れたのであった。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年9月3日土曜日

照沼重輝の中国彷徨記(青島ビール)・・・10

2016.9.3土 曇天 午前6:39
 中国の青島に行った時の話である。親類の工場が青島に魚加工場を作ったらしいと
いう話を聞いたので行ってみた。上海から約1時間半の距離である。上海虹橋飛行場
から飛び立ったボーイングは1時間一寸で青島に着いた。降り立つと飛行機の中から
「青島」と崩された赤文字の大きな看板が目に入った。荷物を受取り市内のホテルに
タクシーで入った。四つ星の豪華なホテルである。入り口の一等場所に焼肉屋があり、
チマチョゴリの受付嬢が笑みを浮かべて立っていた。部屋に案内をされ、荷物を置い
てカーテンを開けて外を見た。ホテルが気を利かして東シナ海の海が一望できる部屋
にしてくれた。水平線の彼方を商船が横切っていき、近くには漁船が忙しく動いている
。海岸線の砂浜の近くに青島ビールの本社ビルが建っている。口の中が唾液で一杯
になった。青島ビールはドイツの遺産であり、日本軍が接収した時もあることを思い出し
た。夜になれば青島ビールをたらふく飲もうと考え、昼酒はやめることにした。海岸線
をタクシーで歩こうと思い、フロントに出てタクシーを呼んでもらった。美しい海岸線を
あてもなく彷徨った。毛沢東の専用海水浴場、青島ビールの本社ビル、市内の有名な
建物、浜から小舟をチャーターして湾内を遊覧もした。一先ずの観光を終わり、夕方
になったので焼肉屋に出向いた。さすが朝鮮半島と近い場所なので、朝鮮族が多い
ようで焼肉屋がいたるとこにある。焼肉屋で青島生ビールをたらふく飲み込んだ俺の
腹は鱈の腹のようになり、ホテルに重くなった腹とともにやっと戻れた。美しい夢と
明日も楽しいことを祈願して寝込んだ。 
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年9月2日金曜日

照沼重輝の中国彷徨記(烟台の浦島太郎物語)・・・9

2016.9.2金 快晴 午前9:02
 この町は日本人にはあまり知られていない。俺は朝鮮半島の向かい側のこの町に行った。
半分は物見遊山で半分は輸入品の開拓であった。産直品はリンゴとトウモロコシであり、
観光は海が売り物であった。産直品は輸出できる代物が無かったので、観光ルートの開発
を探す羽目になった。海際を歩いて潮の匂いをかぎ分けてみた。海洋国日本の塩と同じよ
うな匂いがした。浜辺に転がっている海藻を拾い、俺は鼻に押し当ててみた。日本の海藻
と同じ種類であったが、匂いは微妙に違った。浜辺の沖を見ると大小さまざまな島がニョキ
ニョキ立ち、遠くの海を遮っている風景である。暫く、浜辺を歩き、様々な海の光景を思い
出して、昔の海での経験を思い出した。子供の頃の村松海岸、青春時代のほろ苦い浜辺、
大人になってから悩む時や苦しい時に一人立った浜辺、アメリカのサンタモニカの海岸、
スンフランシスコでのゴールデンゲートから見た海岸等等、色々思い出して歩いた。看板
が目に入り立ち止まって眺めたら、日本の竜宮城伝説の看板が立っていた。日本のコピー
かと思いよくよく読んでみると中国独自の竜宮城物語であった。竜宮城物語は中国の伝説
であったのかと考えたが、その後に調べていないので謎のままである。俺は子供の頃に
親に読んでもらった浦島太郎を本当の話と思っていたので、海の中を見てみたい願望が
中学生のころまで続いていたことも思い出した。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年9月1日木曜日

照沼重輝の中国彷徨記(大連の満州鉄道)・・・8

2016.9.1木 快晴 午前6:44
 大連に仕事で行った時の話、水産物加工会社に納める資材会社から頼まれたので
大連に行った。しかし、その数年前にも訪中団で行ったことがあるので大連の経験は
十回ほどある。戦争前は多くの日本人が大連港から揚がり満州の奥地に向かったが、
その大連港の真ん前に昔の満州鉄道の本社があるので見学をしたことがある。その
近くに大連駅がある。満州の玄関である大連駅は日本の昔の駅の名残を残し、風情が
ある建物である。昔の新アジア号の機関車を見学したが、どう見ても戦艦のような形を
している。小銃などでは貫通しないような運転席と普通の数倍ある大きさの機関車で
あった。次に昔の日本が建てた大和ホテルに行くと、戦争時代の日本の意気込みが
感じられた建物である。ヨーロピアン風でもあるが、日本の力と先進性をアピールした
建物である。この建物の中で軍人や特務機関が暗躍したのかと思うとスリリングな
出来事が数多くあったのかと勝手に想像をしてしまう。どうやら大連は坂が多く、アメリカ
のサンフランシスコと似ているなと思った。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年8月29日月曜日

照沼重輝の中国彷徨記(長春滞在)・・・6

2016.8.29月 体風近し 午前5:52
 長春の思い出は日本軍が遺棄した毒ガス爆弾処理に使う機器類の売り込みに商社の
応援で行ったことである。ノルエイ―の商社が日本にあり、その会社からの依頼で長春まで
出かけた。長春の高層ビルからの眺めで大きな山が北方に見えた。案内人の言うことには
「今日はあの山のむこうで北朝鮮の金正日氏が会議をしている」と言われた。
北朝鮮と中国は国境を一つにしていることがあらためて実感した。思うに、中国北方国境は
歴史上はいつも紛争が絶えない地方であったが、新中国成立後は安定していた。しかし、
最近は何やら人騒がせ的なことが起きている。何故だろうと考えるが、その原因の一つには
人種が入り混じっている地方であることでないだろうか。朝鮮半島を取り巻く人種は、日本や
漢族、モンゴル族、ロシア人がいる。ここ2千年の歴史を紐解いても、朝鮮族、漢族、ロシア人
、モンゴル人、日本人が相争った地区であることが証明されている。俺はそのような地方に
商談をしに行ったことは面白い経験ができた。商談の中身はさておき、次回は大連を記しま
す。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝


