2014年12月31日水曜日

2014年までの中国(吉林省の遺棄爆弾)・・・150

2014.12.31水 曇り 午後11:00       149回・・・休番
  今年が終わりになり、新しい年が間もなく来る。あまり寒くない夜になってきた。星が二つ三つ出ていた。どこかで焚火をした匂いが我が家まで漂ってくる。外に出てみたが、四方八方を見渡したが炎は目に入らなかった。私の住んでいる原子力村でも太古の焼き畑の匂いを時々嗅げる。
  我が村には、原子力、原発、核燃料再処理等原子力に関する機構が何でもある村なのだ。私が
8歳のころに原子力に関する施設の建設が始まった。あれよあれという間に原子力に関する全ての施設が出来上がった。原子力の平和利用は大歓迎だが、原子力事故を心配しながらの生活も
何かと煩わしい。そのような心配をしながらもこの村で66年生きてきてしまった。あと30分で新年になる。来年は原子力被災事故が無い対策万全の村になって欲しい期待を持ちながら新年を迎えます。
    私の友人や取引先関係者様、所員皆様の平和と発展を祈念して、今年最後のご挨拶とさせていただきます。今年はありがとうございました。皆様良いお年をお迎えください。拝
                                      アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年までの中国(吉林省の遺棄爆弾)・・・148

2014.12.31金 曇り  午後10:30
  今年最後のブログとなります。吉林省の最高幹部役人と協議に入った。NATO軍仕様核シェルターを吉林省が日本に要望する。そうすると、日本国は我々が売り込んでいる機材を購入することになり、その機材を吉林省に提供する。その輸出金の利益は吉林省と我々が受け取りイラク方面の輸出事業に資本投下する。このような話を相手方に説明をしたところ、乗ってきてくれた態度を
とってくれた。しかし、ここまでの状況にするのに、私の心臓は早鐘、顔は蒼白、いわゆる放心状態
を乗り越えてからの状況である。しかし、推奨する機材を日本政府に買ってもらわなくてはならない。立ちはだかる強敵はアメリカ軍仕様のものだが、何よりも日本政府とこの事業をコンサルをしている世界を股にかけている有名なこんサルタント会社に売り込まなくてはならない。日本本社の
コンサルタント会社であるが、横に広く、縦に深い内外の相当数の人材を揃えている実力十分の会社である。我々は匍匐前進作戦で行くほかない。いわゆるゲリラ作戦で売り込んでいくことにしたのである。
                                                         アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年12月30日火曜日

2014年までの中国(吉林省の遺棄爆弾)・・・147

2014.12.30火 快晴 午前7:20
  「 中国へ寄付をしに来たわけでありません」そして、「寄付どころかNATO軍仕様の核シェルターを買ってもらいに来たのです」と一気に説明をした。それから、このようになったミスの原因を説明をした。相手方幹部の副省長は「君たちが上海に入った時から、この寄付行為の誤りに気づいて
いました」と言った。私はこの瞬間、体と頭の力が無くなったのである。その時の私の顔は、一転の曇りもない、笑顔になってしまった。そして、図々しい提案をしてしまったのである。その提案とは、イラクがクエートに進行し、アメリカ軍がイラク相手に戦いをしている最中にあった。つまり、
NATO軍使用の核シェルターを日中共同でイラクに売り込もうという目論みである。売り込んで得た資金で次のビジネスを展開しましょうという提案をした。その当時の中国は、外国資本を積極的に導入せよとの国家政策が中央から出ていたので話が分かりやすかった。その話に相手方が引っ込みがつかないので飛びついたのか、乗ったのか、分からないが話がその方向に進んだのである。
                                           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年12月26日金曜日

2014年までの中国(吉林省の遺棄爆弾)・・・196

2014.12.26金  快晴 午前6:45
   テーブルの真ん中に座った私は覚悟をした。両サイドにいる日本人に意見を求めても発言しない
だろうと考えた。そうなると頼りは私だけとなる。ここは腹を決めて、仲間は誰もいないと考えたほうがよさそうだ。両サイドに相槌を求めても無理な仲間であった。私は副省長の目を見て話を始めた。「この話のミスの原因は日本語に不慣れな通訳が原因となった」「たいへんすみません」と口火を切った。相手は「数十億円の遺棄処理設備を寄付するという話は変だと思ったが、信頼できる同胞からの話であったので信用した」と言った。私の心臓の鼓動は最高潮に達している。信頼できる
同胞というのは、中国政府のアメリカロビースト筋からの話であった。周囲には吉林省の役人と
取材記者等を含めて10人を超える人がいる。日本人としてぶざまな言い訳や態度はしたくない、それに私の心の中には、この危機を次のチャンスにしたいと思う考えがで始めていた。相手方の幹部の目と私の目が数秒間合わせた間に、次のステージへ行く話をしようとの合意ができたと感じた。私は言い訳や弁解は極めて嫌いな性格であるから、早くこの場を改変させて次の話をしようと
考えていた。
                                             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年12月22日月曜日

2014年までの中国(吉林省の遺棄爆弾)・・・195

2014.12.22月 快晴  午前7:00
  私は赤い絨毯の前を前に進んだ。後ろから友人は来ているかどうかは見る余裕はなかった。幹部とわかる大きい男が近寄ってきた。私は「ニーハオ」と言い「トイブチ」「トイプチ」と連発をした。
大きい手がでて相手は握手を求めてきた。私も手を差し出した。相手は右手であちらに行こうと
指をさした。その方を見ると、黒塗りの高級車が数台停まっていた。数人のマスコミも来ていたが、
インタビューは無かった。記者の顔を観察する余裕はなく、促されるままに車に向かい、後部座席に乗らされた。さてどこに連行されるのか考えたが、道中の景色を見る余裕は無かった。途中で
監禁に相応しい建物が見えたりすると心の不安が増した。やがて、省庁の一部の建物らしいところに行き着いた。ドアが開けられ地面を踏んだ。その瞬間、私たちは大丈夫だと希望を持てた。この建物は公のものである。その中でのリンチや強要されるようなことは無いだろうと考えた。会議室のようなところに向かった。中に入り長テーブルを挟んで向かい合った。名刺の交換をして、副省長が出席していることが分かった。私はあらためてその人物に敬意を表する目で相手を見た。
私は覚悟ができるようにテーブルの真ん中に座った。
                                               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年12月18日木曜日

2014年までの中国(吉林省の遺棄爆弾)・・・194

2014.12.18木 快晴 午前7:00
   飛行機は長春の飛行場に着いた。同行したなかで誰も一番先に飛行機を降りようとしない。それはそうだ。何が待ち受けているか分からないのだから。私は意を決して一番先に降りようとした。
通路の窓から外を見た。タラップを降りたところから、赤絨毯が敷いてあるのが見えた。その先には、省の偉いような人が先頭に立ち、周囲に遺棄爆弾の係官が数人待ち受けているように見えた。私は竦んだ足を前に出し、タラップの先頭に立ち、一番先に降りた。その前には、カメラマンや
テレビカメラマンが私たちを写すために、並んで身構えていた。私の顔に表情は無い、こわばっていた顔にしか表情はできなかった。私は更に前に進み、一番偉い人の前に立ち、赤絨毯の前で
靴を履いたままで正座をした。もう私の腹はすわっていたので、目に不安の表情は無く、全ての
周囲を見渡す余裕ができていた。私たちを待っていたのは10人くらいであった。長春の飛行場は
寒々感と荒涼感が同居した飛行場のように見えた。遠くに見える山脈の向こう側は北朝鮮の領地
のようだ。最大の困難が待ち受けているのに相応しい地に見えた。なにがあっても相手は人間だ。
山より大きい化け物は無いと心に言い聞かせ、私は春の寒い風を身に纏い、目を皿のようにし
前に進んだ。
                                                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年12月12日金曜日

