2016年12月31日土曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ミシシピー河)・・・11

2016.12.31土 快晴 午前4:56
 ミシシッピーー河が目前になった。橋の上を走りながらの見学となった。河幅は広く、水の
無い箇所は大きな石が犇めき、曲がりくねって流れている。五大湖周辺から始まり、ニュー
オリンズまでの数千キロを悠然と流れている河である。アメリカ大陸に幾多の恵みをもたらし
た河である。アメリカの歴史の証人にもなれるのではないかと思った。私は数千年の歴史を
見つめてきたミシシッピー河をあっという間の時間で渡ってしまった。高速上なので、運転し
ながら後ろも振り返ることができない。西部劇やドキュメンタリー番組で見たミシシッピーは
何処にもな見られなかったのである。友人に「あれがミシシッピー河だ」と言った言葉は、
瞬間的に水と岩石だけの河になってしまった。素っ気ないアメリカ大陸の一幕であった。
私達はアイオワ州に入ろうとしていたが、私たちはこの州の高速のドライブインにバイク
集団が集まる有名な箇所があることの情報を得ていた。そこはドライブインアイオワという
そうである。バイク好きの友人は、是非そこのドライブインに入ろうとして、目を皿のようにし
て見逃さまいとしてした。友人「会った、あそこだ」私はゆっくりとハンドルを切り、巨大ドライブ
インに車を進入させた。そこはアメリカの代表的なライダー達の溜り場であるようだ。ヤマハ、
ホンダ、ハレー、BMW等、私の知っている限りのバイクが集まっていた。友人は食事も忘れ
てバイクを見るために、あっちこっちを移動しながら、ライダー達との話を楽しんでいた。
私は幾分覚めた眼差しでレストランに向かって歩き、アイオワ定食を探したのであった。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月30日金曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(シカゴ出発」・・・10

2016.12.30金 快晴 午前7:35
 シカゴの町を一巡してからミシガン湖の畔に行った。日本では湖では見た事のない水平線
を眺め、その畔では湖の浜を見た。浜は砂で覆われ、夏を名残惜しそうに若者が海水浴を
していたり、甲羅干しをしている人々がいた。浜の奥には夏の売店が店じまいの準備をして
いた。秋の海水場は何と形容して良いか分からない雰囲気をかもし出していたる。世界どこ
の海水浴場も同じであることが分かった。私たちは浜を後にして、州間高速道路80に戻る
ためにミシガン湖の周りを北西に走った。途中にシカゴカブスの野球場を偶然に見られた
が、立ち寄ることもなく目的方面に急いだ。シカゴは発展した町のようだとの印象を受けた。
イリノイ州から次はネブラスカ州に向かうのであるが、私はアメリカを代表するミシシッピー
河を横切ることを密かに楽しみにしていたのであった。シカゴの町を離れて数時間経ち、
そろそろ河が見えてくるころと思っていたら、その河が遠くに見えてきたのである。これが
世に聞こえるミシシピー河と思い、だんだんそこに近づいて来た。橋が見えたので、友人に
話しかけた。「あれがミシシピー河だ」、そして、私は更にアクセルを踏み込んだ。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月29日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(イリノイ州へ)・・・9

2016.12.29木 晴 午前5:11
 ニューヨーク州➡ぺンシルバニア州➡オハイオ州➡イリノイ州へ向かっていた時、イリノ
イ州のシカゴを見ておくべきと考えた。州間高速道路80号線から数百キロ北上すると
シカゴに行ける。何故、シカゴを見たくなったかというと五大湖周辺の産業の巨大さを目に
したかったからである。それと今迄のアメリカ映画でシカゴの町を幾度となく見ていたから
でもあった。私はシカゴ見たさにスピードを上げ、アメリカ音楽にラジオを合わせ、快調に
走った。数時間でシカゴが近づいてきたので、あらゆる目に入るものを観察し始めた。
橋げたの厚さと太さは鉄の町を象徴し、数十本の線路とその方向の枝分かれ、鉄粉
が飛び交っていた名残か、錆びた道路沿いの金属性の構築物、シカゴの町に入る高速の
車線が極端に多くなってきた途端にシアーズタワーが見えてきた。アメリカで一番高い
ビルである。いよいよシカゴの町の中心に入ったので緊張感が湧いてくる。思い出したが、
テレビ映画で有名になったR66号の始発点や野球のカブスも見ることができると思うと
ワクワク感が私に押しよせてきたのであった。駐車場を探して車を停め、待ちきれない
ように町に歩いて出た。真っ直ぐに鉄道のシカゴ駅に向かった。周囲のビジネスマンの
いでたちが実にスマートで眩しく見えたのであった。町を歩く男女のカッコ良さは、日本
では見られないカッコ良さである。女性は金髪を靡かせ、流行のスーツを着て、長い脚で
目的に向かって歩く姿はグーであった。次回は、シカゴを出るを記します。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月28日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(オハイオ州を走る)・・・8