2016年8月27日土曜日

照沼重輝の中国彷徨記(済南の展示会)・・・5

2016.8.27土 曇天 午前6:02
 友人の会社が作っているトラックボデイを中国で売り込もうとして済南の展示会に出品
した。その応援で済南に通訳や技術者達と出張した。空港を出ると迎えの車が来てい
た。その女性運転士に泰山に行きますかと言われたが、忙しいので断り、真っ直ぐホテ
ルに向かった。泰山は有名な山であり、一度は行ってみたいと思っていたが辞めた。中国
の旅は殆どが仕事中心であるから、個人の欲求だけでは動けないのである。ホテルには
先遣隊が待っていた。彼らと夕食を一緒にしたが、済南の食べ物は塩辛いことだけが
記憶に残っている。始皇帝の泰山や黄河文明の発祥地でもあり、それなりに歴史は古い
町であることも分かった。展示会が終わったら歴史を見学することができると思ったが、
その実行は未実現となってしまった。翌日、展示会が終わり、時間の余裕が出たので
少々の見学ができたが、特に興味深い歴史観は味わえずに終わった。中国経済の
夜明けのような時代にその国内を彷徨っていたことが懐かしく思える昨今である。
  次回は長春のドタバタを記します。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

 

2016年8月25日木曜日

照沼重輝の中国彷徨記(北京初体験)・・・4

2016.8.25木 快晴 午前6:22
 北京に初めて行ったのは1982年の34年前であった。当時の北京空港は歴史の発展
に置いて行かれた鄙びた国の空港のようであった。茨城県日中友好協会の団体に混じっ
て訪中したのであった。当時の中国は長らく閉ざされた国であったが、鄧小平の政策の
改革開放政策で、国がやや夜明けの薄明かりが射したような状況であった。夕方、北京
の薄明りの空港を出て、お迎えのバスに乗りこんだ。空港から北京の町に入るのは旧道
を通っていった。農村住宅街を抜けて町に入っても電力不足のせいで町の灯りが乏し
かった。その暗闇の中を人々が涼を求めて散歩をしたり、公園の灯りの下で卓球や
玉突き、テープをガンガンかけてダンスを踊ったりしていた。男は人民服で女性はおっかぱ
頭で地味な服装をしている。町の中に人混みがあるので目を見張ると、口論している
2人を眺める人混みであったりした。とにかく人混みが見たことのない人数であり、人民
パワーの坩堝を目のあたりにした。ホテルに着いたが、バーや資本主義特有の派手な
キラキラ感が無く、とにかく寝るだけを備えたようなホテルであった。しかし、ホテルは
五つ星であり、かの有名な北京ホテルであった。誰かとぶつかり腕時計のガラスが割れ
たので修理をしようとホテルマンに聞いても何の解決策も講じてもらえなかった。とにかく、
北京は当時の東京と比べて40年は遅れた町であった。最近の北京は凄まじい発展を
した町となっているのだが・・・・・・。
 明の墓や有名なところを歴史も知らずに見学したことだけは覚えているが、本当の
庶民環境は見学できなかったが、その後に度々北京を訪れ、庶民生活のの真っただ中
を今も歩いているのである。覚えているのは北京ダッグの有名店で当時の要人と会食
ができたことである。次回は済南滞在記を記します。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年8月24日水曜日

照沼重輝の中国彷徨記(玄中寺へ)・・・3

2016.8.24水 曇天 午前6:27
 玄中寺に行こうと思ってかれこれ周辺に聞いたが道を知っている人はホテルにいなかった。
俺は外に出てホテル前のタクシー運転手に聞いた。寺の名前を漢字に書いて示したら、その
運転手は分かると言う。直ちに商談成立、俺たちはホテルに荷物を置いてタクシーに乗った。
ホテルから南方に80kmの距離であり、要する時間は往復5時間の道のりである。山西省
太原は石炭産業の有名な町であり省都でもあるが、現地に行くまでは相当な田舎に見えた。
約3時間後に玄中寺の麓に着いたが、山の頂上に寺らしきものが薄ぼんやり見えるだけで
ある。何と頂上に上がるには歩くか、細い道路をくねくねと用心深く車であがるだけのようで
ある。しかし、細い道路の上り口に日本のテキ屋のような人相の悪い人が数人が店を出し
ている。俺は知らんふりをして細い道路に入ろうとしたら、「待て、上に行くならば通行料を出
せ」と言われた。金額は30元である。俺は10元ではどうかと言うと、彼は駄目だ15元だと言
う。そこで、俺は20元を支払い彼のにっこりした顔を確認し、堂々とゆっくり車を上に向かって
走った。中国には時々このような経験をしている俺には理解できるが、日本人には分からない
田舎地元の習慣に遭遇する場合がある。玄中寺の正門に辿りつけ、タクシーを降りて下界を
眺めたら、そこはまるでグランドキャニオンのような景色であった。このような景色は、観光
事業の大きな資本になるであろうと思えた。玄中寺で永代供養のお願いをしてお金を支払い
山降りたが、降りる時はお金を支払わないで済んだ。私的通行税にも良識があるのだなと
思えた。次回は30年前の北京初体験を記します。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年8月23日火曜日

照沼重輝の中国彷徨記(山西省玄中寺)・・・2

2016.8.23火 台風一過 午前5:13
 日本人の有名な人のお骨をもって永代供養のために玄中寺に行ったことがある。
その政治家は地方政治家であったが、国際問題を良く把握していた。その息子と
俺は、彼の遺言通り玄中寺に永代供養をお願いしに行ったことを記します。
 夜の8時頃、息子は北京から太原に向かう。俺は上海から太原に向かい、太原
空港で待ち合わせをした。俺が彼より遅れて着陸をして待ち合わせの空港出口に
行くと彼は現地の人と何やら話をしていたのであった。俺「ヤーヤー遅れて悪い、
待ってたかな」彼「現地人と楽しんでいたよ」と屈託のない挨拶をくれた。俺は中国
でホテルを探すコツを知っている。中国の空港には一流から?流までのホテルの
お迎えが来ていることが多い。俺はその客引きの出迎え人の所に行って「マイ
タン」と聞くと、出迎え人は「500元、1000元」などと答えるのである。俺は50%
の値引きを申し込みながら出迎え人の所をぐるぐる歩くのである。そこで大事なの
は出迎えのバスがあるか否かのホテルが安心ラインなのである。ホテルまで
タクシーで行くかバスで行けるのかを確認しないと、やがてがっかりする場合が
生じてしまうのである。何やかんやの交渉をして二人でバスに乗りこんだ。
忘れたが、もう一つの交渉をしなくてはならないのである。つまり朝食付きか
どうかも確認が重要である。朝食だけで50元や100元がぶっ飛んでしまうから
それを惜しんで交渉をする。大概は朝食がサービスになると思うが、そうでない
場合もあるので要注意しなくてはならない。このように業務旅が多い私は、常にコ
ストを考えてしまうのである。バスの乗りこめた私たちはホテルについて夕食も
ままならないで寝込んだ。次の朝に朝食を食べながら玄中寺の場所を聞き込ん
だら誰も聞いたことが無いと言われ愕然としてしまった。「さーどうしよう」が日本
から4000kmも離れたところで起きてしまった。次回は玄中寺に辿りつくを記し
ます。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 

