2015年3月31日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ケネデイ空港に着いた)・・・5

2015.3.31火 快晴 午前6:40
   散歩は昨日の疲れが残ったので休んでみたが天気極めて良く残念な朝を迎えてしまいました。
機体はニュークケネデイ空港にガツンと着いた。機内の窓から見えるのは、空港のゴルフ場や
空港ターミナルのビル群である。それに、百機以上の世界の旅客機がターミナルに横付けに
されていた。私の心はとうとうニューヨークに来たという心で破裂しそうにわくわくしてきた。
   入国管理局のカウンターまでは皆についていけは良いので悠々と行けた。どこに並ぶ心配
も無く誘導されたところに並んで順番を待った。どこの空港も同じような仕組みであるから、
ニューヨークでも係官の前に立ち、質問を受ける仕組みであった。係官「どこに行く」「目的は」
「旅費はいくら持っている」等々の質問を受けた。私は「訪ねる住所」「観光」「所有している
金の量」等を英語で答えた。係官「どうぞ、入国OK」等と言っているようだとしか分からない
が、難なく通過できた。
   次のゲートは税関、難問が待ち構えている。それは日本の刺身を凍らせてアメリカに持ち
こんで、夕食は刺身と日本酒で一杯やる計画を実行するために生ものを持っているからで
ある。とりあげられたら一巻の終わりであり、呑み助にとっては痛恨の極みである。係官の
前を出来るだけ目をそらさないで、ゆっくり歩いた。睨みつけて歩くわけでなく、自然体の
目で歩くわけである。これがその国の禁止されている物を持っていると、なかなか難しいの
だ。そのような時は、自分が俳優演技テストを受けているつもりで、係官の前を歩くのである。
通過できた途端に、夕食の刺身と日本酒が頭に浮かび、ゴクと生唾を飲みこんだ。生の体は
騙せないようだ。生唾テストをされたら、ばれたかもしれない、と思った。
    明日は手荷物を受取り、空港の外の出てレンタカー会社に向かう行程を記します。
                                          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝



2015年3月30日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ニューヨーク空港着前)・・・4

2015.3.30月 雲一点無く快晴 午前6:50
  昨日は午前午後と散歩に出たので休もうとしたが休めなくて30分のショートコースを歩いてきた。
  機体はカナダの上空からニューヨークに着陸するらしい。眼下には無数の湖が現れてきた。数えきれない数の湖が見える。朝の太陽が湖の水面を照らしてキラキラと東に見える。アナウンスが
ニューヨークケネデイ空港着陸前1時間と流れた。私は腰の安全ベルトを締め直し、着陸の安全を
村松大神宮に祈った。生まれた時から祈願している伊勢の分霊を祭ってある大神宮だから、私の
旅を守ってくれるはずだと考える。後で記すが、とにかく頼りになってきたお宮である。長旅の時にはお参りをすれば、安全に帰国が出来ると信じています。
    ソーッと祈願が済み、私の脳はニューヨーク着後の準備をし始まった。入国管理局の英語での
問答、税関での問答、レンタカーオッフィスでの会話等を声を出さないようにして、頭の中で繰り返した。それに、入国カードや税関届け出カードも点検した。人通りの点検が終わると、ホッとして
少し寝ようかと考えるが、私の場合は、更に眼下を眺め、異国の暮らしや家並み、それに自然の
景色に心が躍るので、着陸前の数十分は目を皿にして眼下を眺めてしまうのである。
    機体はニューヨーク湾の上を、ゆっくりと旋回していた。どうやら時間調整のようである。おかげで、マンハッタンのビル街や自由の女神をゆっくり高いところから見学できた。最終着陸体制から
機体は滑走路に向かった。ガツンと音がして車輪が回り始めたようであった。一気に乗客の緊張感も和らぎ始めザワザワした春五月のニューヨークケネデイ空港に安全に着陸した。
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・・照沼重輝

