2016年7月31日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(散々な目)・・・43

2016.7.31日 快晴 午前6:02 
 5番ロングホールで散々な目に会う羽目になった。250ヤードを残して四打目にな
っているのである。焦る心は最大だ。従って、テークバックも早くなり、ボールは左に
曲がり、グリーンをとらえるどころでない。ブッシュの根元にボールが転がっている。
高い草を入り分けてボールを確認した。額には大汗が湧き出て、目が血走り、
己を怒る、怒り心頭の顔つきになってしまった。ピッチングで50ヤードをのせにかか
った。何も考えずに打った。又してもミスショットである。ボールはブッシュから僅か
に10ヤード先をチョロチョロと転がっただけである。既にグリーンに届く前に5打を
打ってしまっていた。頭の中をチラッと過るのは何打になるだろうかという心配であ
った。このホールは6打でグリーンに乗せて、スリーパットで9打を打ってしまった。
万事休す、アーメン、南無阿弥陀仏、天に見捨てられた、混乱して自分が打った
打数がまともに数えることができない状態となった。肩を落とし、カップからボール
を拾い上げ、手にピンとボールを持って一刻も早く、グリーンから逃げ去りたくなっ
てしまった。我に返り、ピンを戻してフルスピードでグリーンから逃げ去った。
散々、悲惨、泣きっ面にハチ、何度でも言いたくなる5番コースであった。
これは二度と繰り返さないとも誓ったコースでもあった。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

照沼重輝のアメリカ彷徨記(散々な目)・・・43

2016.7.31日 快晴 午前6:02 
 5番ロングホールで散々な目に会う羽目になった。250ヤードを残して四打目になって
いるのである。焦る心は最大だ。従って、テークバックも早くなり、ボールは左に曲がり、
グリーンをとらえるどころでない。ブッシュの根元にボールが転がっている。高い草を入り
分けてボールを確認した。額には大汗が湧き出て、目が血走り、己を怒る、怒り心頭の顔
つきになってしまった。ピッチングで50ヤードをのせにかかった。何も考えずに打った。
又してもミスショットである。ボールはブッシュから僅かに10ヤード先をチョロチョロと転がっ
ただけである。既にグリーンに届く前に5打を打ってしまっていた。頭の中をチラッと過る
のは何打になるだろうかという心配であった。このホールは6打でグリーンに乗せて、
スリーパットで9打を打ってしまった。万事休す、アーメン、南無阿弥陀仏、天に見捨てられ
た、混乱して自分が打った打数がまともに数えることができない状態となった。肩を落とし、
カップからボールを拾い上げ、手にピンとボールを持って一刻も早く、グリーンから逃げ去り
たくなってしまった。我に返り、ピンを戻してフルスピードでグリーンから逃げ去った。
散々、悲惨、泣きっ面にハチ、何度でも言いたくなる5番コースであった。これは二度と繰り
返さないとも誓ったコースであった。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月30日土曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(五番ホールの大木)・・・42

2016.7.30土 快晴 午前6:21
 俺は四番ホールをパーで切り抜けられた。グリーンは大きくアンジュレーションがたっぷり
あるホールだった。五番に立ってロングホールを眺めた。フェアウエーは広いが距離もたっぷ
りである。左側にはなんの木か分からないが大樹が無数に茂っている。右側は広いラフが
広がっている。右のラフは危険と思い、やや左側を狙って打った。テイクバックが早く、ボール
は左の大樹群に向かって飛んで行った。早くも心に不安が押し寄せている。ボールの方向に
カートを全速力で進めた。案の定である、ボールはフェアウエーに向かって大樹の後ろに
落ちている。ボールは出すだけであり、確実に一打を失う状況である。ボールの位置に立って
何度も脱出口を探すが、脱出口は見つからない状況である。やむを得ない、フェアウエーの
後方に出す他なかった。俺の心は瀕死の重傷であるが、平然と装い、後方に出して、次が
狙えるポジションにボールを運んだ。距離570ヤードのロングは長い長い。俺は三打目と
なり、次をスプーンで打った。既に心は揺れ動いているので、へなちょこボールになった。
ヨロヨロと飛んだボールはグリーンまで相当な距離を残している。アメリカ人が同情する
ような顔で俺を見ている。俺は焦った、カートをフルスピードでボールに向かって走らせた。
既に四打目に入るが、距離は250ヤードを残している状況である。焦りが幾重にも押し寄せ
ている。俺の心は既に平静心が砕けていた。次回は散々な・・・・。を記します。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

