2013年12月31日火曜日

1997年から2013年のアアメリカ(田舎道)・・・33

2013.12.31火 快晴 午前6:50
 ネバダ州の物凄い田舎町に侵入してしまった。隣のカルフォルニア州の境まで8時間は要する。オレゴン州までなら5時間を見なくてはならない。太陽を西において進んだはずだが、何時しか後方に太陽がきている。このままだと北東方面に進んでいるようだと判断した。相変わらず田舎の一本道で出会う車はない。四ッ足を天井にしたバッファローの死骸が時々見受けられた。車のスピードは田舎道といっても80マイル以上でているので、停まってバッファローの安否を確かめる余裕がない。砂漠を脱出という目的だけで、そのままのスピードで疾走を重ねる。しばらく走ると、険しい山道に入り、草木が無くなり、赤い岩肌だけの景色になってっきた。山の上は風が強く、5月であったがとにかく寒かった。山の尾根に雪避けの柵が方々に見受けられた。ニューヨーク等の大都会の景色と対照的な人間を寄せ付けない、その景色をアメリカのローッキー山脈で見ることになりました。ローッキーの麓ヘ行こうとしたドライブは、ロッキーのどこかの山の頂上に辿りついてしまいました。戻るか、進むか、思案ろっぽうの心理が続いています。戻るのはしゃくだが、危険を感じたら戻るのが定則、危険を感じなければ進む、悩みました。野営もいた仕方がないが、野営をするならば
適した場所を探すほかない。
 前回のアメリカ西側縦断中に野営をしたので、その経験から考えると、暗い場所か明るい場所かにするかは、寝易い暗い場所が適しています。しかし、暗い場所は不気味です。不安や怖いことを予測したら寝られません。こんなことを考えているうちに、約100マイル7(160km)を進んでしまいました。ローッキーの山道は暗くなるのが早く、太陽が山の頂に隠れそうになってきました。太陽は相変わらず、私たちの後方に頼りない光を発して沈みそうです。小用をたしたく、車を止めて砂漠の地に足を下ろしました。茂みに入り用を足していると、遠くに犬かコヨーテか、不安になる、あの鳴き声を耳にしました。「ウオーン、ウオーン」と悲しそうな又はお腹がすいたような友を集める、鳴き声でした。私は男らしくも無く、恐怖感に囚われ、即座に車に戻り、夜通しでも走って、現在の場所から脱出する決意をしました。しかし、油の残量がその目的に敵いません。その時の油の残量から100マイル程度しか走れなくなっていました。車は相変わらずローッキーの頂き周辺を走っています。            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年12月30日月曜日

1997年から2013年のアメリカ(田舎道)・・・32

2013.12.30月 快晴 午前7:15
 アメリカの横断中にリオという町から北に反れて砂漠に入った時の話です。遠くのロッキーが美しく、その山裾に行ってみたくなりました。ナビをつけた車でしたが、肝心のナビの操作が完全でなく、私の方向勘だけを頼りにして、強引にその方向に進路をとりました。
 
インターステイト80のリオの出口を出て、リオの町を後方向にして、北に進路をとり、太陽を左手に
見ながら進むと、必ずロッキーの麓に到達するはずであると判断をして、意気揚々と出発をしました。リオの町のスーパーで小ギャンブルを楽しんだ後の出発です。スーパーで日本の海苔巻すしを食べて元気が出てからの出発でした。
 日本でいえば一車線の市道のような道路ですが、ブッシュと赤い色の砂漠の中の道で、荒涼とした、果てし無く延々と長く続く、ナイル川の流れのように大きく蛇行したりしているような道に入りました。そして、常に太陽を左に見て進みましたが、午前中は一台の車にも出遭いませんでした。道路に慣れてくると、太陽を見ることになおざりになりました。いつしか、車はとんでもない進路に入り、行けども、行けども、ブッシュと赤い砂漠から脱出できないようなゾーンに入ってしまったのです。太陽は左から右に大きくそれてしまいました。ガソリンは少なくなり、腹は減り、人家無く、空に
鳥も無く、砂漠の迷路に入った気分になり、私の頭は混乱し口が渇いてきました。私は焦りました、
今日は砂漠で野宿か、エンストした車を置いて徒歩で助けを求めるか、悪い予感ばかりが頭を過ってくるようになりました。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年12月29日日曜日

1997年から2013年のアメリカ(街道筋の食事)・・・31

2013年12月29日(日)快晴 午前7:00
 アメリカでハイウエー上での食事は数十回ほどあります。ハンバーグからナイフとフォークを用いた食事を経験しました。但し、日本と違ったのは、ハンデイーキャッパーが多く働いていました。
聞くところによると、アメリカでは法律により一定のルールでハンデイキャッパーを採用することになっているそうです。
 さて、ハイウエー上の食事で一番おいしくなかったのは、タコスで次はメキシコ料理、そして次は
マックでした。美味しかったのは、フロリダからキーウエストに向かう途中のポテトを中心とした料理でした。その支払いは重さで計算をされました。アメリカの南国の悠長な生活ぶりを感じさせられました。次に、美味しかったのは、ワシントンからテネシーを経て、ダラスに入る一歩手前の町で食べた農場料理店でした。とにかく新鮮な野菜が沢山あり、野菜だけでなく全て並んでいる食物が
新鮮でした。牛乳、肉、野菜、アイスクリーム、豆、トウモロコシ等等、思い出すだけで唾液が出てきます。醤油味が恋しくなったら、中華料理の食べ放題店でもよく食べました。米や魚や餃子を食べて、東洋の味で里心を癒りもしました。
              アメリカ・中国馬賊隊・・・照沼重輝