2016.12.28水 晴 午前5:11
 ペンシルバニア州からオハイオ州に入ったが、景色は同じようであった。しかし、高速を
隊列を組んで走るハーレー集団に度々出くわせた。彼らのいでたちは革ジャンとブーツ、
足を広げて乗る独特の厳めしいスタイルでやってくる。私は彼らに親指を立てて、エール
を送ると、彼らも親指を立ててエールを送ってくれた。次々にハ―レー集団と会うので、
そのうちに飽きたのと次々に出会うのでエールを送ることを止めた。次に現れたのは
クラシックカーの集団であった。1960年代の四輪車を手入れしてピカピカにしてある
派手な車で走っている。運転しているのは、60代後半の男女である。裕福なアメリカなら
ではの光景である。高速を長く走っていると飽きてくるので、恰好な目覚ましになるので
面白く感じてしまう。幾多の山や河を越え、車は120km前後のスピードで西に向けて
走る。ラジオ音楽をかけて、眠気を覚まし、アクセルを踏む、パトカーみたいな車を
見るとスピードを緩めて安全策をとる。コンボーイトラックを追い越す時は、荷台が長いの
で要注意である。日本のトラックを追い越す時の1.5倍の時間が必要である。追い越され
足り、追い越したりしながら終日を走った。既に700km相当を走っているから、ガソリンが
少なくなってきたので、適当な出口を見つけてモーテル探しに入った。大きな交差点なら
モーテルは多くあり、小さな交差点ならば少ないことが経験から分かってきた。小さな
交差点であったから、鄙びたモーテルに入った。明日は前夜とシカゴへを記します。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月27日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ただ走る)・・・7

2016.12.27火 雨 午前5:43
 ペンシルバニア州は終日をただ走った。ガソリンンを満タンにしようとしてスタンドに行った
が、注油機の取り扱いが出来なく、店のおばちゃんに助けを求めて注油した。助けを求める
ために、店から外に出てもらい、注油機を操作してもらった。そのおかげでチップを10ドル
支払う羽目になってしまったが、機械操作を覚えたので、それ以後は支払うことがなかった。
IN80に戻るのであるが、乗る時の注意はウエスト又はイーストのどちらかに乗らなくてなら
ないから注意を要する。無事にウエストに乗り、私達はウエストに向けて順調に走った。
秋の温和な日差しを受けて、西へ西へ走る。数10Kmも真っ直ぐな道や長ーい下り坂
だったり、日本にない道路環境を味わいながらただ走った。周囲の景色はトウモロコシ畑と
隣と隣が離れている農家や何やら不明の大型店だったり、色々経験していない物を見るこ
とができた。正に百聞は一見にしかずである。旅に出ると、楽しく経験が積めるのである。
だから俺にとって旅は重要で辞められないのである。4車線の真っ直ぐな高速、木の枝の
下てカモを待つパトカー、昇りと下りの車線が数百メーター離れている箇所、森の海原、
何処まで走っても先が見えないアメリカ大陸を終日ただ走った。走行距離を計算すると
約700kmを走ったことになる。アメリカ横断ドライブの二日目はただ700kmを走って
いただけであった。次回はオハイオ州を走るを記します。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月26日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ペンシルバニア州泊)・・・6

2016.12.26月 快晴 午前5:50
 ニューヨークを出てIN80号線を西に走った。初めて見るアメリカ西部への出発である。
午前中はニューヨークの貿易センタービルやセントラルパーク等周辺を一回りして観光、
午後になり、ジョージワシントン橋を渡り、IN80号線に乗り西にむかったのである。その
景色の感想は、小高い木に囲まれた美しい家並みや中層ビル群、ところどころに見える
トウモロコシ畑の広々とした耕作地であった。とにかく、交通事故だけを注意して走った。
同乗のA君はビデオを回すのに熱中していて、景色はあまり目に入らないようであった
が、事故が起きないように名ナビゲター振りを発揮していてくれた。2時間も走ったら、
ドライブインがあったので、アメリカの初経験として入ってみた。駐車場も入り易く、悠々
と停められたし、駐車の安全性も日本より優れていた。思うに、アメリカの駐車場は広い
土地を更に将来を考えて作ってあり、狭い土地を工夫して今利用できるように作ってある
のが日本のようである。建屋に入ると、コンビニ有り、マック有り、休息所有りで悠々とした
ドライブインである。トイレに入ると、備え付けのテッシュがあり、いつも清掃されている
綺麗な床が目に入った。便器と便器の間は十分なスペースがあり、清潔な便器が備わっ
ていた。旅人を不快感にしてはならないという意識が感じられる公共施設であった。
その後のドライブインは、全くどこも同じようであった。一体どこから高速料を取らない
アメリカの高速道路の維持費用は賄われているのか、不思議な感覚を抱いてしまった。
2時間で約250km走り、ペンシルバニア州に入ったので、高速を一寸降りてみた。
目的は田舎の一般道はどうなっているかであった。対面からも後ろからも車は全然来ない
道であったので、飽きてしまい、直ぐに高速に戻り今夜の宿屋を探した。モーテルの看板
が見えたので、車を高速道から一般道に降ろし、モーテルに直進させた。田舎の名もない
町にはモーテルは二三ヵ所しか無い。そのモーテルの客は、大型トラックの運転士又は
営業マンで観光客や彷徨う客は居ないようであった。パス―ポートとカードを出して
カウンターのおばちゃんに宿泊できるかを聞くと、部屋はありますと返事をくれた。
いかにも田舎のおばあちゃんのようで、微笑えましい人柄であることを感じた。アメリカの
田舎の人の人柄は美しいという言葉で全体を表せるようだ。部屋に入り、近くに見えた
ファミリーレストランに夕食に向かった。アメリカで始めてのステーキを食べ、勘定を
済ませると1200円程度であったが、味は表現しない方が良く、唯満腹感だけは満たせ
た。次回は「ただ走る」を記します。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月25日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(アメリカ居酒屋)・・・4