                    木々は揺れ、嵐来襲、心理は同じ状況
 

2016年7月28日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(名誉挽回ホール)・・・41

2016.7.28木 快晴 午前7:03
 梅雨が終わったようだ。朝から青空の一部が雲の合い間から覗けている。気持ちが良い。
名誉挽回とばかりに4番ホールに向かった。距離は425ヤード、アメリカのコースは全部
が長いので難コースになってしまう。油断が出たか白人は右に曲げて深いラフに入った。
黒人はフェアーウエーの真中をキープしたがあたりがいまいちであった。俺はテイーグラン
ドに立って、深く息をのみ込み、ゆっくりとスイングを始めた。ギリギリのゆったり感でクラブ
をトップの高さに持っていってから、自然の力で振り下ろしボールを打った。びっくりである、
力を自然に抜いて打ったボールは一番の飛びで飛んで相当な距離を出したのである。今
思えば、力のいらないスポーツがゴルフだよと先輩にいつも言われていることを思い出す。
アメリカ人が俺のボールを見て「ファイン・ショット」と叫んでくれた。俺は何となくチャンピオ
ンになったつもりでフェアウエーの真中を歩いてボールに向かった。僅かの差で黒人の
ボールを抜いた距離が出ていた。それでも残りの距離がゆうに200ヤードはある。最後の
打順で三番スプーンを出して、載せてやろうと野望を持ち、力が入っていることを忘れて打
った。見事にボールは左の方に反れてグリーンをはづしてしまった。一日天下どころか、
一打天下で終わってしまった。白人はラフから、黒人はフェアーウエーから乗せて、ピン
傍に乗っていた。残念至極。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月26日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ショートホール)・・・40

2016.7.26火 曇天 午前6:11
 三番のショートホールに移った。打順は白人からで距離は200ヤード、カップは右方面
に切ってあるようだ。グリーンの左はカート道路とブッシュであり、右側は浅いラフである。
白人のボールはややセンター横につけ、黒人は中央にボールをつけた。俺は三番スプー
ンで思い切り力を入れて打った。距離があるコースなので力は自然に入る。力を入れた
ボールは左に曲がりグリーン横にこぼれてしまい、二打目を打ちにくい場所に落ちていた。
白人がボールを移動しても良いよと言っているようだが、侍魂で移動しないでやせ我慢を
してグリーンに上げようとして打った。打ったボールは見事にグリーンの上を転がり、反対
側の浅いラフに転がってしまった。ゴルフはこうなると思考力は半減、身体バランスが崩れ
てしまうことになり、顔は血気帯び、足はヨロヨロ、手は脂汗、目は焦点定まらずの状況
である。正に日本人のゴルフのうろたえかたをアメリカ人に見せているようになってしまっ
た。俺はそれでも笑顔を崩さず、ボールをやっとグリーンにのせて、2オバーのダボで
ホールアウトをした。黒人はボギー、白人はパー、俺は醜態を見せてダボになってしまっ
た。考えることは名誉挽回しかない。いそいそと次のホールに向かったのである。外地で
のゴルフは舞い上がり気味になり乱調を招くのである。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月25日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(二番ホール)・・・39