2014年までの中国(吉林省の遺棄爆弾)・・・193

2014.12.12金 曇天 午前5:15
  その飛行機は二十人乗りくらいの超小型飛行機であった。上海から長春まで二三時間くらいかかるようであるが、この小型飛行機で行くのかなと思ったら、不安感がドーッと襲ってきた。しかし、行かなくてはならないので搭乗した。一気に上空に達し、周囲が青空だけの世界になった。全然揺れないないのだ。超小型飛行機は我々に快適な空の旅を提供してくれた。ジェット小型機は成層圏を
飛んでいるので揺れないのだ。私は行く先の不安感を一時忘れて、空の旅を楽しむほかないと考え、下界を見下ろしてみた。期待は太平洋の海岸線を飛んでいるようだ。揚子江沿いから東に機首を向けて飛んでいた。一時間も飛ぶと青島上空あたりに来た。蒼い海、蒼い木々の間に茶肌の
荒荒らしい地べたが見えた。世界地図で見たような地形が見える。多分に昔は斉の国と言われた
ところだ。やがて下界は青島から煙台のあたりになった。あと一時間半で吉林省の長春に着く地点と思われる。長春の飛行場では、どのような仕草で詫びるか考えると、一瞬で頭が熱くなった。嫌なことを思い出してしまった。途端に下の下界がボヤーとしか見えなくなってしまった。明日はいよいよ長春の飛行場での出来事を記します。
                                               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年12月9日火曜日

2014年までの中国(吉林省の遺棄爆弾)・・・192

2014.12.9 火  晴  午前6:45  霜が真っ白に立っている
  上海のホテルで目を覚ました。直ぐに頭に浮かんだのは、吉林省に向かうことであったが、吉林省長春では恐ろしい目に会うことになるのか、希望で顔が明るくなるのか、冷や汗をかいて、その場を逃げ去ることになるのか、様々な光景が頭に浮かんだ。ここ数十年で一番不快な朝であった。
  他の関係者は上海で待っているという。私は1人で長春に向かい、その役所の関係者に、詫びる
義務を進んで負ったのである。ヘヤの荷物をまとめ、チヘックアウトのためにフロントロビーに降りた。その時であった。後ろから「俺たちも行く」とグループ6人のうち3人がついてきた。私は「いいよ」さりげなく答えた。私にとっては拍子抜けである。私は長春では覚悟をしていたのである。どんな目に会ってもいいと思っていた。この覚悟をしたときは、私の心は鉄の決意であった。朝から拍子抜けである。彼らは恥ずかしげについてきた。私は拍子抜けで憮然としながらも、彼らと上海浦東空港に向かった。タクシー内では誰も口をきかない。そのままの雰囲気で搭乗手続きを過ぎて経て、搭乗口に向かった。飛行機を見た瞬間に誰もゾーッとした不吉感を感じて唖然とした。
                                                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
  
 
  

2014年12月1日月曜日

2014年までの中国(吉林省の遺棄爆弾)・・・191

2014.12.1月 雨 午前6:40
  私は次のように宣言した。「俺が吉林省に1人で行く、この間違いを土下座して詫びる、後はどうにかなる」そうしたら、全員が喜んでしまった。みんなは危ない橋を渡らないですむので、思わず喜んでしまったのだろう。中国北方人がいくら気性が激しくとも、いきなり、メンツを傷つけたからといって、片手を取られたり、リンチを受けたりしないであろう。それに、私は中国に昔からあることわざで、「胸元に入った鳥は殺さない」を思い出していた。少なくとも抹殺やリンチ等は受けないと読んだ。男なら行って自分たちの非礼を正面から詫びるべきだと考えたのである。生まれて初めての
恥ずかしさを持ちながらのお詫びをしようとの結論に至った。親にも正式なお詫びをしなかったのだから、このような100%敗北のお詫びは清々とする。価値あるお詫びと考えてしまった。
   明日は1人で長春に行くことになった。お詫びの言葉と方法を考えると、その夜は寝つきが悪く、眠りについたのは未明であった。
                                          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年11月24日月曜日

2014年までの中国 (吉林省の遺棄爆弾)・・・190

2014.11.28 金 曇天  午前7:00
   顔は青ざめた。説明によると、未熟な通訳によって次のように吉林省現地へ説明がされていた。
「日本人有志が遺棄爆弾処理装置の数十億円を吉林省に寄付する」・・・誤通訳、正しくは
「日本政府の援助する遺棄爆弾処理装置について、特定のメーカーを指名してもらい、日本の会社が貴省に訪問して各種の相談をしたい」・・・正通訳
  現地の役人は誤通訳のとおりに理解をしてしまった。吉林省の役人の言うには、日本人が来る当日に長春の飛行場には、省の副省長と新聞社やテレビ局を置き、飛行機から建物の奥に入るまで
赤絨毯を敷いておくと言い、吉林省を挙げて歓迎したいと言っているとなってしまった。
   吉林省の訪問日の前夜に、上海で聞かされた話である。これで顔が蒼ざめた。アメリカから来た人も、日本から勇んで行った人も、上海で会合に加わった上海スタッフも全員が上海料理を目の前にして蒼ざめた。
  上海スタッフは、中国の北方の人は怖いから行かないほうが良いと言う。吉林省の高級役人を騙してしまったので、彼らのメンツを傷つけてしまった。この代償はなにをされるか分からない。だから行くなと言う。一緒に来た日本人全員は既に立ちすくんでいる。通訳でついてきた彼女は、黙りこくなってしまった。アメリカ人は喚いている。通訳は吉林省の役人と電話で話をしている。私はある決断をして、全員の前で立ちあがり、次のように意見を述べた。その意見は明日から記します。
                                                    アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年までのアメリカ(吉林省の遺棄爆弾)・189

2014.11.24火 快晴 午前9:50
  遺棄爆弾処理装置の一部を売ろうと動いた。先ずやったことは、中国大陸の人脈探しと日本にいる中国人への通訳頼みであった。在日本中国人は元中国公安の菊「仮名」という女性を選んだ。日本語は堪能でないが、一通りの話ができて中国役人の心情が理解している中国人である。その菊を通じてアメリカに住んでいる中国ロビーストの手を借りようと目論んだ。次に、吉林省政府への働きかけは、菊を通じて進行させた。
   某 年某月某日全ての準備が揃ったと思い、日本から日本人3人、中国人1人、アメリカから中国人ロビースト1人、私の上海の特別チーム2人が上海のホテルに参集した。合計7人の会議を上海のホテルの中華料理店で、事前の打ち合わせを始めた。本商談のリーダー格の私が口火を切った。冒頭に中国語で「辛苦了」、英語で「サンキュウ―サー」、日本語で「皆様ご苦労様です」と言った。その後の通訳は、上海人1人と在日中国人の菊が交互に行った。そこに、昨日までの事前調査内容を上海通訳から発表させた。この発言で全員が氷ついてしまった。明日に続く。
                                                   アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・・・照沼重輝