2016.12.25日 快晴 午前5:45
  ニューヨークに着いて最初の夜、モーテルの隣に居酒屋があったので行ってみた。
アメリカ在住数十年のような日本人女性が働いていた。彼女が私たちのテーブルに
来て注文を取った。私はメニューを見て、日本と同じようなものをワンパターンで注文
し、早く来ないかなと思い待っていたら、彼女が話しかけてきた。「ニューヨークには
何しに」私「アメリカ横断をしようとして来たばかりだ」彼女「どこまで行くの」私「ニュー
ヨークからサンフランシスコまで」彼女「私はニューヨークに数十年いるけど、大陸横断
したことないよ」私「俺も初めてだ」そのうちに酒とツマミが運ばれてきたので会話は
中断した。思うに、アメリカの居酒屋は日本と同じくらいの種類のツマミはあるが、
酒は日本ビールと大関くらいの種類があるようだ。ウイスキーは本場だから何でも
あるようであった。日本にいる時のような量を食べ、ビールと冷酒を二人で飲んだ。
勘定はしめて100ドルくらいであり、高い気がしたがレジで支払うとすると、私の
チップが入っていないよと付いてきた見送りの彼女に言われた。それもそうだと思
い、幾らと言うと20%欲しいと言われた。日本で聞いて来たことでは10%~15%
でチップは良いと言われたが、彼女は一見の客と考えて20%としたのである。私は
反抗しないで20%の額を計算書の中に書き入れたのである。これ以来、私は居酒屋
でのチップに気を遣うようになってしまった。居酒屋でのウエートレスとの会話を他の
客より多めにしてしまうと高めのチップを支払うことになってしまうのだなと思うように
なった。居酒屋での長めの会話はご注意。笑笑。
次回はペンシルバニア州までを記します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月24日土曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(モーテル泊)・・・4

2016.12.24土 快晴 午前6:41
 三回目のニュヨークであったがキチンとしたホテルに泊まったことが数少なかった。その
経験不足から予約なしの宿探しに不安があった。マンハッタンのホテルは高すぎて泊り
たくなく、自身でホテルを探す他ない旅であったから、私はアメリカのモーテル事情を多少
しいて調べておいた。最も前回と前々回はモーテル利用を多少経験したが、その時は
アメリカの友人が連れて行ってくれたから泊まれたのであって、自身で部屋をとったわけ
でなかった。今回は安いホテルをとるのが目的であったから、それはモーテル以外に
無いのである。その安めのモーテルはマンハッタンには無い、そこから少し離れた町に
行くほかない。そこで運転練習の意味で、マンハッタンから外の町に出ることをしてみた。
ハドソン河を左に見て走り、ジョージワシントン橋を思い切って渡り、IN80号線を西に
走った。30分ほど走り、ハイウエー出口を出て、一般道に入った。程なくしてスーパー
があったので、運転練習代わりの思いで駐車場に入った。駐車をして店の中に入り、
買い物をするふりをして気を休めようと考えたのである。カートを押して店内を歩り、
商品探すふりをしていたが、カートが空だと怪しまれないかと思い、安いペットボトル
を2ダースほど買った。それに非常食もあれば便利と思い買い、精算を済ませ外に
出た。駐車場からまたハイウエーに乗り、30分走り、モーテルの看板を見たので
そのモーテル駐車場に入った。私が先に入りモーテルのクロークで「Get a room toni
ght?」とゴチャペ英語で叫ぶと「Ok one bed or two bed」と聞き返された。私はツインが
合理的で安いので「Two bed」と言い、パスポートとクレジットカードを出した。受付
女性は怪訝な顔をして私たちに部屋の鍵を渡したのであった。私はアジアの男が二人
ずれで部屋をとったからだろうと考えた。これが初めてアメリカで自分の力で部屋を
とった最初であった。これ以後の旅で部屋を探すのが私の役目となってしまった。
次回は、アメリカの居酒屋での思い出を記します。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月23日金曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(大都市へ入る)・・・3

2016.12.23金 雨 午前4:50
 レンタカー会社でリースした車はクライスラー6人乗りの四駆車である。ガソリンは相当
食うようであるが、故障と事故にはめっぽう強いような車であった。ニューヨークからサン
フランシスコまで約4000kmを走るので万全を期した車にした。万全というのは、①事故
にあった場合、②故障や道路に迷い砂漠の中で一夜を明かすことになった場合、③水
臨時食を積み込むスペースが必要等を考えたからである。ともかく、レンタカーを無難に
借りだすことができ、私達中学同級生の2名はマンハッタンに向かって出発した。アメリカ
のハイウエーのスピード感、距離感、車線変更等のスリルを味わってというか、冷や汗を
かきながら目的に向かった。約1時間で偶然にもマン八ッタンのど真ん中に着いた。丁度
ワシントン広場のあたりだったかもしれない。兎に角、無事にマンハッタンに入れたと安堵
感から少々の時間を休みたくなったが、車を一寸の時間も停める場所が無いのである。
そこで私は走りながら休む場所を探した。他の車の流れに乗って、ハイウエーを走ったら、
ブロンクスの方まで行ってしまった。必死になり車をハイウエーから出して、一般道に入り
空き地を見つけてUターンをし、またハイウエイーに乗りハドソン河の方に向かった。この
ようなミスを何度か繰り返しているうちに、周囲の町やニューヨーカーの運転の癖を見ら
れるようになった。そのうちに、マンハッタンは自由の女神を基点に動けば分かりやすい
ことを発見した。つまり、自由の女神を背にして、左側にハドソン河が有り、右側にイース
トリバーがある。マンハッタン島の真ん中を上に上がっていくとセントラルパークに突き当
たる。道路は一本おきにワンウエーとなり、非常に走りやすいことを理解できた。マンハッ
タン島の先端の場所に、車を停める空き地を見つけ休息をとることにした。マン八ッタン
にも盲点のタダの駐車場があったのである。但し、運転士は離れてはダメな駐車場で
る。この地のお蔭で車の中で1時間の休息が取れた。目をつぶり1時間を休んだ。
エネルギーがチャージされ目を覚ましたら、ニューヨークの秋の空がきれいであったこと
を思い出した。次回は宿舎探しを記します。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月22日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(NYに着く)・・・2