2015年3月29日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ニューヨーク着4時間前)・・・3

2015.3.29日 快晴 午前7:30
   一時間の散歩を終え帰った。阿漕浦公園の桜は一部咲きにもなっていないが赤実を感じた。
さて、ニューヨーク着4時間前になった機内はざわざわしてきた。私は相変わらず眼下をながめている。何を楽しんでいるかというと、眼下のアメリカ大陸の社会基盤を眺めているのである。道路、
家、牧場、湖、行きかう車を眺めアメリカの社会を想像しているのである。大陸は広い、とにかく広いと、単純に思った。一区画、一区画が大きい。そこにある家や車等が大きいのだ。住んでいる人も大きい。当然にアメリカは夢や希望、楽しみも大きいのであると思った。このアメリカ大陸に若い
うちに来なかったことを残念がった。自分の人間としてのスケールも顧みずに残念に思った。アメリカに入れば英語やスペイン語を習得出来たはずと思った。
  瞬間、 眼下を眺めたり、反対に機内の天井を眺めたりして、出来るだけの想像力を助長する脳の運動をしてみようと考えついた。自分がアメリカ一の経済人又は冒険家になったつもりで、何かを
考えて楽しんでみようと思いついた。広大な大陸で発展するのはでかい夢を持った人だけだとの
考えに至ったのである。あと4時間を退屈に過ごさない方法を思いついた瞬間から、自分自身の
体の中心と脳の中心に何かが生まれたような気がした。
                                          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月28日土曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ニューヨークに着く前)・・・2

2015.3.28土 快晴 午前5:00
    飛行機はアラスカ上空からアメリカ大陸の上空に入った。私の心は逸り、ウキウキしてきた。隣の乗客の顔を覗き込むと、心なしか同じように笑みを含んでいる。あと5時間くらいでニューヨークに着く、通算14時間のフライトだがその半分以上を飛んできた。目を眼下にすると雪景色であった。どうやらアメリカ本土と思ったが、カナダ上空のようである。雪のハイウエイーが街灯の明かりを伴って、地平線の果てまで続いている。私は相変わらず眼下を眺め、雪景色を楽しんでいた。
現地時間は午前5時、うす暗いハイウエーを数台の車が疾走をしている。まるでカーチエスをしているように見えた。しばらく眼下を眺めていたが、やがて変わり映えしないカーチエスから目を離し、機内を観察した。寝ている人、機内映像を見ている人、虚ろな目で機内を眺めている人等々を
観察しているうちに眠気をもようしてきた。私はニューヨークまであと4時間かかりそうだ、勝手に考えて浅い眠りに入ろうとし、眠気を呼び込むためにブランケットを頭から被り体を横たえた。
                                           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                           大陸と希望の 星条旗

2015年3月26日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(初のアメリカ・ニューヨークへ)・・・初回

2015.3.27金  快晴 午前6:30
  私は1948年生まれ、現在は66歳です。大陸旅行を気ままに、家庭や職場に遠慮なくやっています。今までの旅行歴をざっと眺めると、中国大陸210回、北アメリカ大陸を10回、アジアの国々を数回ほど彷徨いました。その都度、ブログを掲載していますが、今回からはアメリカ大陸を始め
にして、計画無し、時間無し、ガイド無し、金銭無し、周囲の賛成無し、下調べ無し、無い無い
旅行記を面白く可笑しく記してみます。
   海外旅行の始めは、26歳の時に職場の同僚を誘い、頭になり香港に行きました。次に30歳時に高校生時代の友の誘いで台湾、次は田舎の悪友を誘いフィリッピンとタイ、仕事の取引先と韓国、青年経済人時代の友と台湾や韓国、中国は現地工場を買ったことから行くようになりました。そして、50歳の時にアメリカニューヨークを見てみようとして、ニューヨークでコンビニを経営している旧知を訪ねたことから、アメリカ大陸に興味を持ち、大陸を横断縦断、斜めクロス横断、太平洋大西洋縦断等を繰り返すようになってしまいました。
   始めは、50歳の時にニューヨークに行ったところから記します。初めてのアメリカ行きはスリリング的ながら楽しく意気揚々とアメリカに入ったことを想い出しながら記します。
   成田を安いチケットのアメリカの飛行機に乗りました。アラスカ上空まで約10時間かかりましたが、下を見ると5月でも山々が真っ白見えました。アメリカ大陸の上空に入れた実感が沸き起こり、
目を皿のようにして大陸の大地を眺めました。心が逸りニューヨークまで5時間かかるのを長く
感じていました。
                                         アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 