2014年11月22日土曜日

2014年までの中国(長春)・・・188

2014.11.22土  快晴  午前7:00
私のとっておきの話、
  長春には一度行った。それも第二次世界大戦で日本軍が遺棄した毒ガス爆弾を処理するお手伝いであった。長くなる話であるが、画面の許す限り記してみます。
  ノルウエィー国にある軍需物資会社の代理店が東京にあった。主に日本では官公庁相手に医療品等を売っている会社ですが、「・・・・エイシア」と言いました。その会社の依頼で爆弾処理装置の
一部のセットを吉林省のトップに会って、吉林省政府に売り込んでくれるかと言う話であった。その
装置はNATO軍使用のものであるから、性能は保証されるということである。競争相手はUS軍
使用品を扱うアメリカの・・・・・という会社であるとのことであった。NATO軍使用品とアメリカ軍使用品の競争となった。その装置と言うのは、毒ガス爆弾を処理中に事故が起き、毒ガスが発生した
時に逃げ込む「核シェルター」である。そのシェルターの中には、生活できるスペースと医療処理をするスペース等を備えた大型の装置が備わっている。1セットが5億円もする装置であった。全体のビジネス総額は100億円になる商談であった。
   超大型のでっち上げのビジネス話ではない。小渕総理の訪中時に取り交わした文書までがコピーされていた。確かに文書を見ると、正式なものであった。さて、このビッグビジネスをどのように
釣り上げていくが思案した。中国要人とのコネはあるが、広い大陸なのでどのような競争相手が
出るのか想像もつかない話である。アメリカ軍とのコネは見当たらないので、NATO軍仕様品を
全面的に売り込む計画で進めた。先ず、何をしたかの掲載は明日以降にします。
                                          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年11月17日月曜日

2014年までの中国(泰山)・・・187

2014.11.17月 晴れ  午前6:50
  泰山を調べていますが、知ったところを記します。封禅の儀式の場所が泰山と言われています。
山頂には人間の寿命定数を記録した原簿に相当する帳簿が置かれているという信仰が存在していた。漢の武帝が建てたといわれる「無字碑」や唐の玄宗皇帝が彫らせた封禅の碑文がある。
有名なところは秦の始皇帝が行幸のおりに泰山に残した李斯の碑文がある。泰山の標高は
1500mで歩いて登れば3時間はかかるといわれている。
  私はこの山に登ったことがなく、どこの山でも山登りは好まないので下から眺めることが多かった。でも何時しか行ってみたい山である。
 来年は弘法大師が留学で辿った中国の大陸を歩こうかなと考えている。
                                                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・・照沼重輝
  

2014年11月15日土曜日

2014年までの中国(済南)・・・186

2014.11.15(土)晴・・・午前5:30
  昔、上海から済南に飛んだことがあり、現地ではトラックボデーの組み立てに関係した。空港に迎えに来た人から、ここには泰山があるので、仕事帰りに寄ったらどうかと提案された。泰山は中国の歴代皇帝が天の神様に政治報告をする山だそうだ。興味はあったが寄らずじまいで終わった。
明日からはその泰山を調べて記しますが、あまり面白くなかたっら直ぐにやめます。
                                          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年11月8日土曜日

2014年までの中国(山東半島の煙台)・・・195

2014.11.8土 曇り 午前6:45
  日本の浦島太郎の話があるのが煙台である。何年か前に飛行機の中で中国人から聞いた話であったが行ったので実現した。確かに、海の前の看板に浦島太郎と同じ物語の看板が立っていた。花咲じじいの話も江蘇省の無錫で聞いた。そうすると、これらの日本の話は中国での昔話で
あったのかなと思うようになった。
                                                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 

2014年10月23日木曜日

2014年までの中国(上海から他省へ飛ぶ)・・・194

2014.10.29水 晴  午前6:30
   中国渡航暦は200回以上、延べ1200日以上滞在し、往復4000kmで往復の飛んだ距離は80万kmになるはずである。滞在した町は上海、長春、大連、煙台、威海、済南、青島、北京、大原、西安、合肥、南通、南京、常州、無錫、蘇州、杭州、寧波、舟山、台州、福州、泉州、厦門、広州、深セン、海口、三亜等多数である。
   それぞれの町の思い出を記していくつもりですが、たいした思い出のない町は過ぎていきます。
北の順から思い出して記します。先ず大連、旅順、長春の町について、順追って思い出します。
大連に行った理由は、民間交流と商用ですが、多いのは商用です。成田を出て3時間で大連に着きます。飛行機から海と陸地が交互に見えてくると、まもなく大連の飛行場です。左右に高級マンションが林立した港町が大連の町です。飛行機を降り、都市中心に入るのは、約30分で入れます。上海より豪華な感じのする町ですが、町の幅と量は上海より劣ります。しかし、なんとなく日本人が好きになるような町と言えます。それもそのはずで、昔は日本人が多数住んでいた町です。
   大連港と大連駅は広大な中国大陸の東の玄関です。この町にはロシア語が多く見受けますの
で異国情緒豊かな町です。大連駅の真前にラマダホテルがあり、日本人が支配人をしていますので、泊まるのに安心感があります。このホテルの南側に広場があり、深夜まで地元民や旅人で賑わっています。ホテルの後ろ側には飲食店が犇めいていて、夜中に出かけるのに好都合です。
大連駅前の広場を夜半に観察をすると、旅人や夜更かし組で賑わい、夢や野望を持った若者が
何かのチャンスを捉えようとして、目を輝かして待っています。その広場の真横に海産物を売る
小店があり、値切りを交渉しながら買うのは面白かったです。その小店の後ろ側に、スイス系の
立派なホテルと豪華な飲食店等が犇めいています。その飲食店に清朝時代の模倣店があり、
飲食をしたことがありますが、昔の風情を楽しめました。何やら見たことのない家の内装は、
果てしない異国の情緒が漂っていました。大陸の旅をしていると、思わぬ場面に遭遇をして
ぼんやりとした異国の梦を経験できます。これが大陸を旅する特別な味であり、止むに止まない
大陸放浪です。日本の青年よ、大陸を歩こう、それが日本のためになると信じる。
                                                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
中国の避暑地、足下は地獄行きの激流、上は山海の飽食珍味
 

2014年10月21日火曜日

2014年までのアメリカ(ダラスとケネデイ終焉)・・・193

2014.10.21(火)雨 午前7:00
  ダラスのケネデイ暗殺の場所は、映画で見るような暗殺に便利な地であった。メーンストリートの
パレードを終えたケネデイの車は、ヘヤピーンカーブを曲がり、ハイウエイーに出るまでのゆっくり
走る道路上にあった。オズワルドはスコープ付きの銃で簡単に的を得られる距離で引き金を引いた。三発の銃声が響いた。仰け反る大統領、パニックに襲われる夫人、オープンカーの背にもたれる大統領、後部座敷の上でオロオロする夫人、急停車するオープンカー、当時の現状が生々しく
よみがえってきた。高校生の時に見た白黒のテレビの画面が頭の中に再現された。
  第三次世界大戦が始まってしまうのか、世界動乱が始まるのか、当時の私の頭では予測できない不安に襲われた記憶が蘇ってきた。それから50年が経った。そして、その50年前の現場に
立つことができた。嬉しく思うがその経た時間が忌々しかった。
    思うに、どんなパニックが起きても、人々はそれを乗り越える力を得る他ないのである。そのようなことを思い出して、ケネデイ終焉の地を後にした。何時しか再度この地に来てみたいと思い、
頭の中に景色を刻んだ。
                                           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年10月15日水曜日