2013年12月27日金曜日

1997年から2013年のアメリカでの発見・・・30

2013.12.27金 雨 午前7:30
 昨年から今年にかけてアメリカを縦断と横断、そしてV字横断の旅を4回ほど馬鹿みたいに重ねました。1回目はニューヨークに入り、フロリダ、キーウエストを周り、ダラスを経て、飛行機に乗りサンフランシスコから帰国、2回目はビューヨークから入り、シカゴに行き、シカゴから飛行機の乗り、
サンフランシスコから帰国、3回目はサンフランシスコから入り、カルフォルニア州内をアメリカゴルフ発見と輸出入商品の開発の旅、4回目はニューヨークから入り、ワシントン、テネシー、ダラス、
アルバカーキー、ロス、サンタモニカ、サンフランシスコから帰国しました。これらの旅の殆どを
レンタカーで廻りましたので色々な発見をしました。その発見を思い出しながら記して、明日からの正月休みを過ごすつもりでいます。皆さんが旅に出たり、仕事で出張したりする場合に、何かの役に立てば良いと思います。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
ハイウエー上でスピード出しすぎで、悪魔を見てハッと思った瞬間

2013年12月22日日曜日

1997年から2013年のアメリカ(ハイウエイー状況)・・・29

2013.12.22(日)快晴 午前8:00
  相変わらず4kmの早朝散歩を8年間続けています。そのおかげでアメリカの大陸横断と縦断を身体の故障なくやれています。頑健な体をいただいた父母や先祖に大感謝をしています。
 さて、アメリカのハイウエイーはドライバーにとって、極めて爽快です。理由は、どのような運転手の車でも、運転マナーが抜群に良いのです。例えば、コンボーイトレラーの後ろに車がついたとします。直ぐにコンボーイは、右車線にトレラーを避けてくれます。そして、大きなクラクションを鳴り響かせ、「避けるのが遅くて悪いな、又は、気をつけて行けよ」のような感じのシグナルを送ってくれます。私もついついクラクションを「パパーン」と鳴らします。追い抜きざまにトレラーの運転席を見上げると、親指を立ててのシグナルをくれます。ハイウエイーの車線の数は、ニューヨーク等の町近くに入ると片道4車線、郊外に出ると3車線が普通のハイウエイーの状況でした。ハイウエーからの
降り口は、普通は右側にあるので、そろそろ降り口が近づいたら右側車線に近ずく必要があります。全くの田舎のハイウエイーでも3車線が普通でした。スピードは80マイル程度で走っていれば、パトカーのご厄介にならなくてすみます。ハイウエーパトカーにお世話になる外国人は、結構
多いようです。理由は、アメリカのハイウエーは広く、スピードが出せて、楽しくなってしまうからだと思います。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

                 

  テキサスのインデアン居住区を抜けるハイウエイー・左ラインが追い越し車線・右が避難帯




 

2013年12月21日土曜日

1997年から2013年のアメリカ(横断までの準備)・・・28

2013.12.21土 曇天 午前7:30
 アメリカに行く場合に飛行機会社の選定を誰も悩むでしょう。値段で決定するか、乗客に日本人が多いほうが良いか、安全第一か、航空会社の国籍か等を悩みます。私の場合は日系の会社で安い運賃の会社を選びます。理由は、アメリカは長旅になりますから、隣の席ができるだけ日本人が座る率の高い日系会社になります。そして、半年前に申し込むとかなり安いチケットが入手できます。今までにアメリカ行きで乗った会社はANAが大半でした。別にこの会社と全く縁はありませんが、かなり安いチケットでアメリカ行きをしています。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝



サンタモニカの秋の海岸 R66の終点 

2013年12月18日水曜日

1997年から2013年のアメリカ(始めての横断6000km)・・・27

2013.12.18水 曇天 午前7:00
 やや長く中国を掲載していたのでアメリカ編にします。ニューヨーク行きを2度ほど重ねたので、
今度はニューヨークからサンフランシスコの横断をしてやろうと2008年の頃に考えました。片道の距離は約6,000km、使用車両はRV者、予定日数は12日、一日の走行予定は500km、泊まるところはモーテル、野宿も視野、食事は粗食、概算費用は50万円、高い費用は一切NO・GOODの方針、基本は一人旅、残していく家庭の心配はあえてしない、アメリカの家庭や田舎暮らしの環境、流行っているビジネス、庶民の暮らし等をつぶさに見ようの好奇心、季節は秋等の方針を密かに決めました。毎日5時に起きて体力作りを始め、運動後の朝の時間をアメリカの事前調査に充てました。好奇心が先頭に立ち、心配ごとは全く考えない計画でした。
 第一番目の計画になるのは飛行機会社を選ぶことです。どこの飛行機会社が有利か安いかを
色々調べました。明日からは飛行機会社の選定を掲載します。
                  

アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年12月17日火曜日

1991年から2013年の華中(杭州の幽谷深山)・・・26

2013.12.17火 快晴 午前7:00
 杭州の幽谷深山のなかで考えたことは、中国大陸は広い、日本の25倍の面積を持っているのだ。だから、歴史上の有名人が輩出するのだろうと思いました。山にある木々や石を日本と比べても、雲泥の差があります。谷川を覗くと大石の大きさが日本の比でなく、相当に大きいのだ。木々を見ても太くはないが、背が高いのである。やはり、広い土地には大きなものが相応しく、出来てくるのだと考えました。
 単純な発想であるが、大陸を歩くときは日本の25倍の物差しを用意して歩くべきです。距離感や
発想が全て大きい中国大陸です。もちろん大きな人物も沢山いるので、私はその勉強ができるから、絶えず中国やアメリカ大陸に旅行してしまうのです。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
杭州山荘の大きな河原石と轟音を轟かせる渓流