2016年8月22日月曜日

照沼重輝のアメリカ中国彷徨記(西安の表情)・・・1

2016.8.22月 台風近く 午前4:38
 西安には2回ほど行った。1回目は高校同窓会で行き、2回目は商売で行った。1回目の
旅は旅行会社を頼まないで同窓会独自の企画で旅行した。西安で2日を楽しみ、上海で
2日を楽しんだ。西安ではバス1台をチャーターして兵馬俑や秦の始皇帝の墓や西域への
出口を見て回った。何と言っても兵馬俑は圧巻であった。始皇帝が地下に死後の世界を
作り、死後と言えども安心していられるような空域を作ったのである。そのスケールは大陸
ではの大きさである。数千体の2メートルほどの軍人の像や武具などと一緒に埋葬されて
いるのである。その軍人像の顔の表情は一体ごとに違うのである。正に圧巻であった。
次に始皇帝の墓に登ってみた。ピラミッドのような作りの墓で周囲数キロの墓であった。
遠くに祁連山が見えたが、歴史に出る数々の地名を思い出した。西域の出口に立ち、
「砂漠に伏すとも君笑うなかれの」の漢詩を思い出した。西域奥地の数々の歴史が思い
出された。特に敦煌の映画の一場面をロマンテックに思い出してしまった、中国大陸の
ケールはアメリカと違う広大さがある。西安の夜は人民と一緒に広場で踊ったり暗闇を散
歩したりしてANA系のホテルに戻り、豪華な部屋で始皇帝を偲びながら満足な一人寝を
した。
次回が太原玄中寺での永代供養の思い出を記します。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年8月21日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(アメリカ旅最終版)・・・50

2016.8.21日 快晴 午前6:34
 クラバウハウスの前でぼんやりと帰りの車を待った。夕陽の丘の向こうからグレーのレキ
サスミニバンが近寄ってくる。運転席にアジア人が見える。だんだん近づいてアジア人の顔
がはっきりしてきた。彼は上海人の郁遜であった。懐かしい顔がよりはっきりした。思わず
レキサスに近寄り、運転席から手を入れて彼に握手を求めた。彼も懐かし気に握手を返し、
車を急いで降り、俺のゴルフクラブを荷台に積んでくれた。俺は事前にゴルフをやることを
連絡したので、彼は気を利かして俺を迎えに来たのであった。彼はレキサスを駐車場に入れ
て、ゴルフ場を見学したいと言う。数年前にゴルフを彼に教えたのは俺であった。断れないの
でゴルフ場に彼を案内するどころか練習迄付き合うことになった。一度積んだキャデイバッグ
を下ろし、クラブハウスに入り、カウンターに許可を得てから、練習グリーンに上がった。
同じグリーンにアメリカ人がキャキャ―言ってパタをやっていた。観察すると、18番ホール
で決着がつかないので、19番ホールを練習グリーンで勝負をしているようであった。いわ
ゆるチョコレートの決着をつけようとしていたのであった。それが日本にない勝負のつけ方
である。日本人なら引きわけは最高の勝負のつけ方であるから、次のチャンスまで持ち越し
になるが、アメリカ人には無いようである。日本人の俺には大変勉強になった。俺たちは
グリーンの練習とウッドやアイアンの練習をして、練習もアジア人同士の勝ち負け無しの
ような終わり方をして帰途に着いた。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 

2016年8月17日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ゴルフ場の夕陽)・・・49

2016.8.17水 台風 午前5:08
 台風は水戸市の東南80kmの太平洋上にあると言うが、小雨だから静寂の朝である。
話は別だが、ゴルフ場から帰途の夕方に真っ赤な夕陽を拝める時が幾たびかあった。ゴ
ジャスなパブリックコースからの帰り際であった。肩にクラブを抱え、右手にゴルフバッグを
持ち、クラブハウスから出て迎えの車を待つために出口のベンチに座っていた時の話で
ある。なだらかな丘陵上のゴルフ場であるから見晴らしが良いところであった。俺はゴルフを
終えた和やかな目と表情でユッタリと遠くの山峰を眺めていた。その時に目に入ったのは、
巨大と言っても過言でない真っ赤なお日様が山峰に沈もうとしている間際であった。この
瞬間を何と表現をすれば良いのかは分からない。山峰から山裾まで照らしている赤々と
した光と大平原に陰と陽に被さる光の違いは、何と表現して良いか分からない表現になる。
この瞬間を人によっては、神々しいというか太陽に感謝する瞬間か、それとも明日への
幸せをお願いする瞬間か、どうにも言いようのない瞬間である。俺は瞬間的に太陽に
お願いをしてしまったのは、その時はアメリカ大陸のレンタカー横断中であったから、
交通事故を含めた災害払いのお願いをした。正に日本人的便利な宗教心の現れであろう
と考えている。次回は50回目になるのでアメリカ大陸の場面を終わりにします。そして
次に中国大陸の面白いことや一般人が経験できない場面を記してみます。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年8月15日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ゴルフ場の支払い)・・・48