2014年までのアメリカ(ダラスケネデイ終焉の地)・・・192

2014.10.15水 快晴 午前7:00
  ダラスに入った私は直ちにケネデイ終焉の地に行った。場所はすぐ分かった。観光客がぞろぞろそちらに向かっていた。テキサス教科書倉庫、ユーターンカーブ、観光客が指をさして騒めいていた。道路には三発の銃弾のマークが赤色で記され、観光客の目線がそちらに向かっていた。ダラスのメーンストリートからヘヤピーンカーブに入り、なだらかな坂道を下り始めた時、右側80メートルのレンガ建ての6階から三発の銃弾を浴びせたのは、アメリカ人オズワルドであった。ケネイデイの車は減速進行中であり、スコープ付きのライフルを持つ彼にとっては、ケネデイの的は比較的楽な的であった。50年前の宇宙放送テレビで見たあの瞬間の場所が目の前にあった。私は教科書会館から被弾した場所、ユータンした三角地点を行ったり来たりして、当時の白黒のテレビの場面を思い出していた。
                                                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年10月13日月曜日

2014年までのアメリカ(ダラス市の前でタイフーンと遭遇)・・・191

2014.10.14月火 台風  午前7:00
  週末ごとに台風が起こり、日本を襲撃しているが、被害は我が地区に及んでいない。だが他所の地区はどうであろうか。心配ではある。アメリカ行きは全部で9回であるが、まともにタイフーンに出会ったことはない。非常にラッキーであったが、物足りない等の欲心はある。タイフーンが去った後のアメリカ大地を疾走したことはあり、その時には、さもタイフーンに出会ったような気持ちになったことはある。時刻は夕刻、大空に雷鳴が轟き、高速の左右の大木は風で大揺れ、雨粒大きく視界はゼロに等しく、ハイウエーの傍らには避難しているトラックや乗用車、私も車を止めて道路傍で非難をしていた。雨水が大河のように道路側溝を流れてきた。全員が不安になり、私の顔を覗き込んでいる。私はわざと平然とした顔で「アメリカの雨もオツだね」と囁いた。その一言で全員は落ち着いたようであった。この出会った雨を形容してみると、次のようである。
   天から水をぶちまけて川のようになった雨、地球の緯度経度が変わってしまう雨、裸で歩いたほうがマシな雨等、外に出たら直ちにずぶ濡れになってしまう雨だった。視界ゼロになるアメリカの雨は凄まじかった。そのような雨の中を無事で600km走った。このように大陸を走るときは、あらゆる
危機管理感が極めて必要です。明日はダラスのケネデイ暗殺地を記してみます。
                             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・・・照沼重輝

2014年10月11日土曜日

2014年までのアメリカ(自己最高五日酔い)・・・190

2014.10.12日  台風沖縄直近   午前5:00
   二日酔いは苦しく酒は二度と飲みたくない、三日酔いは更に苦しく酒は止めようと思い、四日酔いは体のどこかが悪いのかなと思い断酒を決心する、五日酔いは我ながら年を感じる酒となる。
   だが、三日目に缶ビールを一缶、四日目に同じく缶ビールを一缶、五日目にも缶ビールを一缶
飲んだ。私は意思が弱いのだろうか、三日目に缶ビールを飲みたくなるなんて。そんなことを思い出しながら、アメリカ紀行を書いていますが、ダラスの思い出を記します。
   ダラスに最初に行ったのが、2011年の三月であった。フロリダ、ニューオリンズを廻ってるうちに
ケネデイの暗殺地に立ってみようと思ったからであった。ダラスは大きい町で、躍動的な街であった。どこからそれを感じるのかなというと、街の周囲の幹線道路が躍動的なのである。宇宙工学の
ような曲線で幹線道路が作られているからである。ニューオリンズ方面からダラスに入っていった。
突然、湿地から乾いた平原に入り、真っ直ぐな道路を走るようになった。やがて、ダラスのビル群が
見えてきた。街の中に入ったので、モーテルを見つけるためのウロウロ街中を走る。
                                           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年10月9日木曜日

2014年までのアメリカ(ダラスへは近いが二日酔い)・・・189

2014.10.9木  晴  快晴
  三日前、大失態をした。それは鯨飲よりすごい海飲と言うべきである大量飲をしてしまった。前後左右上下不覚、身辺心身不覚、5段階段登れず、背中にひっかき傷、血だらけのワイシャツ、鍵裂きワイシャッツ、朝に気がつけば布団の中、恐る恐る車を見れば無傷、 鏡を見ると顔は大丈夫、背中が痛いので、鏡に立つと鍵裂き傷、足と太ももが痛い、昨夜の出来事を思い出すが、ある時間から覚えていない。運転代行が着いたので、立ち上がったまでを覚えている。その時間帯は午後の10時ごろと思う。友人の家で飲んだのであるが、気を許した竹馬の友の家であった。
    高級ウイスキーと旬の松茸、それに松坂牛があった。これで飲まないわけにはいかない。全てを
忘れて飲んだ。欲張り爺が黄金の山を前にしたように、欣喜雀々、その瞬間から全ての節制を忘れたように飲んだ。体中の縄が解けたように、喜び、騒ぎ、感動を感じて全身をもって飲んだ。
    三日目、まだ酔っている。本調子でない朝を迎えていますので、ダラスは記せない。

                                       アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年10月1日水曜日

2014年までのアメリカ(ニューオリンズの危険な夜)・・・188

2014.10.1水 曇天 午前6:30
   この地の夜は危険である。街の蝉噪を逃れた私は、郊外の安めのモーテルに泊まっていた。
夜半過ぎ、各部屋のドアを次次にドンドン叩く音で眼を覚ました。自宅で寝ている錯覚で飛び起き、ドアに向かいノブを回してしまった。黒人の三人組が誰かを探して、傍若無人の振る舞いで、
ドアを叩いていたのだ。黒人が探しているのは、私でなかったので、「ノー」と言って、次の部屋を
叩くために去っていった。その途中で2階の廊下から1階に向かい、小便をし始まった。正に
コノヤローの世界であった。私も多少の正義感があるので、飛び出して相手を突き落としてやろ
うと感情が高まったが、黒人3人組には勝てないので、カーテンの隙間から相手の動向を監視
するだけにした。やがてパトカーが来た。午前3時ごろから明るくなるまでアメリカ警察の捕り物
劇をカーテンの隙間から見れるチャンスになった。
    手を頭に乗せ、パトカーを正面に立たされる黒人、ピストルを右手に左手で手錠を掛ける
警察官、周囲に証拠物を捨てていないかを探す警官、全部のパトカーは8台、被害者から調書を
採る警察官、3人の黒人はパトカーの牢のついた後部座席へ押し込められている。約2時間ほど
たってから、モーテルの事務所から被害は無かったかの問い合わせがあった。通常ならば、事務所員が客を守るべきだが、アメリカでは、そのようなことが無理であったのである。自分を守り、
客を守るなんて、一人ではできない芸当なのだろう。つくづく、アメリカ南部の夜は、危険である
ことを痛感した夜であった。
   明日はダラスへを記します。
                                           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・・・照沼重輝