2013年12月16日月曜日

1991年から2013年の華中(風雅な山中の遊び)・・・25

2013.12.16月 快晴 午前7:20
 上海から杭州に至り、そして高い山奥に入り、更に深山幽谷での風雅な遊びと奇妙な経験をした時を記しています。
 初夏、蝉がまだ出ない山中の山荘に泊まりました。山荘の前に日本では見られないような谷川が流れていました。一寸雨が降るとドロローン、ドロローンと奇妙な音を立てて、大水が眼下にある里に流れて行きます。山水は天から流れてくるように見える谷川です。その谷を跨ぐようにせり出ている食堂で夕食を取らされました。谷の下からはドローローンと流音が聞こえてきます。フッと悪い予測をしたら、その田舎中華料理は進まなくなってしまいます。窓から山中の天を仰いで食べるようにしました。正に「頭を上げて食し、頭を垂れて地獄を思う」の感でした。この食堂の写真を掲載します。明日は食事中の俗界を離れた思考を深く記してみます。
                    アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                  
 
杭州深山の谷川を跨いだ恐怖食堂

2013年12月14日土曜日

1991年から2013年の華中(周辺の小旅行)・・・24

2013.12.14土 快晴 午前5:20
 昨日からの続きですが、突然に温かい雨が降り、山荘前の谷川の水嵩が増え、奇妙な音を立て大量の雨水が流れてきました。私は山荘の庭先を、その奇妙な音を立てる原因を見極めたく、獣道みたいな桟道を恐る恐る登って行きました。あたりは真っ暗闇のうえ、崖ぷっちの桟道ですから、強い目的意識を持って登らないと、辿りつけません。五体どころか脳味噌にまで力を入れて、勇気までおまけをつけて登って行きました。奇妙な原因の音は、日本では考えられないような谷川の大きな石の塊りと、極端に曲がる川の流れ、滝壺の多さやその深さの複合的原因のようでした。山荘の庭先まではLED電燈に照らされた街灯でしたから、周りは見えたのですが、桟道から先は遠くなる山荘の明かりが頼り、辺りがだんだん暗くなり不安感が先に立った桟道の冒険となりました。悪いことを考えると悪いことが起きるので、その桟道を登っている時の私は、今までに見たことのない桃源郷が現れるのでないかと、期待に胸を膨らませて登りました。何時も中国を旅しているときは、悪い予感をしません。とんでもない良い期待を持って旅をしています。おかげで、とんでもない悪いことは、今までに起きていません。私はとんでもない目にあったことが無いのです。天の神様に感謝しーます。
 明日は崖ぷっちの食堂を掲載します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

杭州・深山幽谷の天から降りてくる桟道沿いの谷川 2010年初夏

2013年12月13日金曜日

1991年から2013年の華中(周辺の小旅行)・・・23

2013.12.13金 快晴 午前7:00
 数年前の初夏に華中の周辺へ不思議な旅行をしました。場所は杭州の山奥の清流が流れる山荘に泊まり、深山の中での不思議な経験と、一か所だけにあるカラオケハウスで戯れた時の話です。杭州の山奥の細道をどんどん上がり、天まで届く一歩手前の山を背にした山荘に着き、旅装を解いたころに夕闇が寄ってきます。同時にLEDの眩い光が、複数の木々の天から降ってきました。山荘の女性が滝の上にある東屋に夕食をと案内をしてくれました。案内をされるままに東屋に入ると、何と東屋の下は崖で、崖下を見ながらの食事は、不思議な気分、口に運んだ料理は絶品の中華料理の筈ですが、何を食べたかは覚えてないほどの崖ぷっちの場所でした。中国の建築法を信じていないわけではないですが、とてもゆっくりした場所での食事とは言えませんでした。次に、夏の夜の山中はよく雨が降るようです。ザーと大雨が降り、同時に谷川を滑る雨水の音が無気味に聞こえると、同時にドロローン、ドロローンと青白き光の向こうから白装束の何かが出てくるような雰囲気に見舞われてしまいました。この続きはあす以降にします。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・・・照沼重輝



 
人恋しい深山の山荘と崖の上での夕食場所

2013年12月11日水曜日

1991年から2013年までの中国(上海周辺)・・・22

2013.12.11水 快晴 午前7:20
 揚子江沿いの町で南通と無錫、それに蘇州周辺を周ってきました。凄かったのはスモッグで何処にも現れていました。100mから先が見えにくく、自動車の運転は大変でしたが、郁君の運転で無事に商談をこなしてきました。端的にこのスモッグを表現すると、目から涙、喉はひりひりでした。
思うに、中国は何故毎年ながら改善をしないのだろうか。このスモッグを無くす産業が、中国の来年のキーワードかなと思いました。揚子江に架かっている全ての橋の上から見る揚子江の川面
は全く見えません。深い谷底の眺めのようでした。その国の発展と環境汚染は、地球の深刻な問題です。
上海に戻り、美味しい和食を食べたが、昼間に体験したスモッグを思い出したら、「炭小屋の中で味わったような和食の味」でした。興ざめした和食で夕食を済ませ、外に出るといくらかの風で
スモッグは東の日本方面に飛んで行ったようです。中国の友人が「照沼は日本までスモッグを追いかけて行くようだ」と冷やかされました。ブラックジョークは、心に傷を負ってしまいます。次回は
明るい話にしましょうか。
               アメリカ・アジア大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 
                スモッグに泣く太陽と青空と木々・・・南通市

2013年12月6日金曜日

1991年から2013年までの南通市と無錫市の様相・・・21

2013.12.6金 曇り 午前7:30
 11月30日~12月3日間で上海市、南通市、無錫市、蘇州市を商用で廻ってきました。商用の内容はソーラー装置の取引商談です。1991年に行った南通市は一転し工場群になっていました。
無錫市も同じで大きな工業団地があっちこっちにあり、蘇州市も同じしたが、上海市等の工場群は減少傾向のようでした。華中のPM2.5の被害は深刻です。この目で見てきましたが、視界不良、
太陽光は射さず、微粒子が空を泳いでいるのが街灯の光で判別できる状況でした。そのような空の下での人間に元気力はあるわけありません。早くその環境を中国政府は取り除いて欲しいと思います。アジアの空に青空を取り戻しましょう。
             アメリカ・中国馬賊隊・・・照沼重輝

