2016年4月29日金曜日

照沼重輝の中国彷徨(煙台料理)・・・33

2016.4.29金 霧 午前4:33
  2km離れた村松海岸から太平洋の波打つ音が静かに聞こえる朝です。
俺は中国の煙台の浜を思い出してしまったので、今日はこの海岸で食べた
海料理を記します。
 泊まったホテルが面白かった。夕食は面倒くさいのでホテルのバイキング
でとることになり、一階の広いロビー横のレストランに入った。渤海湾の
海岸淵に立っているホテルであった。レストランの中に入って驚いたのは、
大きな海を見る窓に波が打ち寄せていたのだ。俺の目の高さに浜の白波
が打ち寄せているのであった。つまり、横7m、縦3mくらいの窓に波が
来ているのである。海の中で食事をしているような錯覚が起きてしまうレス
トランである。海が荒れているから、このような風景になっていることが
分かったが、それにしても、俺の気持ちは感嘆から危機感に変わってしま
った。幾多のテーブルの上に海岸料理が並べて有り、それを取っていると
大きな波が窓に押し寄せてくる。ハッと思い、料理を取ることを忘れて
しばし波の行方を眺めてしまう瞬間を何度も経験しているうちに、食べるこ
とが主でなくなり、腹を満たすことも忘れてしまうことになってしまった
煙台のホテルでの夕食であった。
  俺の家の居間の大きな窓から外を眺めたら、今朝は霧が窓に漂ってい
たので煙台に滞在した時の風景を思い出してしまいました。浜料理の
内容は次回に記します。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年4月26日火曜日

照沼重輝の中国彷徨(軍隊ホテル)・・・32

2016.4.26 火 晴 午前6:00
 大連に初めて行った時に安いホテルが無くて困ったことがあった。色々
探して落ち着いたのが軍隊学校の前にある軍隊用ホテルであった。外観
は一般のホテルと変わらないが、中に入ると結構な贅を尽くしていた。特
にレストランの食事は贅沢料理であった。軍隊には若い隊員が多いし、
隊員の親族等が慰問に来た時に粗末な扱いでは困るからであろうと思っ
た。大連は魚介類が多く取れるので、それらを中心とした料理が安く食べ
られた。このホテルの部屋のつくりは軍隊式であり、昼間も夜も訓練する
叫び声が良く聞こえた。突然、朝方未明に軍隊式のイチ・ニー・サン等の
掛け声を耳にした。そのたびに俺は神経のどこかが緊張するのであった。
夜半未明の掛け声に俺はソーッとカーテンを開けて、軍隊学校の運動場
見たりした。一列縦隊の長ーい列が竜のようになって続く夜半の訓練を
盗み見した。その緊張感は俺の体に染みわたり、心地良い緊張感を
味わいながら、二度の眠りにつくこともあった。
 軍隊の掛け声は勇壮だが、戦争が無い時代の掛け声なので、どこかに
平和を愛する掛け声となってしまっているように聞こえた。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年4月25日月曜日

照沼重輝の中国彷徨(大連食事)・・・31

2016.4.25月 曇 午前5:10
 大連での印象深い食事は、大連の弁護士を接待した時の黄金色の中華
料理店と官庁関係人を接待した時の日本料理店であった。黄金色のレス
トランでの目玉料理は覚えていないほど盛り沢山であった。日本料理店で
大連刺身は格別であった。マグロ、ヒラメ、タコ、具の海藻等に舌つつみを
うった。店の名前は確か「紅葉」といったはずである。和服を着たウーエト
レスと同じく和服を着たママが美しかった。日本人が好んで食べる魚類を
知り尽くしていたので、関係者に聞いてみると、日本軍がいた時から日本
料理は大連で用いられていたそうである。起伏の激しい海や山を海岸線
に持っていれば魚は美味しくなる。日本式の徳利と盃でやる日本酒は
格別美味しく、忘れがたい中国の北方料理であった。それと大連では、
軍隊の経営するホテルに泊まったことがあったので、次回等に記す予定
です。
          アメリカ中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年4月24日日曜日