2016.8.15月 快晴 午前5:20
 ゴルフが最終ホールになりクラブハウスに戻り会計を済ませるところところを記します。
結論から言えばアメリカでのゴルフの会計はプレーする前に済んでしまいます。クラブ
ハウスに着いてカウンターで名前を記帳した後にカードで前払いをさせられます。
ただし、プレー後に飲食などをした場合は二度目の会計を受付で精算をさせられます
から、この部分を記してみます。
 いわゆるスルーで1ゲームを終了しますが、終わった後に仲間同士で軽い食事や
お茶を飲みます。ゲーム後の心地良い話や他愛もない話で寛ぎます。女性同伴の
グループや男性同士のだけのグループは、ゲームの緊張から解き放され、実に心地
良い会話で話が弾みます。隣のテーブルの会話を盗み聞きしてしまったことがありま
すが、英会話の実力不足から断片的な話しかしか分かりませんでしたが、お披露目を
します。白人男性「グリーン近くが駄目だな」同伴者「ボールが曲がる、直さないと」
白人男性「一打5ドルだから30ドルだ」同伴者「ここの飲料代にして」白人男性「OK」
だ。というような内容で笑い声が聞こえた。どこの国でもゴルフ終了後の第二次精算が
あることが分かったのであった。
  カウンターで飲食の精算を済ませ、クラブハウスを出る頃には、西の方面に大陸
特有の夕陽を拝めるのである。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年8月14日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ゴルフ心)・・・47

2016.8.14日 快晴 午前5:06
 オリンピック開催期間は早寝早起きになっている。
 ゴルフで一人前になるのは長い時間がかかる。俺はだらだらと37年間のゴルフをしてき
てしまった。理由は練習と本場場での密度の濃いゴルフをしなかったからである。友達と
楽しむためのゴルフでしかなかったからである。そのようなゴルフへの取り組み方は、アメ
リカでも発揮されてしまった。そもそも日本のゴルフ場の作りとアメリカのゴルフ場の作りは
違ったのである。場所はカルフォルニア州のサクラメント市のパブリックコースでの最終ホ
ールに近いホールでの出来事であった。俺の第一打目をアメリカ人が「ファインショット」と
言って褒めてくれた。俺はミドルコースの第一打目をフェアウエーのど真ん中に距離を出
して運んだ。二打目もファインショットを狙って打った。頭の中は又してもファインショットを
狙うという力を入れる落とし穴が待ち構えたのである。スプーンを持った両肩の筋肉は満
杯の力を入れて二打目を打った。力を入れ過ぎたスプーンはボールの頭の5mm程度の
上部を撫でただけになってしまった。可哀想にボールは僅かに30m先に飛んだだけであ
った。俺は愕然として視点の定まらない目を天空に注いだのである。ゴルフはプレー中の
一挙一動を喜んだり、怒ったり、悲しんだり、恥じたり、自慢したり、反省したりを味わえる
ゲームである。これらのことは最初からは分からないが、ゲームが終わってから分かる
のである。このようなことが分かってきたのは、頭の足りない俺でもゴルフ歴37年を費や
したからであると考えている。
 次回からはゴルフ場の精算からオフィスを後にするまでを記します。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝


2016年8月4日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ゲーム後半)・・・46

2016.8.9火 快晴 午前6.51
 スルーで次のコースに入った。白人アメリカ人は5オーバー、黒人アメリカ人は7オーバー
俺は8オーバーで後半のハーフに入った。それぞれ三人は思い思いを胸に秘めて後半を
迎えたのである。俺は三番目の打順となったので、前の2人が打つのを眺めた。白人は
テークバックが浅くボールが右に飛んだ。黒人はゆったりとしたスピードでボールを打つこと
ができたので真っ直ぐに飛んだ。俺も力を抜いてゆったりとしたスピードでボールを打った。
俺のボールは青空に真っ直ぐ上り、二人の30ヤード後方に落ちた。ミドルで残りが200ヤー
ドはあるようだ。あとの2人はゆったりとアイアンをもって俺の二打目を待っていた。俺は
頭に描いた全体のリズムで、テークバックをゆっくり、つま先立ち、顎を引いてボールを
スプーンで打った。このリズムが功をたて、ボールはジェット機の離陸時のような弾道で
フェアウエーを離れて飛んでいった。白人と黒人が「ファインショット」と叫んでくれ、俺は
自己満足感から思わず直立不動で二人にお辞儀をしてしまったのである。アメリカでは
そのような作法が無いのであろう。二人も俺に見習って無骨なお辞儀をしてくれた。この
調子でいくとバーディが出るかもしれないと、早くも崩れる発想になっていることを忘れて
グリーンに向かっていた。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝


2016年8月3日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(昼時と駐車場)・・・45

2016.8.3水 晴れ入道雲 午前6:42
 アメリカのゴルフ場での昼時は日本風でない。ゲームの途中はクラブハウスに
入っての昼食は取らないようだ。しかし、女性が乗ったカートがサンドイッチや飲料
を持って売りに来る。そのサンドイッチも二人で食べるようなボリュウムであるから、
俺は買ったことが無い。スタート前にクラブハウスでサンドイッチを買ったことはあ
るが、ゲームの途中では手が出ない。食欲どころか、スコア欲が先行しているので
ある。ゲームが終わればクラブハウスでゆっくりと食事が出来るが軽食の範囲で
ある。とても酔うほどにアルコールは飲めないのだ。周りのテーブルを見ても、紳士
や淑女がマナー正しく食べたり飲んだりしているのである。俺は他の客を見習いな
がら食べたり飲んだりしたものであるから全然美味しくなかった。だから、昼食時の
風景は詳しく記せないのである。ゴルフ場の駐車場には高級車や中型車が並ぶが
コンボーイ野郎の車両前部が停まっていることを見たことがある。聞くところに
よると、運送途中や運送終了後にゲームを楽しむそうだ。アメリカではのゴルフで
あるようだ。次回はゲーム後半を記します。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年8月2日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ゴルフスタイル)・・・44