2016.12.22金 快晴 午前5:12
 JAL機は成田から13時間のフライトを経て、ニューヨークJFK空港に無事にランデング
をした。成田を飛び立ってから9時間でアラスカ上空になり、それから約4時間でNY上空
になる。機は一旦は大西洋に出てから向きを替え着陸態勢に入り、当空港に着陸するの
である。上空からNYの町を眺めると、西の方面にマンハッタンビルが眺められる。眼下の
住宅街は整然と街づくりが行われように眺められ、道路も正確に長方形の形を成している。
暫くすると、機は低くなり滑走路に向かってまっしぐらに降りていく。ガタンと鈍い音が聞こえ
てから乗客はホッとするのである。機は滑走路から乗客が乗り降りする箇所に横づけと
なる。客はドアが開いてから一目散に外に出ていく。入国審査を経て税関検査を過ぎて
外に出る。ここまでは何の緊張もないが、エアートレインでハーツレンタカーの営業所に
行く時に少々の緊張感が押し寄せるのである。つまり、右回りか左回りで良いかを迷うの
である。今言えることはことは、左回りのトレインに乗れば最短コースでレンタカー会社に
行けるのである。駅で降りると、そのレンターカ―会社は目の前になり、カウンターの大柄
の女性が二人で待っているのである。8年前から同じ女性であり、顔なじみのようになって
いる。挨拶はいつも「ハーィ」である。こちらも「ハーイ」を発し、おもむろにパスポートと
クレジットカード、日本から申し込んだ証明書を出す。黒人女性はPCのキーをパタパタと
打ち始めるのである。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月21日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(大陸横断)・・・1

2016.12.21水 快晴 午前6:19
 アメリカは①横断、②縦断、③太平洋側縦断、④大西洋側縦断、⑤V字ゴルフ横断、
⑥メキシコ湾側南下往復、⑦ダラス中西部往復、⑧東部ボストンとペンシルバニア往復、
⑨ロングアイランド往復、➉ニューヨーク周辺彷徨2度であるから通算11回程訪米した
ことになる。全てが彷徨いか商用の旅であった。今回から20回にわたりその旅を記し
終わったら、中国の旅に戻るという繰り返しをしながら私の旅の歴史を記します。
訪中回数は数えきれないので200回前後になる筈と言っておきます。
   ①アメリカ大陸横断の旅から入ります。私が還暦をむかえた時でした。私は30年前か
ら、友人たちに「アメリカ大陸を数人でドライブ横断をしてみないか」と言ってきたが、実現
しないでいた。それまでにアメリカは3回程の彷徨旅の経験があった。一回目はニューヨー
ク彷徨、次も同じ、三回目はサンフランシスコの友人を訪ねた旅であった。①の旅はスリリ
ングであり、面白いから記していきます。
 10月の秋にニューヨークに行き、レンタカーを調達し、約12日間でサンフランシスコまで
真っ直ぐ走る旅を計画した。アメリカ旅の経験のない中学時代の友人も参加してくれた。
この旅の行程の一部始終を20回のブログで記します。その旅は考えられないほど無謀で
危ない旅であったが、終わってみると呑気の旅であったことを思いだされます。
 日本で事前に出来たことは、レンタカーの手配であった。いわゆるネット手配をしたので
ある。レンタカー会社の営業所、借りる日時、車種、返却場所、費用など一切を日本で
ネット利用でできた。それと航空会社のチケットもネットで手配ができた。これは私の
本格的なネットデビューであった。今日はここまでを記しますが、明日はニューヨークに
着き、レンタカーを借りたところまでを記していきます。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・・照沼重輝

2016年12月20日火曜日

照沼重輝の中国彷徨記(紹興酒)・・・20

2016.12.20火 快晴 午前6:44
 義鳥から杭州方面に戻ったが、道筋は蕭山から銭塘江の大橋を渡り時点で真っ直ぐ
行けば杭州市の町に入るのだが、南に反れて紹興市に向かった。紹興は作家魯迅や
政治家周恩来の故郷でもある。私は魯迅の阿Q伝に出てくる居酒屋に行きたかったので
ある。この居酒屋はビールでも紹興酒でも茶碗でしか飲めない居酒屋である。つまり、
コップを使わない居酒屋で有名である。それと蔵出しされた紹興酒と水ピーナッツは
阿Q伝にも出てくるので、中国人の観光客でいつも一杯である。チッケトで臭豆腐と
ビールと水ピーナツを買い、席に着いた。食堂のおばちゃんタイプの女性が、無言で
チケットをもぎり、茶椀を置いていった。間を置くまでもなく、注文したものが運ばれてきた。
強烈な匂いの臭豆腐、お椀に入った水ピーナツ、地ビール瓶、紹興酒は最初から茶椀に
入っている。ビールで乾杯をしたが、そそくさに醤油色の紹興酒を私は口に運んだ。
芳醇な香りをもつ紹興酒は滑らかに口に入っていった。右手で臭豆腐を口に入れ、
左手で水ピーナツをさぐり、現地の味を一刻でも早く味わうとする姿勢で食し飲んだ。
紹興酒はほどなく体にしみわたり、私の目は和んできた。そうすると、紹興酒の力を
借りて、魯迅の人物伝を私の口から発し始めたくなるのである。何故魯迅に関し、
興味があるのかなと言えば、中国に行き初めの頃に中国関連書籍を雑読みしたが、
その中で魯迅の日本への留学記の中で茨城の水戸市が書かれていたからである。
魯迅は仙台医学専門学校に留学をした。仙台に向かう途中で、夜半に水戸市という
町を通過したと出てくるのである。魯迅は旅費のためか、時間のためか夜汽車で仙台に
向かったのである。私の魯迅に対する思いは夜汽車と水戸駅通過にある。それと、
臥薪嘗胆の山が紹興にあることも付け加えたいのである。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月18日日曜日