2013年11月30日土曜日

1991年の中国(蘇州・杭州)・・・20

2013.11.30 土 快晴 午前6:20
 今から22年前の中国の蘇州は純然たる観光地であった。外国人が行ける場所も制限されていて、何やら怖い感覚が湧きおこったものです。
 さて、今日からその蘇州市に出張しますが、今の蘇州杭州は観光地+一大産業地に変わっています。ビジネス街には、ベンツやBMW等の高級車が犇めきあい、颯爽とした中国ビジネスマンが闊歩しています。蘇州の揚子江を渡った南通市と揚子江を遡った無錫市に行きます。上海に一泊、無錫に一泊、その時による町に一泊する予定です。日中両国の良いビジネスになるように願っています。今の日本と中国は何やらギスギスしていますが、歴史的に見ればほんの一寸した摩擦程度でないでしょうか。
毛沢東も言ったでしょう。ケンカすれば仲良くなると。大陸のその言葉を信じて、私は中国に行きます。ブログは数日間の休みを取ります。
            アメリカ・中国馬賊隊・・・照沼重輝

2013年11月29日金曜日

1997年のアメリカ(ニューヨークの夜)・・・19

2013.11.29金 快晴 午前7:00
 その当時のニューヨークの夜は賑やか過ぎて、田舎出身の私には面白いと思いませんでした
ので、夜遊びはあまりしませんでした。と言っても、冒険好きな私ですから、マンハッタンの夜をグルグル歩き、多少の刺激を受けようとしたものです。ネオン瞬くというものではなく、ネオンの豪雨と言えば分かりやすいとい思います。そのネオンの豪雨の中を、右往左往しながら夜更けまで彷徨いました。わけのわからない人物から声をかけれます。「・・・だが」「今夜どう・・・」「酔っ払えるよ」「天国があるよ」「・・・は好きかい」「良いバーを知ってるよ」等々です。・・・の部分の理解はお任せします。
 彷徨った後は、ホテルに戻り深夜のテレビを点けて、何時しか眠りに入ります。突然、夜中に目が覚めます。時計を見ると午前2時とか同じく3時の時間帯です。そうすると日本の事とか、父母
のこと、旧友のこと等がボンヤリとした頭に浮かんできます。不思議に家のことは浮かんできませんでした。多分理由は、平平凡凡の家庭だからでしょう。私の家には際立った者がいないので
夢にも出てこないのだと思います。
 私のニューヨークの夜は、アメリカの友人の家でパーテイに参加したり、一寸したバーに友人連れで飲みに行ったりした程度でしたと掲載しておきますが、その後のアメリカ訪問は、とても刺激的で、私の野生感が戻った旅になりました。
 私は明日から中国上海にソーラーの輸入商談で行きます。家内は今日から1週間後に中国広東省で仕事をしている長男の慰問に嫁孫と行きます。
 少々のお休みをください。
         アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年11月25日月曜日

1997年のアメリカ(ニューヨーク周辺)・・・18

2013.11.25月 曇天 午前6:00
 前回はハドソン河の対岸から見たマンハッタンを記しましたが、今回はニューヨークの有名なところを思い出すままに記します。マンハッタンの中央にセントラルパークがありますが、マンハッタン見学時にはこの公園を中心に置くと歩くのが便利です。日本人から見ると広くて、何処まで行くと終わりがあるのとため息をつきそうになります。自由の女神はマンハッタンの南最先端から船に乗り、自由の女神まで行くようになります。東側にはイーストリバーがあり、JFKケネディ空港からマンハッタンに入るのには、この川の橋を跨ぐか地下道を潜るしかありません。マンハッタンの中での名所はエンパイヤ・ステートビル、ロックフェラーセンター、タイムズスクエア、5番街等々沢山ありますが、私は自由の女神をバッテリーパークから眺めるのが大好きです。何故かと言うと、自由の女神を海を跨いで眺められるからです。海を見ていると様々な有益の発想が湧いてくるような気がします。私の生まれた東海村には村松海岸があり、子供のころから海を見て、様々な将来を
夢見たものです。今でも海を見ていると私の少年時代の海を見ていた気持とオーバーラップしてしまいます。ニューヨークに行ったら、是非、皆さんもバッテリーパークからボンヤリと自由の女神を眺めてください。マンハッタンの最南端です。ヨーロッパの風を感じるかもしれませんから。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 
 

2013年11月23日土曜日

1991年の中国(上海の夜)・・・17

2013.11.23土 快晴 午前6:30
 イエスタデイーというパブを起点として、蘇州、杭州、南通等の地域に小旅行をしました。案内人は科学者のヨウ氏や元パイロットのチョウしでした。ヨウ氏は我々に旅の途中で危害が及ばないないように万全なガードをしてくれました。夜の案内はチョウ氏がやってくれました。二人の中国人の
案内で昼間と夜の上海を堪能できました。ありがたく感謝しています。南通市へヒルトンホテルの
ハイヤーを貸し切り行った時の話です。帰途に着き、昼食を取るために街道筋の農民の食堂に入った時の光景です。日本でいえば田ウナギですが、中国でいえばウナギというそうです。農民食堂の裏に回って、その他うなぎを料理するところを見ました。その農民の子供が一生懸命に、田ウナギを我々のために料理をしています。ピカピカ光る包丁で料理がされているのかなと思って覗いたら、何と錆びたハサミと黒っぽい俎板で田ウナギの腹を割いていました。その子供は悪びれずに黙々と田ウナギの腹を裂いています。思わず唖然としたが、ここは上海の田舎と思い、謝謝と礼を言って食堂に戻りました。数分すると、先ほど割かれていた田ウナギが湯気を立て、お皿の上に乗って運ばれてきました。都会人の友人K君は箸が進まないようでしたが、田舎者の私は、先ほどの光景を思い出しながらも、美味い、美味いと念じながら、頑張って食べました。上海の町の100km
ほど手前の無名の村での昼食時の話でした。
 田舎の農民食堂で昼食を取った後の、夕食はヒルトンホテルの最上階で口直しの高級中華料理を食べましたが、この日の旅を形容すると、エレベーターで地下から最上階までイッキに登ったような感覚になりました。
 今回は国際酔客の様態の話と思ったのですが、記しているうちにこの話をしてしまいました。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
揚子江の延長河口