照沼重輝の中国彷徨(済南での料理)・・・30

2016.4.24日 曇 午前5:30
 俺たちは中国内でのトラックショーが済南で開かれることになり、上海からトラック展示の為
済南に飛んだ。日本の日野自動車にウイングを装備したものを展示する為である。ある日本
のボディーメーカーと組んで中国販売をもくろんだのである。4トン車の新車に国際特許を取っ
たウイングであるから、好評を得るはずと考えたのである。中国人スタッフが展示用に加工し
たトラックを上海から運び、俺たちは空路で済南に乗りこんだ。
 泊まったホテルは一流であったので、夕食が楽しみとなった。ホテルの円卓テーブルをスタッ
フの数人で囲んだが、食事の矢先に俺の好きな紹興酒は無いと言われ、がっかりした食事
を始めた。運ばれてきた中華料理を眺めたが、なぜか食欲は湧かない。理由は紹興酒が
無いからである。その代りの白い酒を飲んではみたが酒とは言えないようなものであった。
スタッフが中国の北方は白い酒、南方は黄色い酒、真ん中は白い酒も黄色い酒も飲むの
だと説教を受ける始末。俺は諦めて白い酒を湯で割り、しょっぱ過ぎる料理を口に運んだ。
まずい酒としょっぱい料理を渋面で食べた、早く明日にならないかとも考えてしまった、
省都済南の一流ホテルでの夜であった。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・・照沼重輝

2016年4月20日水曜日

照沼重輝の中国彷徨(中華料理前線)・・・29

2016.4.20水 晴 午前6:00
  中国訪問は200回以上になると思う。思うとしか言えないのは数えられないほど行った
からである。それらの経験から各地で食べた中華料理について記してみます。先ず、上海
料理であるが、どちらか言うと上品で甘い方である。円卓テーブルを囲んで賑やかにやる
が、昼食時と夕食時のテーブルにはビールや白酒や黄酒が立つ。乾杯を繰り返して男も
女も大いに燥ぐ光景をそちらこちらに見る。
  上海上流の揚子江沿いには昆山、蘇州、無錫、揚子、南京の大都市があるが、料理は
とても似ている味と思った。昆山では人民公社スタイルの町役場の食堂で蛇料理と川蝦の
踊り食いをごちそうになった。でもここは何といっても陽橙湖の上海カニを賞味できるのが
一番の地の利である。正義鎮の上海カニは食べてみると肉厚で香ばしい匂いがして食欲
を増してしまうのだ。秋風が吹くころになると上海からの富裕層が我先にと昆山の正義鎮を
目指して飛んで来る。ここの役人と良い関係があったので、俺は他の日本人より多く上海
カニを食べてしまった日本人といえる。地元の古老から聞いた話では、春に深い湖底で生
まれたカニは秋に底から上に上がるのに力を有するそうで、そのためにカニの腕に肉が
着くそううである。これは一度聴いたら忘れない話であり、一度食べたら忘れないカニは
上海カニの味である。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
所変われば品変わる餃子(西安)

2016年4月18日月曜日

照沼重輝の中国彷徨(最近の中国)・・・28

2016.4.18月 曇 午前6:56
 最近の中国は空気の汚れと経済の発展が大きな出来事である。昔日本は空気が
汚れて国民が騒いだこと、それにオリンピックを迎えることで大きな環境変化を成し遂げ
られたのと思う。最近中国に行ったところは、上海、西安、蘇州、杭州、広東などであるが、
空気が綺麗だったのは、広東ぐらいで以外はどこも先が見えないほど空気は汚れていた。
俺は鈍感なので他の人よりは喉や目がショボショボにならないのであるが、同行者たちは
空気の話で話題が尽きなかったようだ。上海の汚れは、ガスが出た時は1000万以上の
人が喉や目を痛々しくしている姿を俺は見た。さらに夜の道路の街灯の下に立つと、街灯
の灯りを通じて微細なダストが泳いでいる光景が見えた。上海人はガスを避けて下向きに
歩いていた。空気の汚れは人間の姿勢まで影響を与えるのであろうと思った。そもそも、
自然の水や空気までがビジネスの対象にされる時代は、良からぬ時代であることは
間違いない。もしかすると、地球の最大の危機かもしれないのだ。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