2016.7.25月 快晴 午前6:35
 一番ホールは緊張の上でボギーで上がれた。二番ホールに移り、コースを眺める余裕
ができ、順番を待つ間とテーグランドから観察をした。大きな高い木がフェアウエーの左
側に立ち、右に広々としたフェアウエーがあるがミドルバンカーもある。ショートカットは
左側の松の木の上であり、どちらに打つもラッキー性を期待するほかない。俺は最後の
打順に立ち、ゆっくりテイクバックをしてから思い切り一番ウッドを振り下ろした。覚悟を
決めて打っているのでヘッドアップはしないので、ボールは良い弾道が出て木の上を
難なく越していった。アメリカ人2人がグッドショットと声をかけてくれたが、ボールはアメリ
カ人の70%前で止まってしまった。理由を考えると、パワー不足、地面が湿地地帯で
バウンドが稼げないと判断をした。グリーンまで残り220ヤードはある地点だった。アメリ
カ人がスコープを出して残りのヤードを見てから俺にそのヤードを教えてくれた。日本に
このスコープはあるのかと言いたいようであった。俺は第二打目のクラブ三番ウッドを選ん
でからボールの後方に立ち状況判断をした。グリーンは左から右に傾斜が有り、後方は
小高い傾斜を持ち、ピンは真ん中にあるようだと判断をした。アメリカ人二人が無言で
俺を観察している。多少の緊張の上で三番ウッドをテイクバックから振り落とした。三番
ウッドは得意のクラブであるから平常心で打てた。ボールは低飛行から高飛行に移り、
見事にグリーンに落ちていった。ナイスオンの声が聞こえたので、俺は悠々とグリーンに
上っていった。アメリカ人二人もボールがグリーン上にあったので、俺はナイスオンと
賛辞を贈った。俺のボールからカップまでは平たんなコースであるが、距離があったので
バーディは出ずパーで上がった。同じくアメリカ人もパーであった。互いにナイスパーを
連発してより友達になれた瞬間である。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月23日土曜日

照沼重輝のアメリカ・中国大陸彷徨記(テイ―グランドに立つ)・・・38

2016.7.27土 晴 午前7:27
 俺は「アイ・アム・バタフライ・イン・マイ・ストマック」であった。白人が名乗り、黒人が
名乗り、俺が自己紹介だけは流ちょうな英語で名のったが、打順をどのように決めるか
分からないでいたら、黒人が俺に打てと言う。俺は遠慮して手まねで「どうぞ先に」
と表示をした。それで、黒人、白人、俺という順序で打つことになった。その前に職業
紹介を黒人から先にされたのである。黒人はアメリカ軍人で白人は民間航空のパイロ
ットと言った。俺は貿易商だと自己紹介をしたら、どことどこの貿易だと質問をされたの
で、中国とアメリカだと言った。それでゴルフのオナーが決まり黒人が打ったら、ボール
は右に反れたが、大巾に飛んだ。それでも黒人は舌打ちをした。白人が打ったボール
はドロー系で見事な角度を描いてフェアウエーのど真ん中に落ちた。最後の俺は緊張
してテイーグランドに立ち、真ん中にボールが飛ぶように念じ、ドライバーを振り上げ、
ボールから目を離さずに力を抜いて振り下ろした。スライス系のボールが右の林の
ギリギリ線上に落ち、黒人の打ったボールから70ヤード後方に落ちた。俺は下手だが
ゴルフ歴は長いので、若い彼らのゴルフの進行リズムよりは順調に進む。クラブ選択も
瞬間に判断できる。NO1のホールは420ヤードのミドルで距離がたっぷりあるが、
スムーズに3番ウッドを取り出しワンオンを狙ってボールの後ろに行った。グリーンを
遠くから観察した。左は短い芝で幅が有り、右は大木や深いラフが有り、グリーンの
先はOBとなっていない。外れるならば左であると考え、絶対注意の右を避けた打ち方
をしようと決めてバッグスイングに入った。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月22日金曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(初ゴルフ)・・・37