2015年の中国計画(越州から明州へ、日本帰国)・・・83

2015.3.26木 晴れ 午前6:30
  朝の散歩無し、風邪気味でもありブログが気になる。空海入唐記が終わりに近づいているから。
空海の入唐目的は達したはずである。空海は8月半ば、長く滞在した越州から明州に向かった。
明州では阿育王寺に表敬参拝をした。明州郊外のここからは、遠く天台山を遠望できた。更には、
禅寺の天童山にも行ったはずである。ここでは後年、栄西と道元が修行し、禅画の雪舟は2年間
この寺の首座にまでなった。
   唐土を辞する日がきた。空海は港の熱砂の浜辺に立って海上安全を修法し、持した法具を海中に投げ入れた。伝説では、この法具が海を越えて高野山に落ちたことになっている。
   これで空海の入唐記を終わりにします。殆どがネットで取った資料から記しましたので、味気ない
ブログになったと思います。浅学菲才の私が記したことをお許しください。なお、4月に訪中しますので、関連する土地に行けたら、取材をしてきます。
    次はアメリカ横断縦断斜十字断を冒険や苦笑微笑冷笑的に記しますので、どうか読んで見てください。
                                                   アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月25日水曜日

2015年の中国計画(常州の空海)・・・82

2015.3.25水 晴れ 午前7:00
  空海は170km先の常州に向かった。常州での寺は天寧寺に行ったと思われる。色々な寺を訪ねて空海は、得意とする中国的世界でなく、インド的価値世界に自己投帰していった。
  空海はこの先の浙江で4か月留まりながら、日本に戻ってからの日本的布教活動を描いていた
はずである。空海は水運の京杭大運河で、蘇州、杭州の寺を表敬訪問し、越州に向かう。往路とはくらべものにならない速さで航行した。
                                          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝



 

2015年3月24日火曜日

2015年の中国計画(揚州から~)・・・81

2015.3.24火 晴れ 午前7:00
  今朝は春とはいえ寒かった。畑や水田は真っ白な霜に覆われていたが、私はいつものように散歩に出た。真砂山向かいの三つの社にお礼参りを兼ねての運動です。あまり立派でない社が家の近くにあります。一番目は部落を守り、二番目は私の体を守り、三番目は私の周辺の女性を守る神様です。だが、私は密かにこの社を長年に渡り拝んでいます。拝みがいはありました。この10年以上は無厄で過ごせました。この大神宮の末社を一生拝んでいく覚悟でいます。人々に平和をもたらす効き目のある社を大事にしようと思います。効き目のある社を密かに持つのは大きな財産です。
   さて、揚州を出た空海は水路で潤州に向かった。潤州では金山寺に詣でたと思われる。この寺には空海大師留学処の看板が立っている。この看板のために日中戦争で日本軍は攻撃をしなかったという。この寺には「空海上人修行古刹」「弘法大師修行古刹」と題する漢詩の書が3幅残っているという。雪舟もこの寺に2年間にわたり修業した寺でもある。
   阿倍仲麻呂が詠んだ「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」は潤州の
の北固山で詠まれた。ここから空海は常州に向かうのである。
                                          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月23日月曜日

2015年の中国計画(空海は揚州へ急ぐ)・・・80

2015.3.23月 晴れ 午前6:30
  汴州まで行った空海は大相国寺を訪ね、しばらくここに留まらせてもらった。道中は廃仏の心配をしながらの旅は揚州上陸まで続いた。
  船で揚州に着いた空海は早速、鑑真和尚のいた大明寺をたずねた。迎えた住持は空海の立場の一変に驚いたのである。住持は空海を慇懃に応接しながら奈良の唐招提寺で没した鑑真の和尚の日本での事績を詳しく聞いたではずである。空海は知っていたことを詳しく報告したと想像がつく。
   大仏殿の前で聖武天皇以下百官、公卿400人が鑑真の話やお経を聞いたことを話すと、住持
は涙を流したに違いない。鑑真和尚の偉業は日本人は忘れてならないとあらためて思います。
                                         アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月22日日曜日