2014年9月30日火曜日

2014年までのアメリカ(ニューオリンズ)・・・187

2014.9.30  火 晴  午前6:30
   中国大陸紀行を7日間掲載をしていましたので、アメリカ紀行7日に戻ります。
キーウエストからダラスに向かった私は、ニューオリンズの町を気ままに覘こうと進路を南西に定め、アクセルを踏み込んだ。湿地平原の中を車は進んだ。途中の川の色は真茶色で、鰐が出そうな雰囲気である。半日ほど車を走らせたところ、地平線の彼方に楼閣が見えてきた。友よ、あれがニューオリンズだ、とハンドルに言い聞かせた。数年前のハリケーンの跡が痛々しく残っている郊外を過ぎると、音楽だらけの街の中に入った。どこからともなく聞こえる全ての音が、ニューオリンズのジャズ音楽であった。駐車場はメーンストリートの後ろになんぼでもあった。但し、カード決済
なので苦労したが、駐車場の係員に決済をやって貰い、歩いてメーンストリートに向かった。
   そこはジャズのるつぼ、楽器が蠢く、アフリカ系アメリカ人と中南米系アメリカ人が圧倒的に多く、
アジア人は見かけなかった。300mくらいの距離の蝉噪地帯に入った。警官が10mの幅で立っていた。電気銃と拳銃を持っている警官であった。いかに危険地帯か一目瞭然で、ぼやーと歩いていると、連れ込まれることがある路である。
                                               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月27日土曜日

2014年までの中国(上海様相)・・・186

2014.9.27土  晴れ 午前7:00
    杭州から急いで上海に戻った。急ぐ理由は、何度も何度も通った高速道であったからである。いつもの道路は退屈を生む道路となっていた。前方左右、上下目新しいものは全て無くなっていた。
上海の銀河飯店に宿を取ろうと思ったら、そのホテルは無くなっていた。無くなったと言うより、
用途替えをしていたのである。ホテルから貸し事務所ビルになっていた。このように上海の町は
凄まじく変わっているのである。しょうがないので、ロイヤルトンホテルに宿を変えたがそのホテルの、隣のスーパーも無くなっていたのである。上海は全ての家賃が沸騰しているので、採算が合わなくなっていて、退去したらしい。今の上海は古いものが去り、新しいものが生まれているのである。全ての新しいものが芽を出したり、穂が出たりしている町となっていた。
    夜、上海で最も流行っている日本料理店に行った。アジア人の溜まり場になっていた。中国、日本、韓国人の男女が、日本料理を食べて日本酒の徳利を傾けていた。但し、日本酒は中国内で作られた日本酒であった。大繁盛をしているこの店の主は、元日本への留学生とのことであった。
   私の老朋友の中国人達は、今や上海の富裕層になり、高級住宅に住み、高級車を乗り廻し、
肩で風を切って、街中を徘徊している身分になった。そして、私の貿易を前後左右からガードをしていてくれるようになった。まさしく、人育てをしたことになって、嬉しく思えます。次回から、アメリに戻ります。続きは、ニューオリンズの夜からです。
                                          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月26日金曜日

2014年までの中国(杭州から上海へ)・・・185

2014.9.26金  曇天 午前7:00
   杭州から上海まで約200kmと思う。時間で2時間30分かかる。途中に皮の町や桐の町等がある。特に面白い町等は見当たらないが、南湖という共産党が組織を作った時の場所となった町が
ある。そこを訪問して、その場所を見学した経験がありますが、質素に写真などが展示されていただけでした。この杭州と上海間間のルートはまっしぐらに上海に戻るだけの平凡な道ですから、
途中でどこかに寄った経験は二三度しかありません。その寄った町は、皮の産地の町くらいで
した。そういうことで特筆できる出来事は少なく、本文を終わりにします。明日は日本に戻る直前の上海の様相を掲載します。
                                             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
  

2014年9月23日火曜日

2014年までの中国(杭州の郁達夫)・・・184

2014.9.24火 晴れ 午前6:00
   仕事を終えて、郁達夫文人の家に行った。何でも郁達夫が杭州一の美人を娶り、新居を自分の設計で作ったものらしい。確かに、東京大学に留学していたので、屋根だけしか見えなかったが、扉の隙間から除くと日本的な家であった。郁達夫は浙江省の人で、兄と一緒に東京大学に留学し、文人になった人である。魯迅とは日本のどかで一緒だったらしい。その家を見て回ったが、
中に入れるようには、なっていなかったので、あきらめてそこを辞した。
    杭州の町はまだ夏が去っていないようで、空にはギラギラの太陽と入道雲が居座っていました。
                                                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月22日月曜日

2014年までの中国(無錫から杭州に陸路で)・・・183

2014.9.22月 快晴  午前8:45
  無錫で工場の接待を受けて、その町に泊まってしまった。田舎料理であったが美味しかったので痛飲をした。田舎社長の飲み方は男らしく、グングンいった。私も同じ調子でグングン飲んだ。そのおかげで、朝は少々辛かった。
 無錫からハイウエーで300kmを3時間で走り、杭州に着いた。杭州では郁君の従弟と2年ぶりに
食事をした。彼ら夫婦はヨーロッパ旅行から帰ったばかりで、その話で花が咲いた。その話の中で夫君が妻に現地で「逃げようか」と囁いだらしい。彼女は「言葉が分からない、やめよう」と言ったらしい。杭州料理のなかで、日本のたくあんに似た漬物がおいしく、口にほおり込みバリバリと食べた。私の腹心の郁君の祖先に郁達夫という中国の文豪がいるので、その話に及んだ。彼の旧宅
が杭州に記念館として保存されているとのことである。訪れてみようかと、ふと考えた。宴会が終わり、外に出ると杭州は暑い夜がまだ続いていた。
                                       アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月20日土曜日

2014年までの中国(厦門から無錫へ)・・・182

2014.9.20土 曇り 午前7:00
  無錫を出た私は空路で無錫に向かった。1時間遅れた飛行機は、スムーズに青空の領域に入
り、1時間半の空の旅であるが昼食が出た。簡単弁当であり、腹がふさげれば良いという代物である。
  時間無く、ここで終わります。
                                                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月19日金曜日

2014年までの中国(厦門の石工場と道教院)・・・181

2014.9.19金  快晴  午前6:30
  朝迎えに来た顔女史の車で石材工場に行った。行ったところ、あんなに立派だった工場が半壊している。思わず、聞くと、政府が高速道路のために取り上げたと言う。補償額は数億円を貰ったとのことである。移設中の工場は稼働をしていないので、系列会社で受注をこなしていると言う。
半壊の工場の事務所で制作打ち合わせをした後に、隣の道教院で制作品のヒントを探しに行った。私の勘がぴったり当たった。中国の道教でも安産の神に犬が使われていた。お賽銭箱の4本の支柱の直下に犬が彫られていた。これを取り入れた産品を作ろうと決定をした。
   打ち合わせ後の昼食は、漁村又は農村食堂を所望した。漁村食堂に行って、地場ものを使った
海鮮料理に食いついたが、たいしたことは無かった。そこで、夕食は顔女史の夫君を誘い、漁村
の経営するドライブインみたいな大型食堂に行った。ここでの海鮮料理もたいしたことは無かった。
今の中国の食は、庶民はまだ質より量の食事が優位となっていた。
   彼夫婦は、私を厦門を逆から見る場所に連れて行ってくれた。来るたびに南シナ海側から見ていたが、今回は後ろから厦門を見ることができた。結果、厦門の全体像が初めて理解できました。
                                             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

  