2016.8.2火 曇り 午前6:43
 ゴルフプレイヤーにはうっとりする男がドキドキ見られる。どのような形かというと、
身長180cm以上、細身、長い脚に細身の明るい色のパンツを着て、飛び切り明る
い色の半袖シャッツ、帽子はひと際冴えたブランド品、靴はピン社の高級品、グラブ
も安物でないもの、帽子の下から見える白い肌の顔、目はブルー、髪は金髪、半袖
の下から見える二の腕は日に焼け、たくましく太い腕、ベルトの下の腰は贅肉が無く、
形良いふた山につながる。
 俺はこのような形のプレイヤーとカルフォルニア州サクラメント郊外のゴルフ場でプ
レーした。俺の形と言えば、身長160cm、体重72kg、頭髪は染めた黒髪、足の長さ
は普通で太く、腰の周りに贅肉がたっぷり着き、地面を踏みしめる足元はフラフラだが、
風貌で劣っても腐ることなく、最後までアメリカ紳士とプレーをしているのである。勿論、
このような体形に似合う服装は無い、俺は諦めて昔の尾崎プロのスタイルでゴルフを
いつもしているのだ。香港映画でよく見る悪役スタイルであると言われてもしょうがな
いほどの形であるが、アメリカでのプレーも尾崎スタイルで過ごしてしまっている。今思
うと、同伴競技者のアメリカ人は「日本でのゴルフもこのスタイルか?」と言いたかった
ろうと思う。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月31日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(散々な目)・・・43

2016.7.31日 快晴 午前6:02 
 5番ロングホールで散々な目に会う羽目になった。250ヤードを残して四打目にな
っているのである。焦る心は最大だ。従って、テークバックも早くなり、ボールは左に
曲がり、グリーンをとらえるどころでない。ブッシュの根元にボールが転がっている。
高い草を入り分けてボールを確認した。額には大汗が湧き出て、目が血走り、
己を怒る、怒り心頭の顔つきになってしまった。ピッチングで50ヤードをのせにかか
った。何も考えずに打った。又してもミスショットである。ボールはブッシュから僅か
に10ヤード先をチョロチョロと転がっただけである。既にグリーンに届く前に5打を
打ってしまっていた。頭の中をチラッと過るのは何打になるだろうかという心配であ
った。このホールは6打でグリーンに乗せて、スリーパットで9打を打ってしまった。
万事休す、アーメン、南無阿弥陀仏、天に見捨てられた、混乱して自分が打った
打数がまともに数えることができない状態となった。肩を落とし、カップからボール
を拾い上げ、手にピンとボールを持って一刻も早く、グリーンから逃げ去りたくなっ
てしまった。我に返り、ピンを戻してフルスピードでグリーンから逃げ去った。
散々、悲惨、泣きっ面にハチ、何度でも言いたくなる5番コースであった。
これは二度と繰り返さないとも誓ったコースでもあった。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

照沼重輝のアメリカ彷徨記(散々な目)・・・43

2016.7.31日 快晴 午前6:02 
 5番ロングホールで散々な目に会う羽目になった。250ヤードを残して四打目になって
いるのである。焦る心は最大だ。従って、テークバックも早くなり、ボールは左に曲がり、
グリーンをとらえるどころでない。ブッシュの根元にボールが転がっている。高い草を入り
分けてボールを確認した。額には大汗が湧き出て、目が血走り、己を怒る、怒り心頭の顔
つきになってしまった。ピッチングで50ヤードをのせにかかった。何も考えずに打った。
又してもミスショットである。ボールはブッシュから僅かに10ヤード先をチョロチョロと転がっ
ただけである。既にグリーンに届く前に5打を打ってしまっていた。頭の中をチラッと過る
のは何打になるだろうかという心配であった。このホールは6打でグリーンに乗せて、
スリーパットで9打を打ってしまった。万事休す、アーメン、南無阿弥陀仏、天に見捨てられ
た、混乱して自分が打った打数がまともに数えることができない状態となった。肩を落とし、
カップからボールを拾い上げ、手にピンとボールを持って一刻も早く、グリーンから逃げ去り
たくなってしまった。我に返り、ピンを戻してフルスピードでグリーンから逃げ去った。
散々、悲惨、泣きっ面にハチ、何度でも言いたくなる5番コースであった。これは二度と繰り
返さないとも誓ったコースであった。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月30日土曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(五番ホールの大木)・・・42

2016.7.30土 快晴 午前6:21
 俺は四番ホールをパーで切り抜けられた。グリーンは大きくアンジュレーションがたっぷり
あるホールだった。五番に立ってロングホールを眺めた。フェアウエーは広いが距離もたっぷ
りである。左側にはなんの木か分からないが大樹が無数に茂っている。右側は広いラフが
広がっている。右のラフは危険と思い、やや左側を狙って打った。テイクバックが早く、ボール
は左の大樹群に向かって飛んで行った。早くも心に不安が押し寄せている。ボールの方向に
カートを全速力で進めた。案の定である、ボールはフェアウエーに向かって大樹の後ろに
落ちている。ボールは出すだけであり、確実に一打を失う状況である。ボールの位置に立って
何度も脱出口を探すが、脱出口は見つからない状況である。やむを得ない、フェアウエーの
後方に出す他なかった。俺の心は瀕死の重傷であるが、平然と装い、後方に出して、次が
狙えるポジションにボールを運んだ。距離570ヤードのロングは長い長い。俺は三打目と
なり、次をスプーンで打った。既に心は揺れ動いているので、へなちょこボールになった。
ヨロヨロと飛んだボールはグリーンまで相当な距離を残している。アメリカ人が同情する
ような顔で俺を見ている。俺は焦った、カートをフルスピードでボールに向かって走らせた。
既に四打目に入るが、距離は250ヤードを残している状況である。焦りが幾重にも押し寄せ
ている。俺の心は既に平静心が砕けていた。次回は散々な・・・・。を記します。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