2015年の中国計画(洛陽を去る空海)・・・79

2015.3.22日 快晴 午前7:00
  今朝は本コースの散歩してきた。約4Km、途中1Kmバック歩き、腹筋運動50回、スクワット20
回をこなして歩いてきた。歩きながら楽しい想い出が浮かんできた。昨日は妹夫婦が来たので、年寄りらしく下町の鰻に舌鼓をうち、そのエネルギーで水戸の弘道館を見学、ついでに水戸城の薬王門を拝見し、妹夫婦を水戸駅に乱暴に忙しく送った。
    さて想い出は別にして、表題にに戻ります。
    洛陽を去る空海に、住寺は苦渋に満ちた表情で「まもなく密教が廃される危険が追っている」と言い、寺に所蔵されている密典を預かってほしいと言われた。阿闍梨として断れない緊急判断をした空海は、大福先寺で過ごし経巻を点検した。翌日、たくさんの密典を馬車に積み洛陽を後にした。判官らは、空海の立場はもはや留学生の立場を越えている現実を、わきまえるほかなかった。
空海だけは別行動を許可されるようになった。空海の心中は帰れる喜びと、密教の廃される非常時感を合わせた複雑な気持ちで憂鬱だったに違いないと思われます。ここからは、どのようにして空海は心身の平衡を保ったのかを探っていきたいと思います。
                                           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月20日金曜日

2015年の中国計画(洛陽の空海)・・・78

2015.3.20金 曇り 午前7:00
   洛陽で空海は白馬寺に留まったものと思われる。紀元67年に建てられた中国最古の寺であった。白馬寺の住持は空海のために1室を用意し数日を過ごさせてくれたであろう。空海は仏典を西方に求めた動きや仏教発祥国のインドを中心にギリシャ、イラン、パキスタン、アフガニスタン、
シルクロード周辺の広範囲で興亡する王朝や民族間の動向が深く関与していることを、ここで知ったはずである。
   そして、恵果から受法した密教が、アジアのほぼ全域を包含し、国際的な宗教となっていることを
空海は噛みしめたと想像できる。今、白馬寺の境内に空海大師の像が立っています。洛陽は、
中国を代表する古都の一つである。たびたび王朝の首都となり、盛衰を繰り返した。
   空海が滞在したころは、長安に劣らぬ大都市で、城内のそちこちに名所旧跡を残す古都であった。空海はこの洛陽で数日を過ごし、洛陽に別れを告げた。
                                       アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月18日水曜日

2015年の中国計画(長安を発ち1週間)・・・77

2015.3.18水 晴れ 午前6:50
  朝はまだ底冷えのする2月下旬に長安を発ち、空海は一日の行程で驪山の温泉に到着した。来る時は玄宗と楊貴妃の愛の離宮に目をやる暇は無かったが、帰国の最初の夜はここでゆっくり温泉に浸かったはずである。白楽天は、玄宗と楊貴妃の日々を長恨歌にして残している場所である。
ここから5日、天下の険の「潼関」を越え、「函谷関」の登りに入った。「函谷関」は三か所ある。
最も有名なものは洛陽と長安の中間にある秦の時代の関所である。次に、紀元前3世紀後半、韓や魏など東方の国の兵を防ぐために作られたものがある。紀元前3世紀の三国志の時代、魏の
曹操が西方の漢中の張魯や蜀の馬超らを攻略するために作られたもの。洛陽から一番近い
30kmのところにあるのが、漢の武帝の時代につくったものである。
   空海はこの難所を乗り越えたが難儀お連続であった。長安を出てから1週間、洛陽の郊外についた。
                                                             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月17日火曜日

2015年の中国計画(空海は帰国を急ぐ)・・・76

2015.3.17火 晴れ 午前6:30
   空海は恵果の埋葬を見届けると帰国を急いだ。手配していた仏具が出来上がってきた。盛大な
送別の宴が催されたようである。長安の仏教界や文芸界の著名人達が一堂に会したと思われる。
皆が空海の早い帰国を惜しんだ。別れの最後に一人の高僧が柳の木を折り、空海に渡し抱擁しながら「できることなら君と一緒に日本に渡りたいものだ」と言ったかもしれない。70を過ぎた高僧は
いつも空海に日本に渡りたいと明かしていた。
   別れと言っても、古は永運の別れであったから、特に感情は高まったに違いない空海は後ろを振り返り、振り返り、送る人の姿が見えなくなるまで、振り返ったであろう。向かうは大陸のどこかの港で港であった。
                                                   アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月16日月曜日