2014年9月18日木曜日

2014年までの中国(厦門に行った)・・・180

2014.9.18木 曇天 午後7:40
  9月13日に茨城を出て、上海・・・空路で厦門・・・空路で無錫・・・車で杭州・・・車で桐郷・・・車で上海・・・空路で茨城に戻った。中国内だけで約3000kmを移動したことになる。
    今日は厦門の出来事を記します。夜10:30分に厦門に着きました。石材会社の顔女史とは5
年ぶりの再会です。お互い変わりはありませんね、と挨拶を受けた。私も返したが、それ以上の
ジョークは逃してしまいました。空港外に出ると、蒸し暑く、椰子の木を見るだけでも、正に南国の国であった。ホテルに入れたのは午後11時ごろでした。四つ星ホテルでしたが、値段と部屋の雰囲気はマーマーでした。腹が空いていたので、外に食べに出てみましたが、店が無く、やっとありつけたのは、閉店間際の店でした。腹が空いていると何でもおいしいというのは、本当の話でした。
厦門での空腹感が、後後に中国移同時に色々な利益にありつけました。
                                      アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月13日土曜日

2014年までのアメリカ(中国上海から厦門へ)・・・179

2014.9.13土 曇り 午前5:40
臨時的にアメリカから中国に移ります。理由は、今日、中国国内に入るからです。
  今は日本の東海村にいますが、この後13時20分の飛行機で上海に向かい、午後19:10の飛行機で厦門にたちます。厦門では石輸入の商談を行います。そして、厦門から無錫に飛行機で移動をします。無錫では太陽光機材の輸入商談をします。後に上海に移り、上海のロータリークラブでメーキャップをして、上海在住のビジネスマンと交遊をします。途中ですが、時間が追ってるので一旦終わりにします。
                                        アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月12日金曜日

2014年のアメリカ(ニューオリンズの街角音楽)・・・177

2014.9.12金  晴れ  午前6:40
   オーランドを出てひたすらニューオリンズに走った。ミシシピー川を越えるとニューオリンズである。湿地の平原をしばらく走り、鰐が出てきそうな湿地も走った。混濁の水を見ながら走ると、遠くに楼閣が見えてきた。ジャズで有名なニューオリンズである。ジャズが好きな人には、憧れの町であるが、私は音額が駄目だから、音楽よりは交会う人種が躍動する町を見たいのである。数年前のハリケーンで大被害を受けた爪痕が町のあちこちに見受けられた。町の中心地に高速道路から
入った。私はアメリカに来て初めての経験でした。それは町行く人の顔が殆ど有色であった。白系は殆ど見受けなかった。明るい南国特有の音楽が町中に流れていた。人々の動きもリズミカル
でした。車を駐車場に入れて町のど真ん中に出た。中心地は至る所に空き地があった。それは
駐車場になっているから、便利な町でした。早くも学生ジャズの楽団に出くわした。こういう風景は
音楽好きにはたまらないだろうな考えた。男も女もカラフルな服を着て、アメリカ南部文化を表現している。私は人の流れに沿って、町一番の夜の繁華街に入っていったのである。明日はその夜の
繁華街を記します。但し、明日は中国出張ですから、厦門の町を記すかもしれません。
                                            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                               クリントン大統領と同席をした

2014年9月10日水曜日

2014年からのアメリカ(キーウエストからデズニーへ)・・・176

2014.9.11木  曇り 午前5:40
   キーウエストを周遊し、ニューオリンズに向かおうと思ったが、気持ちを入れ替えて、フロリダ半島のオーランドに向かった。理由は巨大な娯楽施設があるからであった。デズニーランドやユニバーサルの娯楽場、それに独自の鰐園とかサファリパークがあり、私はそれらのビジネス運営に興味
を持っています。巨額な資本を集めて運営し、巨額な利益をあげて、投資家に配当をする。このような管理システムを築いたアメリカ人の優秀性に興味を持ち続けていましたので、是非とも、見てやろうと思っていたのです。最近売り出し中であるハリポッターのユニバーサルに向かいました。
一人5千円くらいの入場券を買って入り、中を見て歩きました。感想はデズニー的管理の方法の
ようでした。日本と違うのは、年配者が結構働いていました。思うに、その町の法律で一定の枠で
年長者を使うようになるのかもしれません。このような施設の管理と運営に興味があっただけ
ですから、二三時間で退去しました。ハリーポッターだけは並んで待って見ました。
    オーランドの町は観光地ですから、アメリカの南の夜昼は大変賑わっていました。
明日はオーランドからニューオリンズに往くを記します。
                                                アメリカ.中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年の中国(上海から南へ)・・・175

2014.9.10 水  曇り 午前6:30
  上海の中心から南を望むと、杭州湾、寧波、台州、温州がある。私が行った町は温州を除き、全部行きました。寧波は道玄禅師が修行した天童寺があります。そのお寺には3度ほど行きました。
広大な寺の敷地に、日本では考えられないような施設があり、多数の僧が読経をしていました。
以外に、中国特有の煌びやかな施設でなく、落ち着いた雰囲気です。当時の名残は無いようで
したが、寺に続く松並木にその名残を見つけました。砂地のような土でしたが、その松は何代目か
のように小松並木でした。天童寺を出てある港に向かいました。道玄僧が数日も船の中に閉じ込められた港に立ちました。そこに行くまでは大変でした。案内の中国人も分からないような所でしたが、一人の同行者が司馬遼太郎の本を参考に見つけたのです。全員が驚き、びっくりです。
そのようなヒントを中国で見つけるとは、考えれませんした。後に考えると、その人は日本の弁護士の先生です。やっぱり、すごいの感でした。南の寧波に行った時を記しました。
明日からはアメリカに戻ります。
                                               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                      道玄禅師が船を着けた港

2014年9月9日火曜日

2014年までの中国(上海から西へ)・・・174

2014.9.9火 曇り 午前7:00
  上海の西に蘇州、南京、西安があります。もともと、揚子江沿いに発展したような町と思います。
私は揚子江沿いの町に通いましたので、行ったところの憶えている町を列挙してみます。
    昆山市、蘇州市、無錫市、常熱市、揚州市、南京市、西安市ですが、西安を除いた田の町は、
全部仕事で行きました。1991年から今も現実に通っている町です。各市の人口は100万人から
700万人の人口がありますので、日本の賑やかさの比でありません。思い出し順に町の様相を
記します。昆山は私が20年前にM&Aを成功させた町、世界中の企業が進出しています。外国人が3000人住んでいるとのことです。無錫は私が太陽光機材を輸入する町、無錫旅情の歌で有名です。1500年代に日本の倭寇が忽然と消えた歴史があります。現地に同化したのでしょうか。
常熱市は油圧ホースを日系企業に売りに行きました。揚州市は鑑真和尚のお寺があります。
南京の帰り道に寄りました。骨董屋が軒を並べていました。南京は日中友好協会の公的訪問で
行ったり、ビジネスチャンスを求めて行きもしました。蒋介石の家や孫文の陵があります。
黄河文明に対抗するように、揚子江文明をあるんでないかと思うほど、揚子江沿いは発展した町が多かったです。
                                                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝 

2014年9月8日月曜日

2014年までの中国(上海から宝山方面へ)・・・173

2014.9.8 月 快晴  午前6:45
    上海の東に宝山、その奥に南通、更に東シナ海がある。私は宝山には製鉄所があるので商談に行った経験があります。その奥の南通市にもいきました。南通市は経済の発展する間際に、友人に案内をしてもらって行きました。宝山は大地の子の製鉄所があるので有名ですから、その地名は誰でも分かっていると思います。三菱重工の社員と商談をしたことを思い出しました。南通市
は、揚子江を渡らないと行けなかったので、フェリーで揚子江を渡り行きました。帰りに、田舎の民家が経営する食堂に寄り、料理を頼み、その家の庭で後ろに回り、何気なく井戸に行くと、その家の娘さんが田ウナギをハサミで解剖していました。鋏を見ると、真っ赤に錆びていました。悪いもの見てしまったが、食欲は落ちることなく、皆で美味しく食べました。
   その当時と言うのは。1991年でした。思い出は揚子江は黄色い河で濁流がうねっていました。
明日は西の思い出を記します。
                                                               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月7日日曜日