2013年11月21日木曜日

1991年の中国(上海の夜)・・・16

2013.11.21木 快晴 午前6:20
 イエスタデイーというパブ調の店は超人気を維持していました。ところが中国の当時の法規制でカラオケが無い店でした。私がマスターに「どうしてカラオケが無いの」と聞くと、マスターは「カラオケは全部で100万円の費用がかかり、今の収支では購入困難だ」という。それを聞いた私たちは
「100万円を出す、儲かったら返せば良い、利息は不要」と提案をしたら、「100万円を出してくれ、
必ず返済できる」との答えでした。その時から、私は中国人の徳に触れ、中国人は日本人の律儀を重んじる正確に触れたのかな思います。こうして民間日本人と民間中国人の友情が芽生えて行くことになりました。その後に数か月で、全額に利息がついて戻ったことは言うまでもありません。
いらないという利息を無理やり手渡されたが、その利息分全額はイエスタデイーの飲み代に
消えてしまいました。それから今も、イエスタデイーのマスターとママと我々日本人の友情は半永久に続くことになりました。
 上海に行く度、私が店に引率した仲間は、政治家、役人、企業家、サラリーマン、弁護士、会計士等の多彩な人々をこの店に案内をして飲んだものです。その当時の写真が今でも店の壁に貼ってありますが、私が引率した人で、一番の思い出は、息子が上海外語大学へ留学中につれて行き、ママと一緒に杯を上げ、息子を国際的な社会教育?したことでした。笑笑笑
 明日はこの店の国際的酔客の様態を掲載します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年11月19日火曜日

1991年の中国(上海の夜)・・・15

2013.11.19火 快晴 午前7:20
 その当時の上海の昼は雑踏風の賑やかさ、夜はネオン無く、ホテルの純粋なバーで一杯やり、適当に酔いながらベッドに入るほかありませんでした。
 そのような状況でも数件のカフェーができつつありました。ガーデンホテル正門を出て左に曲がり、直ぐに右に曲がり100mを歩くと、左側にイエスタデイーというスタンドバーがありました。ビートルズーやジェムスデーンのポスターが掲げてあり、なかなかのセンスを持った店が立ち上がりました。フランス租界地の洒落た建物の2階の店です。昼はお茶を売り、夜になるとバーになります
が、1.8m前後のママが超美人で超スマート、夫はジェームスデーンのような美男大男、健康的な店で欧州やアメリカや日本の駐在員が屯をしていました。この店のママと夫は私の朋友になり、この店の経営問題にまで介入するような関係になりました。とにかく最高の場所と言ってよい環境の店ですから、客は集まり、何時も座る場所が無いほどの店でしたが、私の中国大陸馬賊の出発点となった店です。
 明日からは、この店を中心として上海を彷徨ったことを記します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
スピード感増幅の上海

2013年11月18日月曜日

1991年の中国(上海の夜)・・・14

2013.11.18月 快晴 午前6:50
 天安門事件が終わって1年過ぎた頃に、中国の友人から誘われて上海に行きました。古真かしい虹橋空港に降り、日系ホテルのガーデンホテルに宿を取りました。上海で目を奪われたのは、人混みと夏の熱風でした。ホテル周辺を一回りしましたが、夜の遊びは無く、人々も人民服に毛が生えたようなお洒落しかしていませんでした。それでも私の探究心は旺盛極まりなく、路地から路地に入り込んで、真っ暗な闇の路地を徘徊しました。当時の上海の田舎のトイレは部屋の中に少なく、外トイレでしたので、真っ暗な路地にしゃがみ込んで動く者があり、目を凝らして見ると用を足している住民だったり、真っ暗な路地裏からは、夕食時などには強烈な油の匂いが漂い、慌てて路地から大通りに出たりしました。
 一寸一杯の酒屋を見つけるのは困難で、一杯やるのは中華料理店かホテルのバーだけでしたので、一寸物足りない上海の夜でしたが、それでもめげなく夜の町と昼の町を徘徊しました。黄浦江の公園、昔競馬場の人民広場、南京路、和平飯店の老ジャズ団、右翼の児玉氏の昔のホテル事務所、犬と中国人は渡るべからずの橋、旧日本軍のスパイ機関の跡地等の歴史に残る名所の全部を観察しました。当時の上海人の多くの目はギラギラと輝き、近代的な文化を貪欲に取り入れようとしていました。昼間は原子力科学者の真面目なヨウ氏の案内でしたから、色々な上海の真面目文化を学び、夜は自らの案内でしたから色々な上海の風俗を発見でき楽しめました。
 明日は上海(shanghai英語の意味では一度入ったら戻れない所)と訳できるそうですが、具体的に
経験したことを掲載していきます。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 