照沼重輝の中国彷徨記(商業地義鳥)・・・19

2016.12.19日 晴 午前5:23
 浙江省の奥地に世界の商人が集まる巨大な卸団地がある。そこは義鳥というのであるが、
日本人はあまり見かけないところである。上海から南西に約400kmの所である。交通手段
は、電車、バス、高速道路を利用する。私はいつも自家用車で行く。上海を朝の9時に出た
とすると、午後の2時ごろに着く。中国の南方特有の岩肌の間を縫って走る高速道路を走り、
様々な中小の町を見ながら行くことになるので、自分の目を楽しませることができるから、
何度行っても飽きない旅路である。時々、高速上に大きな石が落ちてきたリ、トラックの
荷物が落ちていたりする道路だから、注意をして走ることになるが、楽しめる道路である。
上海、桐郷、杭州、蕭山、碑頭、安華、義鳥の行程で行く。歴史上で有名は、この町の
出身者の兵隊は中国で一番に強いそうである。町に入ると目につくのは、世界の自動車の
デイラーが集まって出店している。理由は、車を購入する経済力が急速に高まった町で
あり、世界の貿易会社の支店などが設置され始まったからであると思う。次に、ホテルの
建設を多く見かけるが、これも人々の往来が多くなったことによる。私はいつも決まった
ホテルに宿をとる。四つ星ホテルなので安心できる宿舎である。このホテルは世界の人種
が集まり、人種ウォッチングに最適の場所である。アフリカ、ロシア、中東、ヨーロッパ、
アメリカなんでもござれであった。但し、朝食は中華食であったから、日本人は困らないが
他の国の人はどうであったろうか。
 次回は商業施設のことを記します。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月17日土曜日

照沼重輝の中国彷徨記(夜河の遊覧)・・・18

2016.12.17土 曇天 午前5:15
 千島湖の近くの流行ってない淋しいホテルに泊まった。夕食は山の中の田舎レストラン
で摂った。温かいビールと山菜、豚肉の不明料理等を食べて終わりにした。とても風景や
風情を味わうようなわけにいかない場所であった。ホテルの戻り、村の観光案内を読んで
みると、夜の8時に河昇りの遊覧船があることが分かった。船は100人くらい乗れる大きな
船である。中国の河は桁外れに広く、日本の河という概念では理解は無理である。
その始発ステーションに行ってみた。何処にこんな観光客がいたのか不思議になるほどの
人が集まっている。船を覗くと立派な観光船である。ためらわずに切符を買い、いそいそと
船に乗り、良い場所に座り、船が進む前方の暗闇に目を移した。蛍と虫の乱舞が照らし
出され、虫の音色が聞こえてきそうな雰囲気であった。客が一杯になると、船は汽笛を鳴
らし音もなく出港した。船のサーチライトで前方が良く見えるた。大木の緑の葉、猿が追っ
てきそうな岩肌、夜鳥の群れ、青白い月等が夜の行脚を醸し出している。船は静かに
河を上っている。最初は目を見張って見ていた景色も飽きてくると、自然に観光客の方に
目が移っていく。親子連れ、若夫婦、職場の仲間、恋人どおし、老夫婦を連れた子、
仕事で来て、ついでに観光している人等が見られた。船は1時間の遊覧を経て、広い
淵でUターンをして帰路に就いた。思うに、遊覧の1時間は幻想的な密林と河の水の
匂いで終わったのであった。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月16日金曜日

照沼重輝の中国彷徨記(杭州の奥)・・・17

2016.12.16金 快晴 午前5:17
 杭州の奥地には何度も行ったが、想い出の深い土地は千島湖である。台湾人を船に
乗せ、船頭がその船に鍵をかけ、全員を焼き殺し、財物を奪った事件である。当時は
大きな事件で全世界に報道されたから、知っている人も多いはずである。俺は中国人
とその千島湖に行ってみた。上海、杭州、建業、何とかいう地名を経て、約500km
西に向かった。杭州の奥の100kmゾーンは茶畑が多く、豊かな農民の家が点在して
いる、更に200km奥地に行くと別世界のようであり、素朴な生活ぶりの農民の家が
あった。安徽省の境まで行ってしまったことになった。そこに千島湖があった。何でも
旧ソ連との仲が良い時に作られたダムまであり、上海の奥は杭州、その奥の奥が
千島湖であった。果てしない広さを持ち、計りしれない深さを秘めたよな湖であった。
しかし、湖の中に川魚の養殖場が有り、その養殖場で昼食まで取れるという箇所が
あるのでそこに船で渡った。養殖場は浮かんでいて、大きな基地の全部が筏で作ら
れていた。筏の上には犬や猫が生息をしていたが、そこで住んでいる家族が飼って
いる。俺たちは水着に着替え、湖に飛び込み泳いだが、途中でゾッとした。若し、
筏の家族が俺たちを置き去りにするか、筏に上がれないようにしたら、俺たちは
全員が抹殺される。そして、俺たちの持ち物を奪うことができるのだ。俺はゾッと
して、早めに筏に上がり、泳いでいる全員の保護を何食わぬ顔をしてカバーした。
しかし、そんな心配はする必要もない昼食台が待ち受けていた。他の三人は泳ぎ
足りないような平和な顔をして、昼食のために水から上がってきたのであった。
危険だった千島湖の話でした。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月15日木曜日