2014年までの中国(南京路から東西南北を望む)・・・172

2014.9.7日 大雨 午前6:40
   上海の有名通りの南京路から東西南北を望んでみます。東方面には大地の子で有名な製鉄
所の宝山があります。その奥には南通市ですが、更に遠くの東シナ海の奥に日本があります。日本までは約2000kmくらいでしょう。南方面は杭州湾ですが、湾を渡ると寧波市や台州市があり、海の向こうには台湾があり、経済活動がとても活発な南方面です。台湾まで約1000kmと思われます。西方面には蘇州市、その奥に南京市があります。更に奥には西域があり、シルクロードはその奥ですが、私は行ったことはありません。シルクロードの入口の西安までは約1200kmと思います。北の方面は北京があります。その距離は約1000kmくらいと思います。各距離数を図ったわけでありませんが、飛行機の飛行時間で計算をしてみました。このように大陸は、日本人に考えられない距離感があります。私は中国の東西南北の全部に上海から出張していました。とても良い
思い出が残っています。今月の13日に仕事で中国に出ますが、行くところは茨城・・・上海・・・無錫・・・アモイ・・・上海・・・茨城と廻ってきます。何か面白いブログネタ仕入れてきます。
   明日は東に行った経験談を記します。
                                       アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月6日土曜日

2914年までの中国(上海人との絆)・・・171

2014.9.6 土 曇り 午前 6:30
  上海人は待ち時間に几帳面でなかった。20年前に仕事で部下と待ち合わせをしたら、1時間遅れてきた。交通機関の遅れで、俺のせいでないよと、平然としている。私は呆れたが、顔に出さずに、そのようなことがあるなら、1時間早く出るべきだと部下に行った。部下が言う「そんなことしていたら一生の間で、相当な時間のロストがある、時間は貴重なものだ」私は唖然とし、口をきけなかった。そんなことがあった後、今度はその部下と数人の友人で、国内の飛行機を使用する出張になった。待ち合わせ時間に15分遅れている、飛行機は待ってくれない、私は敢然と搭乗手続き口に向かった、身体検査が終わり待合室まで進み、座って寛いでいた。彼らは遅れて汗をかきながらやってきた。部下曰く、「なんで待っていない、日本人は気が短かい」とのたまわった。この会話は互いに信頼感があるから喧嘩にならないが、普通ならば、喧嘩になり、その場で関係が終わりになってしまう。私たちは無事に飛行に乗り、その出張では良い仕事が出来た。中国人との付き合いは、何でも言える関係を構築するのが一番かなと思う。今の日本と中国は何でも言える関係を築いている政治家は少ないから、問題の核心を掴めず、右往左往しているのかな?分からないね。明日は上海の東、日本の西の出来事を記します。
                                             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月5日金曜日

2014年までの中国(上海のあれこれ)・・・170

2014.9.5金 曇り 午後4:50
  上海人の気質について記してみます。良く言われるのが、北京人は東京人で上海人は大阪人
と言われます。本当の役人を見たければ北京に行け、本当の金持ちを見たければ上海に行けと
言われます。上海人の金に対する考えは、日本人も極めて勉強になります。どんな店でも安ければ、何処までも行き、高ければ親戚の店でも友人の店でも二度と行かない。但し、そこは中国で親戚値段と友人値段があるようです。この柔軟性ある考え方は、正に上海人と思います。安くて美味しい店は行列が出来ます。日本だと、もう一つの綺麗で人が入りますが、上海は違います。数十年も続いている行列が出来る店(ショウロンポウ)は正にそのようでした。火鍋の人気ある店も、何時間んも待たされますが、私は社員の有志に先に行って待ってて貰い、時間が来たら、そこに駆けつけて食べます。但し、その有志には小遣いを渡すようになりますので、値段は安くあがりません。
上海人は風と称すると滞在歴の長い日本人に言われたことを思い出しています。
    明日は、中国人の待ち時間について記します。
                                                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
   
 

2014年9月4日木曜日

2014年までの中国(上海の24時)・・・169

2014.9.4 木  曇天  午前6:00
   杭州湾を跨いで上海に入った私は、いつも定宿の銀河飯店に宿をとる。顔馴染みのカウンターの女性が微笑んでくれる。荷物を部屋において、カーテンを開けて28回階から下界をぼんやりと眺める。至福の時間である。下界は交通ラッシュとクラクションの海であるが、所々の緑の公園が
眩しい。暗闇が追ってくると、身だしなみを整え1階のフロアーに降りる。運転士の郁君が待ち受ける。直ちに外に出て、ビュイック黒型の車の後部に乗り込む。先ず、中華料理の美味しい「和記」
に行き、上海富裕層若手と食事をする。そこでの話題は、ビジネス話題が中心ですが、私への質問は、日本の政治経済の動向である。私は専門家でないが、実務家であるので大変参考になるのだという。そこで、さりげなく日本の不動産とM&Aの話題を投げる。私は若手経営者の日本への投資意欲を探るのだ。この地震前は意欲があったが、地震後は距離をおいて、日本への投資を
見ているようである。食事が終わると、気の合う富裕層若者と連れ立って、二三人でカラオケクラブに行く時が多いが、場が出来ない時は長年常連になってるスコッチクラブに赴く。その店は「イエスタデイー」という店である。ママと軽い話し相手になってくれる女性二三人がいるだけであるが。
日本のホテルオークラが経営する花園飯店から数分の所にあり、いつも世界の商社員が溜まっている。テーブル席4卓、カウンター7席の店であり、満員の時が多い。その理由は、安く飲めて、ママの長身と美人顔を拝めるからだろう。私はママの主人と長い20年以上の付き合いがあり、その彼の顔を立てて行くのである。この店の周りは日本の六本木である。眠らない町上海の代表的な
地区である。明日はこの店を中心に上海の夜を記していきます。
                                            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月3日水曜日

2014年までのアメリカ(アメリカの最南端キーウエストに)・・・168

2014.9.3水 晴  午前6:10
   キーウエストの町を表現するならば、ヘミングウエーの「老人と海」や「武器よさらば」と縁が深い
町、椰子の木が高くそびえて青空に届きそうな町、キューバーの匂いが漂ってくる町、美しいサンセットの町等数多であるが、何といっても、この一言に尽きるようです。それは「海原の町」では
ないでしょか。とにかく、最南端に行くまでは、海の上の一本道を走っているような、錯覚におそわれる感じがして、そこについて、後ろを振り返ると一本道が見えなくなる。帰れるのかなと錯覚を
起こします。海原に浮いている町ですが、道路は微かな岩礁の上に作られたのでしょう。波と
道路が一体化しているようです。ハリケーンの時などは、島人は避難道路がなくなり、大いに不安になるだろうと思います。
    さて、夕方の落日の瞬間を見るために最も最南端に行きました。世界で一番美しい夕日です。
既に観光客が大勢集まっていました。時間お金を持て余しているアメリカの富豪達が集まった感が
あります。夕陽を見る岸壁の周辺には、一見して豪華な別荘風なホテルが立っています。3階建ての部屋を貸し切った男女の白人達が酒を飲んで騒いでいます。
   夕日が差し掛かった海原を見ると、大型ヨットが西から南に航行中、夕日を追いかけているようです。そこに、小型クルザーが横切っていきました。夕日は中断から水平線に近付きいた。
その瞬間、観光客がどよめいた。太陽が消えてしまったと言ってるようでした。私も岸壁を後にしようと動き始めた瞬間、豪華別荘ホテルの三階の富豪たちが、「私たちが落日を最後に見ている」と
叫び、得意がっていました。私はそれを瞬間的に羨ましがっただけでした。暗くなりかけたキーウエストの一等地の最南端を後にし、値段が高い安モーテルに戻る北の道を探しました。お腹が空いてきたので、今夜は食料を買ってモーテルで食べようと思っています。明日からの一週間は中国の上海周辺を記します。
                                                    リカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                            アメリカ最南端の 落日の瞬間 