2105年の中国計画(恵果は空海への教えを急ぐ)・・・75

2015.3.16月 快晴 午前6:45
  恵果は余命幾ばくも無かったので、空海への教えを急いだ。潅頂の秘儀を空海は恵果に従い、滞りなく、印を結び真言を唱え、いくつもの作法所作を違えることなかった。6月上旬から8月上旬
までの練習のおかげであった。
    空海は、一介の私費留学生から一躍阿闍梨の師位を得て、真言付法の第八組遍照金剛となった。空海がこれまで積み重ねてきた全てが一気に結実したのである。しかし、恵果の下で何年も
修行を積み重ねていても未だ潅頂に浴しない者の多くを飛び越えての潅頂であったから、周りの
不平不満が渦巻いたであろう。恵果は周りに構わず、曼荼羅や密法具を制作を命じ、空海に与え、この法をすぐに日本に持ち帰り、それを弘めなさい、それが私えの報恩になるといわれたそうです。
   空海の帰国準備が忙しく始まった。空海は持ち帰れるあらゆるものを収集し始めた。橘逸勢
(日本留学生)は「君は国禁を犯してまですぐ帰るつもりか」と言ったであろう。幸いに日本から
判官の高階真人遠成が単独で朝貢のために入唐していた。
  空海は判官に直接の面会をし、帰国の許可を特別にもらった。如何に国家のために有益かを
必死に説いたに違いない。
    そうこうする間に、暮れの12月15日に恵果が没した。空海の長安を辞した日は不明であるが、
その年の4月には浙江にいたのが分かっているので、2月中旬から下旬には長安を発っていた
と推測できる。
                                              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月15日日曜日

2015年の中国計画(青龍寺と恵果和尚)・・・74

2015.3.15日 曇り 午前7:00
  恵果が住する青龍寺には内外から千人を超える留学生が密法の勉強に来ていたらしい。当時は
参拝者も多く賑やかな密教寺院であったらしい。隋の文帝によって霊感寺として創建された。唐代の初期に戦乱のために一時廃寺になったが、高宗の時に再興され観音寺となった。その後、改名されて青龍寺となった。
   平安時代に入唐した最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡の八人のうち六人が唐の高僧から教わった寺である。
   恵果は(746~805)は、幼少時に出家して当初から青龍寺に入り20歳で密法を受法した。
最晩年の805年に空海とめぐり合い、空海に大法を授け、その他50種の諸尊念よう法を授けた。
同年の12月15日に没した。弟子を代表して空海がその碑文を撰した。日本から唐に入った僧が
恵果の碑文を一年目で撰したことは、恵果の教えを受けた弟子の最優等生と考えるほかありません。これが空海の計り知れない人間力と思いますが、皆さまいかがでしょうか。
                                             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

 

2015年3月14日土曜日

2015年の中国計画(長安での空海の行動)・・・73

2015.3.14土 快晴 午前7:00
  長安での空海はあらゆる仏教の学問に興味をもって行動したであろう。インドから来た僧とも交わったに違いない。空海はインドの僧を通じてサンスクリットを修練したと記してある。空海は
インド僧を通じていんど世界を知る。5月に入ると空海はサンスクリット音を聞いて漢訳語と唐語と和訳語はほぼ同時に頭に浮かぶほどになった。単語の一つが分からなくても全体としての意味を
直感できるほどになっていた。
    その当時の長安では青龍寺の恵果和尚が最高の僧であり、他の僧では空海に教えをする任に
あたれないほどの僧に空海はなってしまっていた。恵果の健康状態は悪く、残された時間に余裕はなくなっていたので、空海は焦ることになる。
                                          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝



2015年3月12日木曜日

2015年の中国計画(空海は西明寺に入る)・・・72

2015.3.12木 快晴 午前7:00
  空海は担当官史の案内で寄宿先の西明寺に入った。空海が案内された部屋はなんと永忠が30年前に使った部屋であった。西明寺の西北の角を交差して渡ると「西市」があり、ここはシルクロードを通ってくる西域の様々な文物が陳列されている大バザールであった。雑多な人種と言葉と宗教
と服飾と生活文化が同時に入りこんでいた。当時の長安には90を超える寺や15ほどの道教院その他に2つのキリスト教寺院、4つのイスラム教の寺などがあったという。中国独自の道教はさほど振るわず、外来の宗教が道教を圧倒していたと思われるが、朝廷をはじめ中国人は依然政治や生活の根底で道教を信奉していた。
    空海は、水を得た魚のように毎日諸寺を訪ね歩いていたはずである。玄奨三蔵の要請で
建てられた大雁塔も仰ぎ見たりしていたと思う。私もこの大雁塔を仰ぎ見たことがある。空海とは
地べたと大空の違いがあるが、恐れ多くもこの塔を仰ぎ見てしまった。
                                                    アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月11日水曜日