照沼重輝の中国彷徨記(毛沢東の西湖別荘泊)・・・16

2016.12.15 木 快晴 午後3:44
 西湖河畔の毛沢東の別荘に中国外交官のお世話で泊まった。中国地図にも杭州市
地図にも載っていない。タクシーの運転士では連れて行って貰えない。なぜ地図に載っ
ていないかの理由は、毛沢東は絶えず狙われるので、中国政府が載せなかったと言う
のである。俺はこの宿舎に日本車の自家用車で入った。案の定、正門に中国軍人の
制服を着た歩哨が、宿泊する人を誰何するのである。おまけに歩哨兵が2時間おきに
巡察もしている。正宿舎に行って宿帳の記帳をしてから、小さい小屋に行き、勘定と
正式記録をする。そこで部屋を割り振られることになる。ホテル風の建屋かコテージを
割り当てらるが、希望すればそこの部屋に行けると言うわけでもない。ホテルの部屋か、
毛沢東が愛用したコテージ風建物かは、運次第となる。俺は運良くコテージに数回ほど
泊まれた。コテージの広さは60㎡の広さがあり、ベッドは超キングサイズ、バスルーム
は25㎡くらいの広さで、スポーツ器具も取り揃えてある。ベッドのシーツは申し分なしの
清潔さ、但し、ベッドの高さが欧米人向きの高さ、日本人の俺には少々不便であった。
夜半に起きて窓から外を眺めた時があったが、歩哨兵6名が銃を肩にしてイーアール
サンスーと掛け声を揚げて通り過ぎる場面に出会った時があった。西湖の湖畔まで
10mの距離に立っているコテージであったので、窓の先に歩哨兵と美しい夏の水面が
妙なコントラストであったことを思い出す。この宿舎は中央高級役人と地方高級役人だけ
が利用できる宿舎のようである。俺は中央の伝手でこの宿舎に日本人を何度か泊めた
ことがあったが、皆さん全員が感激をしてくれた。夜半に目を覚まし、寝つけづ、背の高
い窓から西湖の最高の景色を一人ボンヤリ眺め、中国の歴史と詩人の偉大な漢詩を声
を出して、朗読したことがあった。「烏鳴いて霜天に満つ、江風漁火、・・・・の寒山寺、
夜半の・・・・・に至る」俺も同じ気分になり、寝つけなくなってしまったことを思い出した。
中国の旅が何時も淋しくなるのは何でだろうか? 長い長い重い歴史を背負っている
からであろうか。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月14日水曜日

照沼重輝の中国彷徨記(西湖湖畔の食堂)・・・15

2016.12.14水 雨 午前6:15
 上海から250km西の杭州に西湖はある。電車ならば昔は3時間だが、今は2時間も
かからないで行けるし、高速道路で行けば2時間一寸で行けるところである。中国の地上
の天国は、蘇州と杭州という。私は多分に20回以上はこの町を訪問していると思う。
車で行ったり、電車で行ったりしたが、杭州は歴史のある巨大な町であり、南宋時代の
昔は首都でもあった。その杭州の町に有名な西湖がある。岳飛や蘇東坡などは歴史を
代表する貴人であるが、数えきれない有名な人を輩出した町が杭州であり、その杭州を
代表する有名な観光箇所が西湖である。私がこの町へ行く目的は、商談と日本からの
貴賓客を案内する時が多かった。上海を出ると、ビル群が遠ざかり、水田風景が暫く続き、
桑畑が出迎えて、二層や三層の農民の家が見えてくると、間もなく杭州である。高速を
降りると、高層ビルがやたらに多くなり、広いラッシュ中の道路を西に向かうこと1時間、
美しい西湖が真正面に見えてくる。大きな西湖を1周するには1時間を要するであろう、
俺はいつも西湖の周りを、四分の一程度の時間を走ったところで、左に折れて有名な
うどん屋に向かう。この店はいつも超満員である。今までガラガラの時にお目にかかった
ことのない有名な店である。中国人でも一度は行ってみたい有名な店である。
 西湖を見ながら、有名な沢庵みたいなお新香と日本でいうなら田舎風の白いウドン、
ボールで運ばれる川魚のスープを食しながらの昼食は格別である。食べ終わって
寛ぐ時間は無い、早く開けてくれないかと次の客が並んでテーブルを待つのである。
口に入っている食物を嚙みながら退席をする羽目になる。そんな有名な店が杭州
にある。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月13日火曜日