2013年11月17日日曜日

1991年の中国(上海扁)・・・13

2013.11.17 日 快晴 午前6:30
 しばらくぶりのブログになりました。理由はビジネスが忙しく、岡山まで出張をしていました。しばらくブログをしないと一種のストレスに見舞われます。今日は、1991年に再度中国に行った時の出来事を掲載します。
 当時の上海の空港は虹橋空港でした。戦前からの空港で歴史を残していました。町の真ん中にあり、駐車場も狭く、建物の色も古真かしく、飛行場なのに近代的なものは特に見られませんでした。一歩外に出ると、ワーゲンのタクシーと60年代の国産車のタクシーが走っていました。レストランや食堂は、今の上海の景色から見ると嘘のようでした。夜中に腹が減って何かを食べたくなり、
食堂を探すのも大変でしたが、24時間営業で有名な「夜の上海」とヒルトンホテル地下の「エクススプレス」は夜に蠢く紳士と淑女の溜り場で、私も常連の一人でした。そこでは怪しげな商売や
危険な取引の密談が行われていました。夜半1人でお粥等を啜っていると、必ず話をかけられます。商売や闇両替の話、骨とう品の買い手を探す話、何かをお世話する話、日本人が入らない町を案内する話、警察力が及ばない隣町の話、台湾人や香港人の悪さの話等等です。
 冒険者にとっては、上海の町はスリリング、眠くならない町、目が覚醒する町、頭がスッキリする町、野望が生じる町、青春が再復興する町、金と体力があれば何でもできると思える町と思われます。私も大陸の冒険者となって中国大陸を彷徨った歴史ができましたので、明日は上海の夜の冒険を思い出しながら記してみます。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 
寧波の道元が上陸した杭州湾から20km遡上した川港

2013年11月5日火曜日

1997年のアメリカ(ハドソン川対岸のニュージャジー)・・・12

2013.11.5火 快晴 午前7:20
 友人がニューヨークは対岸のニュージャジーから見ると綺麗なんだと連れて行ってくれた。ニューヨークの夜をハドソン川の対岸から見て満喫した。今はもう無いツインタワービル、摩天楼、この世にあるあらゆるネオンを見たような気がした。正に24時間眠らない町のようでした。この町で生活をしていたら私は何をやっていたのかとフッと思った。対岸のレストランで夕食をごちそうになったが、何を食べたかは忘れてしまいました。覚えているのはハドソン川の水面がネオンやマンハッタンの明かりでキラキラとやけに輝いていることだけでした。
 次の日、ハドソン川に浮かぶ航空母艦の上で旧軍人たちのファミリーパーティを拝見できました。
お歳に関係なく、明るく、賑やかで人生を謳歌している老人達を見て、日本人として少々の恥ずかしさ又は反省を感じたことは、可笑しいでしょうか。明日は中国を掲載します。
                アメリカ・中国馬賊隊・・・照沼重輝

2013年11月4日月曜日

1997年のアメリカ(ニューヨーク郊外)・・・11

2013.11.4月 雨 午前7:00
 始めてのアメリカは旅行ガイド無しで歩くほかありませんでした。最初はニューヨークの友人が
あちこち連れて歩いてくれました。その中でも郊外の農場に行った時の話ですが、大きな家に案内をされて入りました。そこにはアメリカ人でなく、日本人が住んでいました。そこではいきなりビジネスの話をされて戸惑い、何が何だか分からない訪問になってしまいました。その農場には大きな畜舎とサイロがあり、アメリカの農家とはこのようになっているのかとしみじみ見渡してしまいました。
家の主人はいなかったのですが、ビジネスの機会での再会を約束して、その家をおいとましました。始めて遭った人でも、アメリカではビジネスチャンスを熱心に話すことに興味を覚えました。その農家に行く途中の美しい湖畔のケーキ屋で、お土産にケーキを買ったことを覚えています。聞くところによると、アメリカの別荘の建築許可は3,000坪以上の面積が無いと建築許可が出ないととのことです。その日本人がいうには「アメリカは民主主義でなく、金欲主義だ」と言っていましたが、私には直ちに理解ができませんでした。アメリカドリームを直接的な日本語にすると、良い意味での金欲かなと理解をしました。大なり小なり、アメリカの「ドル」は世界にとても大きな影響力を持っています。この影響力の源はドルの力でないでしょうか。全世界の人間にとってマネーは永久に不思議なものの一つですね。私も大資本に触れてみたいと念じています。小笑笑笑。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                      ロスの大資本群の風景
               

2013年11月3日日曜日

1997年のアメリカ(マンハッタンからロングアイランドへ)・・・10

2013.11.3日 曇り 午前7:00
 アメリカでの初めての運転はマンハッタンからロングアイランドまでのレンタカーによるドライブでした。ビュイックを借りて怖々とした運転で約往復200kmの運転をしました。無事故無違反でしたが、周囲の環境を楽しむまでには至りませんでした。少しばかりの景色の記憶がありますので
記してみます。
 マンハッタンからロングアイランドに入る道路はローカル道路であるが綺麗に整備されています。日本の道路と違うのは、草木や小動物を保護する道路標識がやたらと立っていたことであります。
巨大な土地を持つアメリカは、日本と比べて全てに余裕があるように見えます。道路の舗装、
公衆トイレ等の共同施設、民間の会社の建物、働いているの人々の表情、自由主義アメリカンドリーム、そこに住む人種のエネルギーは、まさしくパワーの源のように見えました。そして、その土地や海に住んでいる生き物は日本に比べて数割増しの大きさです。人でも牛でも魚でも大きかったです。何もかも大きい国の夢もけた外れに大きいようですから、全て小づくりの日本人は心してアメリカと向き合う必要があると思いました。
 