                                                                      高級車とスモッグ

2016年4月17日日曜日

照沼重輝の中国彷徨記(地震)・・・27

2016.4.17日 曇り 午前8:00
  一昨日から九州で大変なことが起こっている。俺は4週間前までは九州長崎に個人
用で滞在していたのである。長崎の変化に富んだ景色を見て、滞在を楽しんでいたので
あった。正に変化に富んだ風光明媚な地域は、その裏に非常な危険地帯と表裏一体の
感があることをあらためて認識することになった。九州地方の方々にお見舞いの言葉を
差し上げさせていただきます。
  俺の今日の予定は、朝方に貸家にいるSさんと今後の諸問題の打ち合わせをし、
午後は自宅で雑務を終わらせる仕事をしたい。上手くすれば、日本国の非常時に何かを
やれる発想が湧き出たら、そことを記したいと思います。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年4月13日水曜日

照沼重輝の中国彷徨(郁遜の援護)・・・26

2016.4.13水 曇天 午前6:00
  俺は郁達夫の子孫の郁遜に数度にわたり中国ビジネスの重要場面で助けられた。
彼の祖先は何しろ中国革命一家であることから、今の中国内でも知れ渡っているの
で何かと役人相手の処理では名前を出せば便利なのである。揚子江沿いでは大いに
彼の援護射撃がきいたのである。。それと、俺がアメリカに進出できたのは、彼の親族
がアメリカのニューヨークに三家族とサンフランシスコに一家族があり、いろいろな面で
アメリカでは助けてもらった。先ずニューヨークで助けてもらったことは、ニューヨークに
拠点を設けた時、拠点斡旋や土地事情を詳細に教えてもらい、コスト減で済んだこと。
 同じく、サンフランシスコでは俺も気の合う中国系アメリカ人の従兄を紹介してもらい、
アメリカ太平洋側の事情をよく理解できたのであった。何度もアメリカに行っているが、
その都度に尋ねたい男の一人でもある。彼は俺をスタンフォード大学に案内をしてくれ
たり、超一流の中華料理店で乾しアワビを食べたりさせてくれたのであった。
   そんなわけで郁遜氏の一族までが俺の生涯の恩人というわけである。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
郁遜氏と会った後にダラスを発つ

2016年4月7日木曜日

照沼重輝の中国彷徨(杭州の有名兄弟)・・・25

2016.4.7木 曇り 午前6:00
 日本人にとって杭州の有名人は何といっても郁達夫という作家である。彼は杭州の
西の富陽に生まれ、若くして兄に連れられ日本の東大で勉強し、中国に戻り、杭州一
の美人と結婚し、数奇な運命を辿った人物である。俺は末裔の郁遜氏と数十年の
交遊があり、何度も郁達夫の生家を訪問した経験がある。富陽は杭州湾の右側の
入り口にあり、そこの生家も立派な記念建物になっている。生家を左に見て杭州湾を
見下ろせる小高い山に登ると、郁三兄弟の記念碑が立っていて、毛沢東の筆による
三兄弟を崇める文章が彫ってある。三兄弟の長男は日本の東大で法律を勉強して
上海の裁判官になったが、国民党右翼に射殺をされてしまった。真ん中の兄はアメリカ
に逃れ、その末裔はハーバード大学の教授になっている。末弟の達夫は幾多の小説を
かき揚げ、日本と中国で有名な小説家になった。結婚歴も数回あり、戦争の激しい中国
から逃れ、スマトラで日本軍の憲兵隊にスパイの疑いをかけられ、最後は射殺
されてしまった。このような話を友人の郁遜氏は俺に幾度となくしてくれた。
俺の尊敬する法律家の先輩達も郁達夫に興味を持ち、富陽や杭州方面の俺の旅に
同行してくれた。この郁達夫の末裔と、20年来の太く長い交遊歴を維持している
ことは俺の最も貴重な財宝である。今では東洋人同士の固い契りとなり、日本人も
羨む友情を各所で見せることになってしまった。次は、彼は俺をどのような場面で
助けたかを記してみます。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
夜の上海高速道路