照沼重輝の中国彷徨記(浙江省の夜に)・・・14

2016.12.13 火 曇天 午前4:45
 いつだったか、上海から自家用車で杭州湾を跨いで台州に行った。杭州湾を跨ぐ橋ができ
たので見学方々輸入品の発掘をしようとでかけた。橋を渡り、浙江省の端まで走り、その日
は台州の山の中のホテルみたいなところに泊まった。夜の食事は農家が経営する食堂で
摂れた。面白いことに、肉の値段がべらぼうに高く、肉野菜炒めと白飯、スープを添えて
注文した。ビールもついでに頼んだが、いつものように中国では冷えていない。我慢をして
ビールを飲み、白飯をスープで流し込んだ。山の中腹の宿屋であったので、徒歩で帰る途中
の夜の青空が表現できないほど美しかったことを思い出しています。黒々とした山の天辺の
方に青白い煌煌とした月が出ていた。暫く足を止めて、月を仰ぎ、私の深い苦しみや責務を
思い出し、一方未来の夢を思い出し、天秤にかけて思索をしてみた。苦しみと楽しみの重さ
は、私の今の状況においては、バランスが取れているのでないかと結論をつけて、思索を
中途で終わりにした。これ凡人の生き抜く方法の中心となるべき思考方法だと考えた。
思うに、人生は甘い砂糖と辛い塩は同等の量を食べるようになるのである。だから、尻込み
をしないで、これからの人生は塩も砂糖も同じ量を躊躇なく食べようと考えた。これが旅行の
大きな収穫である。宿屋に帰るまで、何か得した気分になった。旅をするだけ、思考方法が
増えるのである。日本人よ、老若男女誰も旅に出ようぜ!旅しない貴人はいなかった。
                   アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

 

2016年12月8日木曜日

照沼重輝の中国彷徨記(福州市)・・・13

2016.12.8木 晴 午前6:02
 上海から石材の購入先の相手探しで行った。上海から1時間半のフライトで行けた。思い
出せないが何故か軍人の案内で福州市を廻った。泊まったホテルは五つ星で立派なもので
あった。ホテルの中庭が広く、中国古来のつくりのようであり、私たち5人はそのホテルで
食事をしたり、バーで飲んだりをして楽しんだ。次の日の仕事は、石材の工場を探さなくては
ならないので、朝から軍人の車で石材工場を探した。道中に石の建造物があると、そこで
車を降りてそれを見たりしながら、福州市周辺を彷徨った。福州市の石質は柔らかくて、
墓石などに役に立たないものであることが徐々に分かりかけてきたので、私の発見力と
探求力が落ちてしまった。色々探しまわっているうちに建築物に有用な石は、福州市から
800km程、南下したアモイの近隣の山から出る石が良質であることが判明した。そこで
福州市周辺の観光をしようと決めて町の100km周辺を観光した。1000年前に埋もれた
お寺や弘法大師の漂着した海岸等の観光地を求めて歩いた。そのお寺は、数十年続いた
砂嵐で埋もれたようなお寺であった。寺の僧に案内されて、地下の寺の中に入った。
寺と一緒に埋もれていて生きていたガマガエルが、水槽の中に生息していた。このガマ
カエルは1000年も生きていたのであろうかと疑問を感じながら見つめた。日本にもいる
ような模様のカエルであった。カエルの目がジッーと私を見つめている。私はカエルに
「どうやって長年生きていたの」と話しかけたが、無言で私をカエルは見つめ続けていた。
思えば、人間の浅ましい疑問かなと考えて、その答えを待たないで次のスポットに移動
し、大汗をかいて寺の外に出た。何とも不思議なカエルであった。何時までも忘れれない
不思議な見学であった。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月6日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(着いた)・・・12

2016.12.7水 晴 午前4:53
 海口から南へ400kmで三亜に着いた。この島は小さいが人口も結構あるし、観光
スポットも感心するほど多くあった。三亜に着くまでの道のりの沿道の観光地を巡り
ながら走って、三亜に着いた。流石に南の果ては、湿度と温度が高く、正月なのに
泳いでいる人がいる。しかし、波打ち際は遠浅でなく、入ればすぐにドブンである。
誠に泳ぎにくい海岸のようであるから、浜に精通していなければ危ない海岸である。
夕刻にホテルでチックイン手続きをやり、部屋に落ち着いた。窓を開けて大海原を見ると、
南国のギラギラした海らしい風景であった。直ぐにも海に向かいたかったが、じっくり
と海に行くのも悪くないなと思い、ホテルの設備を案内書で見ると、地下が飲食店街に
なっている。後に行くことにしたので、さっぱりとシャワーを浴びることにする。
 夕方のシャワー後にホテルの地下に行った。盛りだくさんのフロアーであり、南の島の
解放感がただよっている。私たちは店を冷かしながら、地下見学をした。そして、
ロビーに上がり、ガーデンに出て、夜空を眺め、南十字星を仰ぎ、南国の夜を満喫する。
ホテル、玄関前の白砂、夜空が全ての南国風景であり、楽しい旅行であったことは、
間違いありませんでした。次回は福建省福州市の短い滞在記を記します。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月5日月曜日