             
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

                 
空の大きさと大きな景色に広い道路

2013年10月30日水曜日

1987年の中国(上海の夜)・・・9

2013.10.30 水 雨 午前7:30
 始めての上海とその夜の旅は、無味乾燥の旅にならないように町にスリルを求めて彷徨した。
赤いネオンを探して彷徨っていると、遠くに幽かに小さい赤い灯篭のようなランプを見た。流行る気持ちを抑えてそこに向かう。その途中で僅かに資本主義の兆しを発見した。それは高いビルの谷間の暗闇で蠢いている怪しい人を見た。何かと思い、そこに近ずくとバタバタと本らしいものを大袋に詰め込む慌てる人がいた。私はまだ残っている本を手に取り、その本らしいものを暗闇でよく見た。何とそれは色本の類であった。私は相手に思わず「ノープロブレム」と叫び「ハウーマッチ」と言ってしまった。相手は「・・・・・・」と言ったが、当時の私には中国語は理解できないので「ソリー」と言い、その場から退出した。赤いネオンは餃子屋さんで、私の僅かな上海ロマンは儚く消滅してしまった。始めての上海の感想は、夜は暗闇の町、昼は悪臭の町でした。それからの上海の大発展は全世界の人が認めています。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年10月29日火曜日

1987年の中国(上海虹橋空港から市内へ向かう)・・・8

2013.10.29火 快晴 午前7:00
 この年、日中友好協会会長のカバン持ちで北京と上海に行きました。北京の空港は日本の田中総理が国交回復で降り立った当時のままの様相でした。同じく上海の虹橋空港も暗く、何とも言えない共産圏の空港の様相でした。飛行機が滑走路に着いてから到着ロビーに出るまでは、何があるのだろうかとキョロキョロを繰り返しながら、荷物の受け取り台まで行き、私はホッとして、煙草をくわえた瞬間に、ポンポンと背を叩かれ女性の係員に罰金を取られました。煙草好きの中国人に煙草吸いの罰金を取られるなんて、なんて恥ずかしいことをしてしまったのかと、恥ずかしい思いをしたことを思い出しています。
 日本製か中国製か分からないマイクロバスで虹橋空港から上海に入る道路は暗く、シーンとして、まるで深夜のような様相でしたが、町の中心に入ると明りがややや多くなり、ホッとした気持ちになりました。ホテルは戦前からある上海ホテルで、部屋に入るとそれなりの部屋でしたが、ホテルの係員を見ると共産圏の公務員風で、何も頼めない雰囲気がありました。公務員風から、明日は早朝4:00起き、蘇州行きの列車は5:30発で行き先の距離は100kmくらい、蘇州着は7:30ごろと言われ、距離と走行時間が合わないなと感じましたが、共産圏では言われるままにする他ないと思い、それに従って寝る他ない旅をしました。次回は蘇州から無錫の旅を掲載します。
                   アメリカ・中国馬賊隊・・・照沼重輝

                  

      上海の沖合50kmの島に作られた中国最大の貿易港・船の先が日本列島方面

2013年10月27日日曜日

1988年の中国(北京での晩餐会の席で)・・・7

2013.10.28(日)台風一過快晴 午前10:30
 1988年日中友好協会会長のカバン持ちで北京に行きました。円卓テーブルを囲んで夕食会になった時の話です。場所は北京ダッグで有名な店でした。川津子之吉茨城県日中友好協会会長の隣の席に日中国交回復で活躍した孫平化中日友好協会会長、同じ協会の副会長や事務長などの役員が座り、私もこのテーブルに茨城県日中友好協会事務局長として着いていました。日本と中国の政治問題や過去の戦争などの話が出てワイワイと賑やかでした。孫平化会長が私に、
「日本はどうして戦争に負けたのかな」と質問を浴びせてきました。当時の私は、過去の政治や戦争に興味が無いので回答に、咄嗟に困りました。何故、中国政府の大物がこのような質問を31歳の私にしたのか等とも考えませんでしたが、私は「日本の正義と中国の正義の戦いでしたから
より大きな正義が勝ったのかもしれない」とやっと答えました。孫平化会長は反論もせず、「フム」と
いった怪訝な表情をしただけでした。それから34年、このときの同席した役員は中国政府の重要人物に出世し、外交部長や中日友好協会の役員にまでなっています。それに比較し私は、
アメリカの縦横断や中国の冒険等を楽しんでいる平凡な日本国民です。しかし、身はアメリカや
中国にあっても、日本国民としての矜持を維持しています。中国人やアメリカア人とビジネスの対峙をしても遜色ないように頑張っています。笑。
クリントン大統領を水戸に向かえた時の隣席で二度とない名誉でした

2013年10月26日土曜日

1997年のアメリカ(ニューヨーク)・・・6

2013年10月26日土 雨 午前7:30
 鍵がかかったままでエンジンがかかっている車を見ているのは健康上極めて悪い。交通整理の
警官や野次馬、何とかしてやろうとするニューヨーク子等が車を取り巻く。茫然とする私、下手な英語ですみませんの連発しか無い状態である。パトカーが通りかかった。頼もしそうな警官が来て
「道具が無い」と呟く。頼もしそうな警官が駄目だというので、更に落胆する私。近くのガソリンスタンドの店員が道具を持って来てくれた。窓の隙間から物差板みたいな物を入れて簡単に開けてくれた」感激、思わずチップをはずんでしまった。おまけに警官にまで寸志をはずんでしまった。
 アメリカでは経験のないアクシデントがよく起きます。安く処理ができる場合と高い処理費用が
かかる場合があります。そういう場合は、誰にでも沈着冷静に近くの人に援軍を求めるのが最善です。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
ワシントンンに彷徨う

2013年10月25日金曜日

1997年のアメリカ(ニューヨーク)・・・5

2013.10.25金 雨 午前5:40
 ニューヨークマンハッタンのひとどおりの見学が終わりホッとした時、ブロンクスの坂の途中で珍しいビルを見たので、慌てて車を止め、エンジンをかけたままで車外に出てしまった。このことは
日本では何でもないが、アメリカでは車に関する間抜けの金のかかる出来ごとになってしまいます。アメリカのちょとした車は、エンジンがかかったまま社外に出ると自動ロックされ、自らではどうしようもないことになってしまいます。車の外からエンジンがかかったままの車を冷や汗をかきながら見ているほかないのは、精神健康上に極めて悪い出来ごとになってしまいます。車はブルンブルン震えながら、早く窓を開けてエンジンを切ってくれと泣いているように見え、鍵屋かレスキューを呼ぶほか無い状態が続きます。その時のリカバリーは、道路に立ってパトカーを待つか、近くの
ガソリンスタンドに行って、窓を開ける手配を頼むほかありません。冷や汗をかく精神状態の良くない時間が続きます。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年10月24日木曜日