                    木々は揺れ、嵐来襲、心理は同じ状況
 

2016年7月28日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(名誉挽回ホール)・・・41

2016.7.28木 快晴 午前7:03
 梅雨が終わったようだ。朝から青空の一部が雲の合い間から覗けている。気持ちが良い。
名誉挽回とばかりに4番ホールに向かった。距離は425ヤード、アメリカのコースは全部
が長いので難コースになってしまう。油断が出たか白人は右に曲げて深いラフに入った。
黒人はフェアーウエーの真中をキープしたがあたりがいまいちであった。俺はテイーグラン
ドに立って、深く息をのみ込み、ゆっくりとスイングを始めた。ギリギリのゆったり感でクラブ
をトップの高さに持っていってから、自然の力で振り下ろしボールを打った。びっくりである、
力を自然に抜いて打ったボールは一番の飛びで飛んで相当な距離を出したのである。今
思えば、力のいらないスポーツがゴルフだよと先輩にいつも言われていることを思い出す。
アメリカ人が俺のボールを見て「ファイン・ショット」と叫んでくれた。俺は何となくチャンピオ
ンになったつもりでフェアウエーの真中を歩いてボールに向かった。僅かの差で黒人の
ボールを抜いた距離が出ていた。それでも残りの距離がゆうに200ヤードはある。最後の
打順で三番スプーンを出して、載せてやろうと野望を持ち、力が入っていることを忘れて打
った。見事にボールは左の方に反れてグリーンをはづしてしまった。一日天下どころか、
一打天下で終わってしまった。白人はラフから、黒人はフェアーウエーから乗せて、ピン
傍に乗っていた。残念至極。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月26日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ショートホール)・・・40

2016.7.26火 曇天 午前6:11
 三番のショートホールに移った。打順は白人からで距離は200ヤード、カップは右方面
に切ってあるようだ。グリーンの左はカート道路とブッシュであり、右側は浅いラフである。
白人のボールはややセンター横につけ、黒人は中央にボールをつけた。俺は三番スプー
ンで思い切り力を入れて打った。距離があるコースなので力は自然に入る。力を入れた
ボールは左に曲がりグリーン横にこぼれてしまい、二打目を打ちにくい場所に落ちていた。
白人がボールを移動しても良いよと言っているようだが、侍魂で移動しないでやせ我慢を
してグリーンに上げようとして打った。打ったボールは見事にグリーンの上を転がり、反対
側の浅いラフに転がってしまった。ゴルフはこうなると思考力は半減、身体バランスが崩れ
てしまうことになり、顔は血気帯び、足はヨロヨロ、手は脂汗、目は焦点定まらずの状況
である。正に日本人のゴルフのうろたえかたをアメリカ人に見せているようになってしまっ
た。俺はそれでも笑顔を崩さず、ボールをやっとグリーンにのせて、2オバーのダボで
ホールアウトをした。黒人はボギー、白人はパー、俺は醜態を見せてダボになってしまっ
た。考えることは名誉挽回しかない。いそいそと次のホールに向かったのである。外地で
のゴルフは舞い上がり気味になり乱調を招くのである。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月25日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(二番ホール)・・・39

2016.7.25月 快晴 午前6:35
 一番ホールは緊張の上でボギーで上がれた。二番ホールに移り、コースを眺める余裕
ができ、順番を待つ間とテーグランドから観察をした。大きな高い木がフェアウエーの左
側に立ち、右に広々としたフェアウエーがあるがミドルバンカーもある。ショートカットは
左側の松の木の上であり、どちらに打つもラッキー性を期待するほかない。俺は最後の
打順に立ち、ゆっくりテイクバックをしてから思い切り一番ウッドを振り下ろした。覚悟を
決めて打っているのでヘッドアップはしないので、ボールは良い弾道が出て木の上を
難なく越していった。アメリカ人2人がグッドショットと声をかけてくれたが、ボールはアメリ
カ人の70%前で止まってしまった。理由を考えると、パワー不足、地面が湿地地帯で
バウンドが稼げないと判断をした。グリーンまで残り220ヤードはある地点だった。アメリ
カ人がスコープを出して残りのヤードを見てから俺にそのヤードを教えてくれた。日本に
このスコープはあるのかと言いたいようであった。俺は第二打目のクラブ三番ウッドを選ん
でからボールの後方に立ち状況判断をした。グリーンは左から右に傾斜が有り、後方は
小高い傾斜を持ち、ピンは真ん中にあるようだと判断をした。アメリカ人二人が無言で
俺を観察している。多少の緊張の上で三番ウッドをテイクバックから振り落とした。三番
ウッドは得意のクラブであるから平常心で打てた。ボールは低飛行から高飛行に移り、
見事にグリーンに落ちていった。ナイスオンの声が聞こえたので、俺は悠々とグリーンに
上っていった。アメリカ人二人もボールがグリーン上にあったので、俺はナイスオンと
賛辞を贈った。俺のボールからカップまでは平たんなコースであるが、距離があったので
バーディは出ずパーで上がった。同じくアメリカ人もパーであった。互いにナイスパーを
連発してより友達になれた瞬間である。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月23日土曜日

照沼重輝のアメリカ・中国大陸彷徨記(テイ―グランドに立つ)・・・38

2016.7.27土 晴 午前7:27
 俺は「アイ・アム・バタフライ・イン・マイ・ストマック」であった。白人が名乗り、黒人が
名乗り、俺が自己紹介だけは流ちょうな英語で名のったが、打順をどのように決めるか
分からないでいたら、黒人が俺に打てと言う。俺は遠慮して手まねで「どうぞ先に」
と表示をした。それで、黒人、白人、俺という順序で打つことになった。その前に職業
紹介を黒人から先にされたのである。黒人はアメリカ軍人で白人は民間航空のパイロ
ットと言った。俺は貿易商だと自己紹介をしたら、どことどこの貿易だと質問をされたの
で、中国とアメリカだと言った。それでゴルフのオナーが決まり黒人が打ったら、ボール
は右に反れたが、大巾に飛んだ。それでも黒人は舌打ちをした。白人が打ったボール
はドロー系で見事な角度を描いてフェアウエーのど真ん中に落ちた。最後の俺は緊張
してテイーグランドに立ち、真ん中にボールが飛ぶように念じ、ドライバーを振り上げ、
ボールから目を離さずに力を抜いて振り下ろした。スライス系のボールが右の林の
ギリギリ線上に落ち、黒人の打ったボールから70ヤード後方に落ちた。俺は下手だが
ゴルフ歴は長いので、若い彼らのゴルフの進行リズムよりは順調に進む。クラブ選択も
瞬間に判断できる。NO1のホールは420ヤードのミドルで距離がたっぷりあるが、
スムーズに3番ウッドを取り出しワンオンを狙ってボールの後ろに行った。グリーンを
遠くから観察した。左は短い芝で幅が有り、右は大木や深いラフが有り、グリーンの
先はOBとなっていない。外れるならば左であると考え、絶対注意の右を避けた打ち方
をしようと決めてバッグスイングに入った。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月22日金曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(初ゴルフ)・・・37