照沼重輝の中国彷徨記(南方方面)・・・11

2016.12.5月 曇天 午前5:19
 海南島を南に南に走り、三亜に向かった。途中の岬で休み、少数民族の施設の見学を
し、心が和み、疲れが取れた。少数民族の子供をビデオで写し、その映像をみせたら感激
した様子だったので、ビデオをプレゼントしてしまうかなと思ったが、思いとどまった。プレ
ゼントを映像管理が無理だろうと思ったからである。
 現地族の子供と別れて更に南の三亜に向かった。左手に太平洋を見ながら走る。窓を
開けると、南からの潮風が匂う。高い椰子の木がツンと青空に向かっている。白砂には
漁民の小船が船体を乾している。正に南の浜の理想の美しい景色を、先ほどから数時間
を眺め続けられている。私は先ほどから北の浜と南の浜の大きな違いを考えていた。
北浜には雪と北風が似合うが南浜には椰子の木とギラギラ輝く太陽が似合う。今は南の
浜沿いを、更に南下しているのだ。ラジオからインドネシア的な音楽が流れている。私の
心は南方のベトナムの方に向けられていた。私には朝日、白砂、椰子の木、入道雲、
青雲、岸で砕ける波、漁民の小船、波打ち際で戯れている子供、太陽光の海面での
反射光、南風、南十字星、夜半の海等は全く詩的な気分になってしまうのである。
今夜の宿の三亜では、何を楽しもうかと考え始めた。間もなく三亜に着く。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月4日日曜日

照沼重輝の中国彷徨記(島の朝)・・・10

2016.12.4日 曇り 午前11:33
  海口を振り出しに南へ南へ走った。昨夜に泊まったリゾートホテルから早朝散歩に
出た。高い椰子の木の下を部落の方に歩いた。子豚が野放しで飼われている風景や
農民が朝の軽作業をしている風景を眺め、俺の心は和むのである。道路は舗装され
ていないので、足元を見ながら小一時間を歩いた。遠くの青い空にジェット雲を見な
がら歩いたり、目を落として白砂を眺めたりして、更に奥の部落に入っていった。
中国奥地の海南島の島の雰囲気を十分に味わえたので、ホテルに戻り、現地の朝食
のバナナだけを食べてから、ホテルを出発した。更に、南へ南へ車を走らせ、地名の
知らない岬で休息をとるために、岬の最先端に入っていった。すると、現地の若者数人
が、私たちの車を取り囲み、ハンドルが操作できないようにして、先導をし始めたので
ある。案内された駐車場は、現地民が占有利用している駐車場であった。初めは
恐怖があったが、自分たちの収益に関するだけの先導であることが解り、我々はホット
した気分で現地民に接触をし始めた。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月3日土曜日

照沼重輝の中国彷徨記(海南島縦断)・・・9

2016.12.3土 晴れ 午後7:51
 5人で海南島の縦断をした。海口から三亜までの約400kmである。楽しかったな、気の合
う友人だけ5人で縦断をした。ミニバンを貸し切りで南の果ての三亜まで走った。太平洋側を
左に見て走った。水平線が遠くに霞んで見えたが、何が見えたかを突き止める必要が無い
旅であった。水平線と入道雲、椰子の木と波打ち際、青い空と砂浜、潮の匂いと南風、夜の
南十字星等を夢見て走った。一日の走行距離は約200kmが限度であった。途中の東山温
泉という地名の所に泊まった。確かにプールが温泉であり、保養地のような雰囲気を醸しだ
している所であった。俺たちは水着になってプールに入り、年の差もなく水遊びをしたり、
プールサイドで寛いだりした。大きいプールで50mの長さが十分にあるプールであった。
プールサイドには椰子の木とビーチベッドが一対に並んで、遊ぶ我々を待ち受けていた。
俺たちは泳いだり、プールに浮かんで南国の夜を楽しんだ。暫くすると、肌寒くなることを
感じたので、部屋に戻り、ベッドに入ったが、鄧小平の伝記テレビをやっていたので見たが、
美化的に表現されたものであった。しかし、鄧小平は偉人であることには、日本人の俺も
同調できる。凡人が偉人をどうのこうのいうのは自由だが、そのまねを凡人はできないの
である。鄧小平は中国の建国をやった一人である。だから偉い人である。凡人は理由なく
賛同しなくてはならない。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年12月2日金曜日

照沼重輝の中国彷徨記(海南島)・・・8

2016.12.2金 快晴 午前5:25
 海南島には一回だけ行った経験がある。友人たちと5名で上海から飛んだ。約2時間の
フライト後に海口空港に着陸をした。海口は海南島の首都であるから、大都会にである。
遠く昔には流刑の島でもあった。俺の知っている歴史上の詩人である蘇東坡もこの島に
流されている。島暮らしをしていた蘇東坡は「青山一髪是中原・・・・」と赦免されて中国大陸
に戻る途中に詠んでいる有名な漢詩を思い出します。日記を見ないと年度は思い出せない
が、正月一日をこの島で迎えたことがあった。この島に着いた途端、季節は冬から夏に
なる。上海の気温2度、2時間のフライト後、機外に出ると気温は27度となる。着ていた
冬衣料をカバンに入れて半袖に着替えることが必要であった。夕方に着いた私達は、
夕食をソコソコに食べて、深夜の日付が変わる瞬間を迎えようとして早めに休んだ。
 12時ジャストから翌年に代わる瞬間を全員でホテルのレストランで迎えた。一斉に
交互に「あけましておめでとうございます」と新年の挨拶を交わした。ホテルの灯りで
照らされた椰子の木も新しい年を祝っているようであった。ここでしこたま酒をやらかした。
地ビール、紹興酒、白酒などホテルの酒蔵が空になるのでないかと余計な心配をするほど
であった。ヘロへロになりながら部屋に戻り、新年の年を深酒のため、ベッドで終日を過ご
すことになってしまう等とは思いもよらなかった正月になってしまった。翌日から、この島を
縦断することになり、楽しい旅の始まりを次回に記します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
遣唐使や遣隋使の船のようです