2015年の中国計画(空海は一人に)・・・71

2015.3.11水 大風去り晴れ  午前7:15
  在唐30年にして空海と入れ替わりに帰国する大安寺の永忠と会った。永忠は我が子に教えるように空海に唐事情を教えたはずである。永忠はとうに60歳を過ぎている老留学生であった。
永忠はすぐ般若三蔵の名を口にしたはずである。
    一月もあっという間に過ぎ、大使らは2月11日帰国の途についた。空海は大使たちを中国の
故事に従い、川べりの柳の枝を折り、それを橋の上で大使たちに手渡し別れを惜しんだ。長安から
西に行く時も、胃?水のほとりで同じように別れを惜しむのである。
                                              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月10日火曜日

2015年の中国計画(空海は長安に出かける)・・・70

2015.3.10火 雨上がり快晴 午前7:00
   空海は新年朝賀の任が終わると待ちかねたように城内に出かけた。国際都市らしく出会う人も
多く活気がある長安であった。空海は先ず宿舎になる西明寺を訪ねた。玄奨三蔵の指導によりインドの祇園精舎の一院を真似て作ったものである。奈良の大安寺はこれを真似て作ったものといわれている。
  空海は大唐一といわれる西明寺の大伽藍を目のあたりにして心底から驚嘆したに違いないと思われる。まるで皇城に入るような気分であったでしょう。そのお寺では顔立ちや服装が違う僧を幾
人を見られたはずである。これからあの僧たちと学ぶことを考えた空海は胸の高まりを抑えるのが
大変であった。日本の留学生はこの西明寺に寄宿することを日本で聞かされていた空海は、自分もここに寄宿すると思っていた。
                                           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月9日月曜日

2015年の中国計画(空海の中国語)・・・69

2015.3.9月 雨 午前7:10
   長安にいる外国人のたどたどしい中国語を聞いた空海は、自分の日本で勉強した中国語が長安で通用することに気づいた。空海の知識欲が長安で更に勢いを増したと思われる。あらゆる知識や言語を水を飲むように体内に入れたに違いない。
    空海たちはまもなく、宣陽坊にある外国人用の宿舎(公館)に入った。別の公館は吐番と南詔の一行で満員であった。年が明けて、新年朝賀を無事に終わった大使達はわずか30日で、帰途についた。
   自分の中国語が使えることが分かった空海は、この後長安で貪欲にあらゆるものを吸収していったのである。
                                        アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月8日日曜日

2105年の中国計画(昔の長安は国際都市)・・・68

2015.3.8 日 曇天 午前6:30
  昔の長安は国際都市であった。唐に朝貢した国の国使・随員の数は 4千人を超えたという。唐と
国交を結んだ国は、唐の朝廷にひとたび吉凶があると各国から慶賀・弔問の使者が長安に集まった。
  さらに、当時の最高学府である国子監には、高麗、新羅、百済、高昌、吐蕃、渤海、日本などから留学生が来ていた。中国の君子は一切の異民族を差別なく扱う仁徳が要請されている。そのせいで、阿部仲麻呂や藤原清河が唐の朝廷に重用されたのもそのせいであったといえる。
                                                    アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月7日土曜日

2015年の中国計画(長安城内に入る)・・・67

2015.3.7(土)雨 午前5:40
  空海たちは長安城の東面の城壁中央の「春明門」から城内に入った。長安城は東西9km、南北
8km、幅6kmの城壁に囲まれている。朱雀大街という大通りの道幅は80mであったという。この朱雀大街によって左街と右街にとに区分されていた。時は第11代の憲宗の時代であり、政治的には
衰退の時代であるが、玄宗皇帝の時代に頂点に達した唐文化はまだ衰えていなかった。空海はそのことを喜んだに違いなかったはずである。
                                       アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月6日金曜日

2015年の中国計画(唐時代)・・・66

2015.3.6金 快晴 午前7:15
  今日も朝の散歩は忙しくて休む。明日は必ず出る。
空海が入った唐は7世紀の初めに建国された国である。在位が45年に及んだ第6代玄宗皇帝の
前半の時代に絶頂期を迎えた。西は中央アジアのシルクロード諸国(高昌、吐藩、亀茲、突ケツ等)を従えるほどの強大な国家を形成した。しかし、後半は玄宗が楊貴妃に溺れて政権をおろそかにした。安史の乱は9年にわたり国内は揺れた。
                                            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月5日木曜日