2016.7.22金 曇天 午前6:42
 初めてアメリカでゴルフをしたのはカルフォルニア州サクラメント市のパブリックコース
であった。日本ではゴルフ歴が30年を超えるので何処のゴルフ場でも緊張は無いが、
アメリカでの初ゴルフには多少の緊張感が出た。その日、俺はレンタカーでゴルフ場に
向かった。ゴルフ場の入り口が分からないほど広いパブリックゴルフ場であったが、
クラブハウスまで何となく辿りついた。ハウスの前で車を停め、トランクから買っておいた
キャデイバッグを取り出し、オフィスの真ん前に置いて、車を駐車場に入れなおした。
パスポートとアメックスカードをポケットに入れてオフィスのカウンターに立った。何しろ初
めて英語で受付をするのでドキドキしたが、顔の表情は変えずにカードとパス―ポートを
受付係の前に無言で出した。受付は「スリーサム、フォーサム、オーケー」といったような
気がしたので俺は「オーケー」だけをやっと言えた。その前に受付簿にテルヌマのサイン
を入れ、カードで代金を決済した。受付よりカート番号を指定されたので1人でキャデイ
バッグを積み込み、隣のパッテング練習場に入り、パットの練習を始めた。
  ほどなくすると受付係が俺を呼んだので一番のテイ―グランドに向かってみると、
白人が一人と黒人が一人の二人が俺を待っていた。どうやら三人でまわれるようである。
白人が名を名のり、黒人も名を名のったが、現地英語を瞬間では聞き取れなかった。
俺は緊張しながら「マイ、ネーム、テル」とだけ言えた。「ジャパネーズ」と付け加えた。
これがアメリカでのゴルフ開始の記念すべき瞬間であった。以後、アメリカでのゴルフ歴を
思い出しながら記していきます。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月21日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(湯の町)・・・36

2016.7.21木 曇天 午前9:27
 昔はカポネの保養地、今はアメリカ市民の保養地であるホットスプリングスに入った。
小高い丘を見上げながら町中に入った。そこは確かに保養地の賑わいを見せている市
街の様相を帯びていた。歩いている人は漫ろ歩きであり、街中の空気は和み、商店は
土産品店が多かった。駐車違反になるが車を病院の前の空いているスペースに停め、
俺は街の端から端まで歩いてみようと決め、商店街のアーケードの下を歩き始めた。
土産品店を覗きながら歩く、店に入る出るを何度か繰り返しながら漫ろ歩いた。土産品
は殆んどが中国製であり、時として中国にいるのかなと勘違いをしてしまう漫ろ歩きを
しながらも町はずれに来てしまった。意外と商店会の距離が短い町である。時にアル
カポネの人形の前で写真を撮り、映画で見たカポネを懐かしんだりした。飽きたので車
に戻り、町の背後に見える山を目指し、気分を一新させようと思いそこに向う。びっくり
した。ホットスプリングスはアメリカの一大別荘地であった。大中小の別荘建築物の
オンパレードである。別荘建築物の周囲を散策して目の保養をしたりしながら、山の
頂上に車で向かった。頂上に登りホットスプリングスの町を見下ろし、俺は自分のスケー
ルをアメリカ大地の大きさに合わせようと努力をしてしまった。しかし、すぐに現実に戻さ
れ山を一目散に下りた。スケールの大中小は生まれながらかなと想いながら駆け下り
たのである。次回はアメリカでの初ゴルフを記します。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
山から見下ろすホットスプリングスの町

2016年7月18日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(カポネの保養地)・・・35

2016.7.18月 海の日 曇天 午前7:09
 クリントン元大統領の実家を去り、俺は次の目的地のホットスプリングスにIN30
を使い向かったのである。アメリカの地は広大である。日本みたいに次から次への
観光地は無いのだ。ホープ市から200kmくらいの地点にカポネが湯治に来ていた
町があるのでそこに向かった。途中は林か畑があるだけで退屈をするが、俺は途中
の町並みや景色を眺めるだけで満足をしてしまう。それだけでも他の旅人よりは利益
が大であると考えているから、大陸に向かってしまうのだ。レイク・ハミルトンの橋を渡
り、一軒の土産物店に車を停めて店に入った。湖を一周しながら昼食をするコースの
チケットを買い、湖一周の遊覧と洒落込むことにした。船に乗り、お昼を食べ、自分
で操縦しない遊覧は、俺にとっては大変な贅沢三昧であるが、100ドル贅沢遊覧
に参加した。船長、甲板員1名、レストラン部2名、ウーエートレス1名の仕立て船
はゆっくり岸を離れ、岸辺に見える高級別荘地へ舳先を向けた。目に入ったアメリカ
の別荘の大きさと豪華さは日本の別荘とは比較にならないほど大であった。人生を
楽しむ、家族と友人等と大いに楽しむ、東洋人には無いアメリカ人の享楽性を
この湖で垣間見られたのであった。次回は湯の町へ進入を記します。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
このような道路を経てホットスプリングスに向かう

2016年7月16日土曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(陸橋の向こう)・・・34

2016.7.16土 快晴 午前10:27
  俺はクリントンの家を一周し徘徊し、玄関階段を下りて左手に行って田舎雑貨店を眺
め家に戻り反対側に向かった。多分だがローカル線の陸橋下をくぐり、クリントン家の西
側の何らかの大型店の向かいに出た。遠くからスーパーの庭先を見たら、停車中の車
が少なく、閑散としたスーパーであったので、近くに行くのは辞めて、ユータンをして陸橋
下をくぐり、クリントン家に戻った。もう一度クリントン家の庭先に戻ると大統領のスピーチ
台がホープ市によって設置されていたのを見つけた。俺はその大統領のスピーチ台の前
に立ち、暫し大統領気分で右手を上げたり、スピーチをしたりしてその気分を味わったの
である。
  小一時間が過ぎたので駐車場に戻り、次の予定地のホットスプリングに向けて出発し
た。そのホットスプリング市はかの有名なアルカポネがお忍びで保養に来ていた町らしい
が、日本風にいえば温泉地である。山を抜け、畑を抜けると湖が見えてきた。湖の周りは
高級別荘が並んで立ち、湖には大型クルーザーが係留され、いかにも贅沢な保養地に
見える。一軒の、湖畔のショップ前の駐車場に車を入れ、店内に足を入れた。沢山の土
産用品が目に入った。次回は観光船に乗るかなを記します。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
カポネ親分・・・ここに潜んでいたの? 