2016.7.22金 曇天 午前6:42
 初めてアメリカでゴルフをしたのはカルフォルニア州サクラメント市のパブリックコース
であった。日本ではゴルフ歴が30年を超えるので何処のゴルフ場でも緊張は無いが、
アメリカでの初ゴルフには多少の緊張感が出た。その日、俺はレンタカーでゴルフ場に
向かった。ゴルフ場の入り口が分からないほど広いパブリックゴルフ場であったが、
クラブハウスまで何となく辿りついた。ハウスの前で車を停め、トランクから買っておいた
キャデイバッグを取り出し、オフィスの真ん前に置いて、車を駐車場に入れなおした。
パスポートとアメックスカードをポケットに入れてオフィスのカウンターに立った。何しろ初
めて英語で受付をするのでドキドキしたが、顔の表情は変えずにカードとパス―ポートを
受付係の前に無言で出した。受付は「スリーサム、フォーサム、オーケー」といったような
気がしたので俺は「オーケー」だけをやっと言えた。その前に受付簿にテルヌマのサイン
を入れ、カードで代金を決済した。受付よりカート番号を指定されたので1人でキャデイ
バッグを積み込み、隣のパッテング練習場に入り、パットの練習を始めた。
  ほどなくすると受付係が俺を呼んだので一番のテイ―グランドに向かってみると、
白人が一人と黒人が一人の二人が俺を待っていた。どうやら三人でまわれるようである。
白人が名を名のり、黒人も名を名のったが、現地英語を瞬間では聞き取れなかった。
俺は緊張しながら「マイ、ネーム、テル」とだけ言えた。「ジャパネーズ」と付け加えた。
これがアメリカでのゴルフ開始の記念すべき瞬間であった。以後、アメリカでのゴルフ歴を
思い出しながら記していきます。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月21日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(湯の町)・・・36

2016.7.21木 曇天 午前9:27
 昔はカポネの保養地、今はアメリカ市民の保養地であるホットスプリングスに入った。
小高い丘を見上げながら町中に入った。そこは確かに保養地の賑わいを見せている市
街の様相を帯びていた。歩いている人は漫ろ歩きであり、街中の空気は和み、商店は
土産品店が多かった。駐車違反になるが車を病院の前の空いているスペースに停め、
俺は街の端から端まで歩いてみようと決め、商店街のアーケードの下を歩き始めた。
土産品店を覗きながら歩く、店に入る出るを何度か繰り返しながら漫ろ歩いた。土産品
は殆んどが中国製であり、時として中国にいるのかなと勘違いをしてしまう漫ろ歩きを
しながらも町はずれに来てしまった。意外と商店会の距離が短い町である。時にアル
カポネの人形の前で写真を撮り、映画で見たカポネを懐かしんだりした。飽きたので車
に戻り、町の背後に見える山を目指し、気分を一新させようと思いそこに向う。びっくり
した。ホットスプリングスはアメリカの一大別荘地であった。大中小の別荘建築物の
オンパレードである。別荘建築物の周囲を散策して目の保養をしたりしながら、山の
頂上に車で向かった。頂上に登りホットスプリングスの町を見下ろし、俺は自分のスケー
ルをアメリカ大地の大きさに合わせようと努力をしてしまった。しかし、すぐに現実に戻さ
れ山を一目散に下りた。スケールの大中小は生まれながらかなと想いながら駆け下り
たのである。次回はアメリカでの初ゴルフを記します。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
山から見下ろすホットスプリングスの町