2015年の中国計画(長安城に入る)・・・65

2015.3.5木 晴れ 午前6:30 
   散歩不可能、忙しく時間なし。それでも空海を書き込む。
空海たちは長楽坂に二日滞在した。お互いに長旅の労をねぎらった。空海もさすがに心に高揚感
を抱いたはずだ。12月2日、内使の用意した駿馬23頭に一人ひとり跨り列を正して長安城には
いった。
    長安は、紀元前3世紀から、西周、秦、西漢、新莽、西晋、前趙、西魏、北周、隋、唐と12の王朝がここに都を置き、中国の古都の一つとして300年の歴史を刻んできた城郭都市である。唐は
7世紀の初め、隋の太原総督だった李淵が煬帝の留守中に建国をした都である。
                                           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月4日水曜日

2015年の中国大陸(潼関を過ぎる)・・・64

2015.3.4水 雨 午前6:45
  潼関は唐の時代は首都長安と直結しているため重要視された地である。箱根はこれに似ているという。この潼関からがいわゆる関中の地で、道も広くおだやかな平坦地となる。三日ほどのところに、かつて玄宗が楊貴妃と冬を過ごした華清宮がある。空海たちは玄宗と楊貴妃の故事を語りながらここで休息したと思われる。そろそろ長安が近いことが肌で感じられたことであろう。
   ここから長安まで30kmを急いだはずである。そして、徐々に長安が見えてきたはずである。
12月21日延暦23年も終わろうとしている年の暮、空海の一行は長安の入口の長楽坂を下り、
やっと長楽駅に着いた。京を出てから半年を要したであろう。
    都に入り、歓喜に満ちたのか、涙を流したのか、空海の沈着冷静な精神力でも、歓喜か涙か、のどちらかを心が右往左往したであろう。
                                                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
中国の峻険な地の宿・ここに初夏に泊まれた

  

2015年3月3日火曜日

2015年の中国大陸計画(今日は休み)・・・63

2015.3.3火 晴 午前7:00
   とにかく忙しいこの頃である。朝に一仕事、昼に仕事、夜に会合等々、通勤時間と寝るだけの日々を送っています。高校生のアルバイトを含めると50年間は働き続けている。最近、アメリカに
行ってきたので、彼らの生活の形態を見るチャンスがあった。白人は土曜日、日曜日にはあまり
働かないようだ。土日は家族で自然相手の遊びを楽しみ、月から金までを頑張って働く。一方
有色人種は、白人がやりたがらない部門で働いている。例えば、モーテルの24時間勤務で
夕方から朝にかけての勤務などである。早朝の町の掃除や土木工事は夕食人種の十八番に
なっていた。一方、白人は夕方の晩餐を家族で楽しんだり、子供の教育に勤しむのである。ここに
不平等感と教育水準の違いが出て来ているのかなと思ったアメリカであった。しかし、アメリカ政府は不平等感を無くそうとして頑張っている国である。私たち日本人のアメリカでの地位はアジア人の地位と均等と思われたことを、今思い出している。
                                                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2015年3月2日月曜日

2015年の中国大陸計画(函谷関)・・・62

2015.3.2月 快晴 午前6:15
   今日は朝の運動をさぼりたくなり休む。理由はおのれの気まぐれです。お陰で疲れなしの朝だ。
空海たちは函谷関に向かった。この関は中国最大の関である。函谷関は三か所あった。洛陽側から漢時代に作られたもの、魏時代に作られたもの、そして秦時代に作られたもの、である。近年まで外国人は入れなかった。函谷関は空海たちにとって、最後で最大の難所である。約100kmの道中に3ケ所、厳しいアップダウンを超えなくてはならない。進めども進めどもなお着かない唐土のスケールの大きさに挑んでいかなくてはならなかった。大使や随員は公用が済めばまたこの道を
戻るのである。
    この難所を超えると約二日ほどで潼関に入る。ここは天然の要塞のような険峻の地である。古くから軍事上の要衝の地である。空海たちが通る50年前、安禄山の変でここが天下分け目の戦場になった地である。
                                      アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