2016年7月14日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(田舎の雑貨店・・・)33

2016.7.14木 曇天 午前6:32
 田舎の雑貨店に入ってみた。そこは農業資材や牧畜用資材、一般家庭の生活雑品
等を売っている店だった。入ってくる客の姿は作業着を着た中年男性や家庭からすっ
飛んできたような女性の姿があった。日本の店と違うのは、商品は整理整頓がされて
いない、正に乱雑に品物が置かれてある。最初からそうなのかと思うが、そうでは無い
のだ。例えば、Aという客が品物をあれやこれやと探してみる。あれやこれやと引っ張
り出した品物はそこに置いたままにする。そして、そのまま違うコーナーに移動をして
しまうのである。乱雑に置かれた品物は暫く店員が整理に来ないでそのままにして
置かれているのである。日本ならばそのような店の支配人は首であろう。このような
田舎の店は普通なのである。アメリカでは商品配列などの細やかなことはあまり考え
ないのだと感じた。それと日本みたいに超小型工具等は見当たらない気がした。
あってもあまり売れないのかもしれない。小型よりは大型を喜ぶアメリカ国民なのだ。
ザーッと店内を歩いてみたが欲しい物は無く、数分で店の外に出た。駐車場には
乗用車より貨物車が多く停まっていた。荷台付きの車が多い、アメリカでは配達が
無いので大型家具を載せることができる車が便利なのだと聞いたことがある。また
クリントンの実家に戻り、玄関から左側に歩いた。鉄橋の下をくぐりながら歩いた。
もう一つの世界が見えてきた。明日以降に記載します。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月13日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(実家周辺を徘徊)・・・32

2016.7.13水 雨 午前6:34
 クリントン氏の実家周辺を何度も徘徊した。実家の玄関から階段を下り、左に行け
ば大型雑貨店で右に曲がれば鉄道の陸橋下である。俺は先ず左に曲がり歩いた。
隣の家があったので覗くと空き家らしい。荒れ果てた庭先に1990年代の車が放置
されていた。庭は草木が茫々で家庭用ゴミが散乱し、屋根付き駐車場の下には
車が無く、埃を被った草が生えている。玄関前に立ってみると呼び鈴が垂れ下がり、
玄関前に足跡が見えなくなるほどの土埃が溜まっている。家の中を覗いて視ると
家具が散乱し、とても誰も住んでいるように見えない。明らかに空き家である。クリン
トンの幼馴染であったろうこの家の子供は何処に行ったのか等と考え、古を懐かしん
でみた。明らかに根拠のない旅情を味わいながら、更に奥に行ってみた。田舎の
大型雑貨店があったので、駐車場に入ってみる。
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月11日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(実家)・・・31

2016.7.12火 曇天 午前6:47
 俺はIN40を下りて一般道に入り、ホープ市を目指した。山を抜け、畑を抜け、住宅
街に入り、ナビで住所を入れたところに着いた。その地は線路のガードと向かい合わ
せになっていて、庭先を町道が走っていて、とても一等地とは言えない場所にあった。
おまけに隣の家は廃墟になっていて立ち往生した車が庭先に停まったままで、更に
は、やや離れた田舎の雑貨店には客が見えない。俺はクリントンの家はいつも観光
客で一杯の家を想像していた。しかし、観光客は無く、誰もいない、留守番もいない
静かな落ち着いたクリントンの家があった。ホープ市が設置した観光客用の駐車場
に車を入れ、庭の後ろをまわり、窓のカーテンの隙間から、キッチンの中を覗いた。
真っ白い大型冷蔵庫、電子レンジ、アメリカ中流家庭の料理器具が一式揃っている。
この家はクリントンが18歳の頃までいたようである。俺は自分の家の18歳の頃の
台所を思い出した。日本とアメリカの生活様式の違いを瞬間に感じた。庭を見たら
誰か子供の三輪車があった。芝が刈りこんであり、ホープ市が手入れをしているよう
である。前先に回り、階段を上り、玄関口に立ち、玄関周囲を観察する。銃を持ってい
るものは入れないのシールが貼ってあった。誰かいるかなと思いながらも、呼び鈴を
押してみた。反応が無い、窓から中が見えないので諦めて玄関先のベンチに座り、
クリントンの若い時の気分になってみた。玄関はワシントンとは反対の方向を向い
ている。一体何を考えて座っていたのか、自分の未来像を描いていたのか、母子家
庭の母親の苦労を感謝していたのか、分からないが一瞬、俺も母親の同情をして
しまった。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝



2016年7月8日金曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(州内)・・・30

2016.7.8金 曇天 午前7:00
 ブログを二三日休みました。理由は、体調の調整を目的に置いていたからでした。何を
やっかというと、午前中に仕事をこなし、午後から軽い労働やハーフのゴルフに出かけ、
汗を流しました。結果、微々たるほどの痩せ方をしましたが、来週も予定をしています。
 ところでダラスの話に戻りますが、魅力いっぱいのテキサスのダラスを書くには資料は
入りません。記憶のまま書けば、それが何よりの臨場感が生まれると思います。
 俺はテキサス州をうろついた。ダラスを起点に西部の昔風の街や大砂漠の牧場周辺、
インデアンの集落、ヒューストン、メキシコ湾、漁港、メキシコ国境、ロータリークラブ、
アラモの砦、海賊島、メキシコの赤魚、R66、国境最先端等々である。ダラスを中心に東
西南北を見ると、東はアンカンソー、西はニューメキシコ、南はニューオリンズ、北はオク
ラホマ等である。小刻みにテキサスを歩き、アメリカの大きさに恐れ入ったのである。俺は
この国でいきていけるかなとも思い、もしアメリカにいたなら何をやっていたであろう等とも
考えながらほっつき歩いた。それではあらためてテキサス州を記します。先ずはアンカン
ソー州のクリントン元大統領の生家を訪ねた時の話から記していきます。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝


クリントンの実家、玄関前でくつろぐ・・・俺の貴重写真品