2016年7月18日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(カポネの保養地)・・・35

2016.7.18月 海の日 曇天 午前7:09
 クリントン元大統領の実家を去り、俺は次の目的地のホットスプリングスにIN30
を使い向かったのである。アメリカの地は広大である。日本みたいに次から次への
観光地は無いのだ。ホープ市から200kmくらいの地点にカポネが湯治に来ていた
町があるのでそこに向かった。途中は林か畑があるだけで退屈をするが、俺は途中
の町並みや景色を眺めるだけで満足をしてしまう。それだけでも他の旅人よりは利益
が大であると考えているから、大陸に向かってしまうのだ。レイク・ハミルトンの橋を渡
り、一軒の土産物店に車を停めて店に入った。湖を一周しながら昼食をするコースの
チケットを買い、湖一周の遊覧と洒落込むことにした。船に乗り、お昼を食べ、自分
で操縦しない遊覧は、俺にとっては大変な贅沢三昧であるが、100ドル贅沢遊覧
に参加した。船長、甲板員1名、レストラン部2名、ウーエートレス1名の仕立て船
はゆっくり岸を離れ、岸辺に見える高級別荘地へ舳先を向けた。目に入ったアメリカ
の別荘の大きさと豪華さは日本の別荘とは比較にならないほど大であった。人生を
楽しむ、家族と友人等と大いに楽しむ、東洋人には無いアメリカ人の享楽性を
この湖で垣間見られたのであった。次回は湯の町へ進入を記します。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
このような道路を経てホットスプリングスに向かう

2016年7月16日土曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(陸橋の向こう)・・・34

2016.7.16土 快晴 午前10:27
  俺はクリントンの家を一周し徘徊し、玄関階段を下りて左手に行って田舎雑貨店を眺
め家に戻り反対側に向かった。多分だがローカル線の陸橋下をくぐり、クリントン家の西
側の何らかの大型店の向かいに出た。遠くからスーパーの庭先を見たら、停車中の車
が少なく、閑散としたスーパーであったので、近くに行くのは辞めて、ユータンをして陸橋
下をくぐり、クリントン家に戻った。もう一度クリントン家の庭先に戻ると大統領のスピーチ
台がホープ市によって設置されていたのを見つけた。俺はその大統領のスピーチ台の前
に立ち、暫し大統領気分で右手を上げたり、スピーチをしたりしてその気分を味わったの
である。
  小一時間が過ぎたので駐車場に戻り、次の予定地のホットスプリングに向けて出発し
た。そのホットスプリング市はかの有名なアルカポネがお忍びで保養に来ていた町らしい
が、日本風にいえば温泉地である。山を抜け、畑を抜けると湖が見えてきた。湖の周りは
高級別荘が並んで立ち、湖には大型クルーザーが係留され、いかにも贅沢な保養地に
見える。一軒の、湖畔のショップ前の駐車場に車を入れ、店内に足を入れた。沢山の土
産用品が目に入った。次回は観光船に乗るかなを記します。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
カポネ親分・・・ここに潜んでいたの? 

2016年7月14日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(田舎の雑貨店・・・)33

2016.7.14木 曇天 午前6:32
 田舎の雑貨店に入ってみた。そこは農業資材や牧畜用資材、一般家庭の生活雑品
等を売っている店だった。入ってくる客の姿は作業着を着た中年男性や家庭からすっ
飛んできたような女性の姿があった。日本の店と違うのは、商品は整理整頓がされて
いない、正に乱雑に品物が置かれてある。最初からそうなのかと思うが、そうでは無い
のだ。例えば、Aという客が品物をあれやこれやと探してみる。あれやこれやと引っ張
り出した品物はそこに置いたままにする。そして、そのまま違うコーナーに移動をして
しまうのである。乱雑に置かれた品物は暫く店員が整理に来ないでそのままにして
置かれているのである。日本ならばそのような店の支配人は首であろう。このような
田舎の店は普通なのである。アメリカでは商品配列などの細やかなことはあまり考え
ないのだと感じた。それと日本みたいに超小型工具等は見当たらない気がした。
あってもあまり売れないのかもしれない。小型よりは大型を喜ぶアメリカ国民なのだ。
ザーッと店内を歩いてみたが欲しい物は無く、数分で店の外に出た。駐車場には
乗用車より貨物車が多く停まっていた。荷台付きの車が多い、アメリカでは配達が
無いので大型家具を載せることができる車が便利なのだと聞いたことがある。また
クリントンの実家に戻り、玄関から左側に歩いた。鉄橋の下をくぐりながら歩いた。
もう一つの世界が見えてきた。明日以降に記載します。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月13日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(実家周辺を徘徊)・・・32