1997年のアメリカ(ニューヨーク)・・・4

2013.10.24 木 曇天 午前7:20
 テロに爆破されたツインタワービルの下で弁当を食べていたことがあります。レントした車の中で
駐車違反を警戒しながら食べていました。案の定、駐車違反専門の警官が来て「ノーパーキング」
と叫び、私に移動するように指示をしてきました。私は「ソリー・ソリー」と言いながら車をスタート
し、隣のブロックまで行って車を止めて、食べ残した弁当をゆっくり頂きましたが、駐車した車の場所は、先ほどのツインタワービルの景観より悪くなり、景色など見ないで食べる方が良い場所になってしまいました。とにかく、ニューヨークでは交通違反をしたら100ドルは取られてしまうので要注意との思い出があります。
 もう一つ、16年前のニューヨークで車に関しての大きなアクシデンンとがあったので明日に掲載します。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年10月22日火曜日

1997年のアメリカ(ニューヨーク)・・・3

2013.10.22火 雨 午前6:50
 初めてアメリカに行ったのは1997年の5月でした。ニューヨークでコンビニを経営する日本人を訪ねて行きました。空港からタクシーに乗り、マンハッタンのシェラトンホテルに予約を入れておいたので行ったところ、予約は無いと言われ困った経験があります。それでも何とかシェラトンに泊まったのですが、色々な困ったことがありました。食事、交通等の身近な問題で困りました。マンハッタのホテルは当時でも一泊が3万円前後、タクシーはチャーターすると午前中で2万円程度でお金をまき散らかさないとニューヨークでは行動できませんでした。後で分かったのですが、観光ルートで動くとバカ高いコストがかかるわけです。友人から高いホテルは止めてモーテルに移るように勧められ、ロングアイランドのモーテルに泊まったところ1万円前後で泊まれました。しかし、このモーテルも高いほうで隣のニュージャー州に入れば6千円前後のモーテルで泊まれることなども更に後で分かりました。
 次にタクシーが高いのでレンタカーを友人に勧められ、ハーツレンタカーに行き車を調達しました。ビゥックという車を借りて、ロングアイランドの最先端まで運転の練習をかねて200kmのドライブをしました。何処までも続く砂浜とニューヨークの高級別荘地、途中に鮫の映画で有名なジョーンズビーチがある所です。空を飛ぶ鴨は日本より大きく、海に泳ぐ魚も日本より大きく、何もかも
日本の1.5倍の大きさです。土地が大きいと人間も大きくなり、生物や植物も大きくなる傾向が
あるのかなと単純な感動を受けました。続きは明日にします。

                
              ネオン無し、山ありの安めの郊外モーテルで早朝に撮影
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年10月21日月曜日

1987年当時の中国旅行(香港)・・・2

2013.10.21月 快晴だが台風到来前 午前6:40
 

 40年前の1966年に初めて海外に行った。職場の友達とはしゃぎながらの香港でしたが、私にとっては初めての海外でした。今でも覚えているが、飛行機が香港市内の空港に着陸する瞬間は、あーこれが海外かと感動しました。日清製粉のチャルメラーメンの大きな看板が空港のどこかに掲げられていましたことが今でも記憶にあります。空港からホテルに入る道筋に派手な看板が煌き、ホテルやその周辺は欧米人の金持ちのように見える外国人で一杯でした。ガイドがついた
ワンパターンの旅行でしたが、私にとっては初めての海外旅行でしたから満足でした。行くまでに
中国全土の地図は全く見なかったので、香港がアジアのどの位置に属するのかな等とは考える暇もありませんでした。とにかく、この旅行が安全で、しかも楽しく終わったことが、簡単に海外旅行は
出来るんだとの自信を得ました。
 この香港行きは、私の好奇心を加速させました。これが私の40年に渡る海外大陸を彷徨う出発点となりました。
 明日はアメリカ旅行の出発点を掲載します。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
昔、道元禅師が留学で上陸した寧波の港(最近写)
昔の旅支度の中国人の銅像
 

2013年10月20日日曜日

アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・1

2013.10.20 日 曇天 午前8:20
 今までに色々なタイトルを掲げて掲載をしてきました。アメリカの縦横断を8回重ねたり、中国に200回以上の渡航歴を重ねたりもしましたが、掲載する記事は主にドライブ旅行だけでした。これでは一定の範囲だけで、読者の皆様の役に立たないことに気がつきましたので、明日からはタイトルを変えて掲載する内容に変化をつけてみようと思っています。掲載の順序もアメリカと中国を
交互に掲載して楽しもう思っています。そして、その旅の中から、一度も事故に遭わない人間の人間力の研究?などもしようかなと思っています。研究者でない私の観察力はありませんが、素人力だけでこのテーマを乗り越えてみようと思います。
 何故、馬賊隊なのかは無鉄砲的な旅行を重ねてきたから、その「行き当たり・ばったり・土壇場の
突破力」だけを頼りとしている者に相応しいとネーム考えたからです。
 
 最初の中国上陸は1987年で最初のアメリカ上陸は1993年でした。両国の第一印象は、「アメリカは煌めきながら繁栄中、中国は文革後の暗闇が続いてるが、一筋の光が見いだされ始まった国」でした。これらの両国を交互に掲載しますので、ご笑読頂けば嬉しく思います。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
アメリカぺブルビーチゴルフ場と別荘2013.9.15