2016年4月5日火曜日

照沼重輝の中国彷徨記(杭州彷徨)・・・24

2016.4.5火 曇り 午前5:00
 夜明け前、天気悪く、なかなか明るくならない。俺は起きだしてブログの為にテーブルに就く。
さて、長崎に寄り道をしていたので、杭州を記せないでいたが、杭州に数えきれないほど行っ
たので、頭の中だけで記してみます。杭州は上海から約200km前後と記憶をしている。
風光明美で昔の首都が有った町である。杭州に入る方法は、陸路と鉄道や船で入る方法が
あり、往来は簡単にできる。俺はいつも陸路で入ったが、道路の整備ができていない時代は、
くねくねの道路を四五時間をかけて車で行った。その当時の道路は、悪質のガソリンの匂い
が充満した道路であったが、今は高速道路で2時間で行けるようになった。便利この上ない
道程である。高速で行くと杭州に入る前に、豪華な三階建ての住宅が延々と見える。杭州は
農業や工業が盛んであり、住民も豊かな生活を満喫するように発展している町である。道行く
車もベンツやBMの大型車が多く見受けられ、富が蠢いている町であることが推測できる。
杭州の町に入ると高層ビルや大型ショッピングセンターがそこらにあり、住民は買いものに
不自由ない生活をしていることが理解できるのである。俺は杭州の定宿の杭州飯店に
いつも泊まるのである。五つ星ホテルであるが実に安く、豪華な朝飯はサービス、夜は近くの
超有名飯店で紹興酒をテーブルに立てて、中国経済人と談論風発に勤しむのである。商売
の話や杭州の歴史、その他の話に花を咲かせるのであった。その中でも、小説家郁達夫の
話が実に面白いのである。なぜ、面白いかは俺の超近くにその末裔がいるからである。
次回へ、
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年4月4日月曜日

照沼重輝の中国彷徨記(歴史人物と俺)・・・23

2016.4.4月 雨 午前7:07
  雨中散歩3.6kmから帰った。途中の水田沿いの空気、松林下の空気、桜公園の空気を
十分味わって帰った。思うと、雨の匂い、桜下の匂い、濡れた土の匂い、早朝の匂い等を
味わえた。
 さて、長崎で鄭成功の生まれ育った環境を見学したが、平戸島の昔の環境は異国文化が
相当入った地域のようである。数えきれない島々とその島の入り江が船の食料物資や水を
積み込むのに適している地形であるし、幕府の監視や海賊から逃げ込むのに適した地形に
恵まれていると思えた。関東育ちの俺は、海外文化や海外交易に恵まれた地形にいない
から、この長崎の平戸島の地域に憧れてしまった。長崎からJR線で佐世保の手前で降り、
レンタカーを借りてここまで来れたのは、俺の興味津々の性格によるものであると思った・。
 後に、分かったことであるが、俺の照沼姓から水戸藩の天狗争乱に5人が参加したよう
だ。そのうちの一人は敦賀で五島への島流しの処分を受け、幽閉されているうちに、幕府
から島流し手配の命を受けた西郷隆盛の采配で難を逃れた人がいることが分かった。
 何時しか、敦賀で幽閉された照沼姓の人物の消息を素人ながら調べてみたいものだ
と考えた。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年4月3日日曜日

照沼重輝の中国彷徨記(鄭成功を偲ぶ)・・・22

2016.4.3日 午前10:00 曇りから雨
 俺は鄭成功の生まれた平戸島の海岸に急いだ。長崎から平戸島へ渡るのは橋を
跨ぐほかないので、一気に橋を渡った。島の町に入らないで島の左側の道路の入り、
太平洋を左手に見て走ると、ほどなく鄭成功が生まれた海岸に出た。浜の岩場の陰
で産気づいた母が生んだのが厦門の英雄となる鄭成功である。その生まれた海岸に
立ち寄る。車を降りて真っ白な海岸に降りる。波打ち際まで50mを歩いて海と砂の
淵に立つ。眼を上げて遠くを見ると小さな漁船が彼方で漁をしていた。日本の南には
既に入道雲が幅を利かせていた。入道雲に目をやり、更に遠くの空に目をやると、
一気に俺の脳裏に南シナ海の光景が浮かんできた。平戸島よりスケールのでかい
南シナ海の数々の光景が次々に浮かんでくる。台湾、上海湾、杭州湾の島々、
浙江周辺の海岸、アモイの数々の海岸、思えば数えきれない大陸の海に臨んだ
昔を思い出していた。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