2016.7.13水 雨 午前6:34
 クリントン氏の実家周辺を何度も徘徊した。実家の玄関から階段を下り、左に行け
ば大型雑貨店で右に曲がれば鉄道の陸橋下である。俺は先ず左に曲がり歩いた。
隣の家があったので覗くと空き家らしい。荒れ果てた庭先に1990年代の車が放置
されていた。庭は草木が茫々で家庭用ゴミが散乱し、屋根付き駐車場の下には
車が無く、埃を被った草が生えている。玄関前に立ってみると呼び鈴が垂れ下がり、
玄関前に足跡が見えなくなるほどの土埃が溜まっている。家の中を覗いて視ると
家具が散乱し、とても誰も住んでいるように見えない。明らかに空き家である。クリン
トンの幼馴染であったろうこの家の子供は何処に行ったのか等と考え、古を懐かしん
でみた。明らかに根拠のない旅情を味わいながら、更に奥に行ってみた。田舎の
大型雑貨店があったので、駐車場に入ってみる。
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月11日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(実家)・・・31

2016.7.12火 曇天 午前6:47
 俺はIN40を下りて一般道に入り、ホープ市を目指した。山を抜け、畑を抜け、住宅
街に入り、ナビで住所を入れたところに着いた。その地は線路のガードと向かい合わ
せになっていて、庭先を町道が走っていて、とても一等地とは言えない場所にあった。
おまけに隣の家は廃墟になっていて立ち往生した車が庭先に停まったままで、更に
は、やや離れた田舎の雑貨店には客が見えない。俺はクリントンの家はいつも観光
客で一杯の家を想像していた。しかし、観光客は無く、誰もいない、留守番もいない
静かな落ち着いたクリントンの家があった。ホープ市が設置した観光客用の駐車場
に車を入れ、庭の後ろをまわり、窓のカーテンの隙間から、キッチンの中を覗いた。
真っ白い大型冷蔵庫、電子レンジ、アメリカ中流家庭の料理器具が一式揃っている。
この家はクリントンが18歳の頃までいたようである。俺は自分の家の18歳の頃の
台所を思い出した。日本とアメリカの生活様式の違いを瞬間に感じた。庭を見たら
誰か子供の三輪車があった。芝が刈りこんであり、ホープ市が手入れをしているよう
である。前先に回り、階段を上り、玄関口に立ち、玄関周囲を観察する。銃を持ってい
るものは入れないのシールが貼ってあった。誰かいるかなと思いながらも、呼び鈴を
押してみた。反応が無い、窓から中が見えないので諦めて玄関先のベンチに座り、
クリントンの若い時の気分になってみた。玄関はワシントンとは反対の方向を向い
ている。一体何を考えて座っていたのか、自分の未来像を描いていたのか、母子家
庭の母親の苦労を感謝していたのか、分からないが一瞬、俺も母親の同情をして
しまった。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝



2016年7月8日金曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(州内)・・・30

2016.7.8金 曇天 午前7:00
 ブログを二三日休みました。理由は、体調の調整を目的に置いていたからでした。何を
やっかというと、午前中に仕事をこなし、午後から軽い労働やハーフのゴルフに出かけ、
汗を流しました。結果、微々たるほどの痩せ方をしましたが、来週も予定をしています。
 ところでダラスの話に戻りますが、魅力いっぱいのテキサスのダラスを書くには資料は
入りません。記憶のまま書けば、それが何よりの臨場感が生まれると思います。
 俺はテキサス州をうろついた。ダラスを起点に西部の昔風の街や大砂漠の牧場周辺、
インデアンの集落、ヒューストン、メキシコ湾、漁港、メキシコ国境、ロータリークラブ、
アラモの砦、海賊島、メキシコの赤魚、R66、国境最先端等々である。ダラスを中心に東
西南北を見ると、東はアンカンソー、西はニューメキシコ、南はニューオリンズ、北はオク
ラホマ等である。小刻みにテキサスを歩き、アメリカの大きさに恐れ入ったのである。俺は
この国でいきていけるかなとも思い、もしアメリカにいたなら何をやっていたであろう等とも
考えながらほっつき歩いた。それではあらためてテキサス州を記します。先ずはアンカン
ソー州のクリントン元大統領の生家を訪ねた時の話から記していきます。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝


クリントンの実家、玄関前でくつろぐ・・・俺の貴重写真品

2016年7月5日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(テキサスの風土)・・・29

2016.7.5 火 曇天 午前6:43
 テキサスの首都はダラスである。日本から行く場合はJALの直行便か、ANAの
場合はシカゴで乗りつぐかである。テキサスの総面積は696,214km、人口は
2,600万人で白人が45.3%だそうであある。北アメリかの地図を下から見る
と、上の隣接州がオクラホマ州で左の隣接州はニューメキシコ州となり、右の隣接
州はニューオリンズ州である。俺はこの隣接州の全部を通過した記憶があるが、
隣接州の風土はあまり記憶にありません。しかし、北側に雪を抱くロッキー山脈や
南側に常夏に近いメキシコ湾があり、西側にはメキシコ国境があり、東側は広大な
平野を抱えた土地であります。一言で表現するならば、「前方に海、後方に山」を
持った広大な州である、と言えます。一番離れた隣の州に行くには、車で二泊くらい
ダラスから走らないと行けません。俺は水戸市の友人たちとダラスからニューメキシ
コに抜けるのにR66を走ったものですから二日かかった経験があり、広すぎる州で
あると感じられました。東洋の風水学にもマッチしている地の利がある州と言え
るでしょう。前面に水、後方に山の地がテキサスです。アメリカの上場企業の一番
多い州でもあります。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
テキサス友人宅に三宿九飯する

2016年7月4日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(テキサスは大なり)・・・28

2016.7.4月 曇天 午前7:00
 俺はテキサスのほとんどの物に目を見張った。全て大なり、である。耕地は大、
道路も大、住宅も大、大空も大、ステーキも大であった。ときおり売地の看板が
出ていたが、見渡す限り広大な土地である。全てが大きい物にビックリしながら
ダラスに入っていった。先ず、ケネデイが暗殺された地区を目指したところ、なぜ
かすぐ行けた。アメリカですぐ行ければ駐車場探しに戸惑うことになるが、駐車場も
すぐ見つかり、ゆったりとした気分で車を置いた。駐車場から数分の所にケネデイ
の暗殺地があった。いわゆるヘアピーンカーブの地点で彼は打たれたのである。
そのカーブの所にテキサス教科書倉庫があった。ケネデイ、オズワルド、ジャクリー
ン、スコ―プ付ライフル、拳銃等の名詞が次々に俺の頭に浮かんできた。その地点
に行って先ずは手を合わせた。俺が高校一年生の時に彼は暗殺をされた。その
ニュースは早朝未明に日本のテレビやラジオから流れた。今でも忘れることができな
い国際的なニュースである。正にテキサスは出来事まで大である。次回からこの州を
じっくり記してみたい。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝



2016年7月3日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(テキサス魂)・・・27

2016.7.3日 曇天 午前7:00
 テキサスのダラスに入る前にテキサス魂を思い出した。男としてカッコ良く、勇敢で
何事にも怯まず進む。男ならこうしたいと思うのは普通である。テキサスといえば、
誰でも思い出す、ダラスで暗殺されたケネデイ大統領の終焉の地のテキサス教科書
倉庫前に行ってみたいし、プロレスで有名な何とか兄弟の町へも、それからこちら
ヒューストンで有名な宇宙衛星発射基地等行きたいところが次々と浮かんできた。
 俺は遠くに見えるビル群を望み、アクセルをビル群に向かってゆっくり踏み込んだ。
田園の草木の匂いが薄くなり、町独特の匂いがしてきた。ビル群が近くになってくる。
車が多くなってきたので、事故を起こさないように注意深くなる。俺の神経が尖って
くる。観察力が鋭くなり、車内の友人に対する言葉が強くなる。俺の悪い癖が出て
くる。俺は神経を使うようになると言葉が激しくなるのだ。ハット思い、優しい言葉に
切り替える。三車線から五車線になり、相当数の車が入り乱れて走っている。自分の
ペースを崩さないリズムで車列の群れに入る。ダラスは平安京を超巨大にしたような
整備された町に視えた。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月2日土曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ダラスイン)・・・26

2016.7.2日 曇天 午前6:53
  朝早めにモーテルを出る。東の空が黄金色に輝いていた。
早々に荷物を車に積み、エンジン開始、簡単な車内チック後
に出発した。モーテルの駐車場から一般道に出てIN40号線
にのる。早朝でもIN40号線は車が多いので、慎重に本道に
入る。慣れてくるとラジオのスイッチを入れ、アメリカ音楽に
酔いしれ、本場の英語に満足して、俺は笑みを浮かべて
ハンドルを改めて握り直しをする。スピードが乗ってくる、
ウッカリしているとスピードメーターは100マイル(日本では
160km)に届いててしまいそうだ。ハット思い80マイルに
スピードを下げる。前方遥かにIN40号線が鉛筆の芯のように
細くなり、その周囲の景色が霞に薄ぼんやりしている。その
前方の景色を囲んでいる山々の肌は赤茶色となって目に
入る。この瞬間に俺の心中は「前進」のエネルギーが満ち
溢れてくるのだ。このエネルギーを日本に持って帰ることに
なり、しばらくは日本でそのエネルギーを消費することに
なる。それが俺の活力源と思われる。そんなことを思って
いるうちにダラスが近くなってきた。農業地帯を抜けると
ビル群が遠くに見えてきた。いよいよダラスだ、細心大胆、
勇気をもってダラスに入り、アメリカのテキサス魂を探ろう。
次回はテキサス魂を探るを記します。
      アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年7月1日金曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(レストランでの昼食)・・・25

2016.7.1金 快晴 午前7:22
 ニューヨークを出てから四日目になった。ダラスは近くなり、ホッとした気分で
レストランでステーキでも食べようとなり、手頃なステーキ専門店に入った。店
の看板が唐辛子だったので、強めの味のステーキが食べられると思ったから
である。俺は駐車場に車を入れるために、仲間を先に下ろした。車を置いてか
ら店の入ると、白人家族や仲間同士の寛いだ空気がいっぺんに目に入って
きた。テーブルに就くと女性のウエートレスが来て水を置いた。彼女は無言で
これらの動きをしたので俺は安心をした。このレストランは高級でない庶民的
レストランと理解をした。メニューを見るとステーキの値段は高くない。全員が
一変にお喋りをして寛ぎだした。面白いことに気が付いた。レストランでの
お喋りや寛ぎは、その店の料金の高低と比例や反比例をするのかなと
思った。これからの旅でレストランに入った場合は、お客のお喋りや寛ぎを
観察すれば何かの参考になる。これは応用できる、ポケットに入れることに
した。この店の料金は一人20ドル程度であったので、旨くも不味くもなかっ
た店であった。1時間程度で店を出て、更に西南に車を走らせた。次回は
いよいよダラスに入るを記します。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
西部のダラス

照沼重輝のアメリカ彷徨記(