2014年9月2日火曜日

2014年までのアメリカ(キューバが近いキーウエストへ)・・・167

2014.9.2 火  晴 午前6:40
  フロリダは何も見ないで通過した。鰐がいそうなブッシュを過ぎると、突然に大海原が見えてきた。
これは写真を撮ろうと車を止めると、何と、まだキーウエストの入口辺りであったので、更に、車をとばした。2時間ほど走ると、遠くに蜃気楼のように海原に上に建物群が見えてきた。あれが、ヘミングウエイーが住んでいたキーウエストの町だ、と自分に言い聞かせ、疲労を回復させた。
   運転中の車の中から左右前方を見る。大型クルザー、、大中小のヨット、青空、ヤシの木、ハイビスカス、ブルーすぎる海水、豪華な別荘、周囲にマッチしたモーテル等、そこは仕事を忘れる南国
であった。途中のウォルマートにより、帽子と海水着やサンダルを買った。ついでに、食品売り場や
雑貨売り場を覘いて車に戻った。
    更に、先に車を進ませる。モーテル群が立ち並ぶ通りに出たので、部屋を取ろうとモーテルに入った。カウンターで料金を聞くと、ワンルーム・ワンベッドは2百ドルと言う。びっくりして、負けてくださいと頼む。150ドルまで下がった。キーウエストの町の最南端の名所から5㎞くらい離れた
所でこの料金ですから、もっと先に行くともっと高くなる。時間的に贅沢なアメリカ縦断をしているので、遠く離れたモーテルで我慢をすることにした。部屋は綺麗でベッドメークも満足できたモーテルであった。暗闇が追っていたので、嫌な予感を抱いて、夕食の買出しに出かけた。嫌な予感が
当たった夕食になった夜は明日記します。
                                                    アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                                   暗闇が追る

2014年9月1日月曜日

2014年までのアメリカ(フロリダを通過しキーウエスト)・・・166

2014.9.1月 雨 午前6:20
    フロリダに寄り、ビーチで遊ぶ時間は無かったので、真っすぐにキーウエストに向かった。フロリダの外環のような高速道路を過ぎると、やがて、湿地地帯のようなところを走るようになった。その湿地地帯が長く感じた。早く、青空と青い海原を見たくているからである。2時間程走ると、ポツリ
ポツリとブッシュの合間から青い海が見えてきた。キーウエストはフロリダから300kmの先にある
岩礁の島である。ヘミングウエーが「武器をさらば」を書いた場所であり「老人と海」のモデルとなった地である。キューバまで数百kmtの地点であり、南米の入口のような所というと分かりやすい。
   椰子の木、ハイビスカス、真っ青の海が道路の左右に広がってきた。所々に見える小さなハーバーには、無数の大小のヨットやクルーザーが係留している。目を遠くにやると、水平線の彼方にもレジャー船がうごめいていた。キーウエストまであと100kmほどの地点まで来た。遠くの水平線の先に一寸した高い建物が見えてきた。まるで海に浮かんでいるような建物群である。私は更に
アクセルを踏み込んだ。
   明日はアメリカの最南端のキーウエストの様相を記します。
                                            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                          キーウエストの夕日

2014年8月31日日曜日

2014年までのアメリカ(ノース・サウスカロライナ)・・・165

2014.8.31日 晴れ 午前6:40
   久しぶりに晴れた日となった。体も調子よく、1時間の朝の運動から帰った。晴れるとなんだか意欲が出る。太陽は有難いものです。新ためて感じています。
   さて、ワシントンを出て、ノースカロライナを経てサウスカロライナに辿り着きました。サウスカロライナを通過する時に気がついたことがあります。それはオーガスタゴルフが開催されている事でした。サウスカロライナから南西に120kmほど行けば、開催地のジョージアに行けることが分かりました。一寸迷いましたが、最終目的地を外さないで走ろうと思い、更に、南に向かいました。そこは
フロリダの先、キューバの手前のキーウエストです。グーンとアクセルを踏み、炎熱近くの高速を
ぶっ飛ばしました。フロリダ近くになると、辺りがブッシュになり、湿地が多くなりました。なんだか、
ワニが出そうな雰囲気の光景です。長い湿地を抜けると、突然ビル群が現れました。避暑地の
フロリダの光景です。それはアメリカ人の憧れる町、癒しの町、太陽と白砂海岸の町等々、形容
しきれない町です。時間の都合でこの町には寄れません。町の風景を空想だけして、更に、アクセルを踏み込みました。入道雲が先へ先へ「おいで、おいで」と言ってるように思いました。
明日はフロリダからキーウエストまで走ります。
                                          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                                  キーウエストの海

2014年8月30日土曜日

2014年までのアメリカ(ワシントンから両カロライナへ)・・・164

2014.8.30土   雨  午前6:50
  秋雨の中を歩いてきた。途中で腹筋運動とヒンズースクワットをした。公園内の散歩者はいなかった。随所に秋を見られた朝である。
  さて、ワシントンの安宿から南に向かう。高速に乗る前にガソリンスタンドに寄った。セルフだが
器具の取り扱いが出来ないので、スタンド上のドライバー聞いた。なるほど、所変われば、やり方が変わる。親切に教えてくれたので、簡単に給油ができた。高速に乗って一時間も過ぎると、運転が飽きてくる。ラジオのスイッチを入れ、アメリカ音楽を聴きながら、スピードをあげた。約90マイル
のスピードで飛ばした。140km以上のスピードである。パトカーが怖いので、スピードを緩める。
この繰り返しで運転しているうちに、ノースカロライナまで来たので、トイレに寄った。トイレの後に
敷地の端に行ったところ、立ち看板が出ていた。「七種類の蛇に注意」と書かれていて、おまけに写真まで出ていた。見ると、一目でわかる見たくないような毒蛇の様相をしていた。足を止めて車に戻った。敷地内は旅行者で賑わっている。アメリカ何処に行っても、国内移動者を多く見る。
    明日はサウスカロライナを抜け、その先に行く。
                                            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                            ワシントンは桜の季節でした

2014年8月28日木曜日

2014年までのアメリカ(ニューヨーク~ワシントンへ)・・・163

2014.8.29金 曇天 午前7:00
  ニューヨーク華僑の豪邸を出たのは午前10時であった。家族に送られて手を振りながら出た。
私のレンタカーはキャデラックミニバン6人乗りである。ご主人がフロリダに向かう高速まで案内をすると言って先導してくれた。入口近くでご主人とも別れたので、一寸さみしい気持ちがあったが、
本当に一人になると、度胸と根性もすわり、どんなハプニングもどんとこいの気持ちになった。
レンタカーは高級で馬力もあるので、次々に他の車を追い越せた。次の目標地のワシントンまで
ニューヨークから350kmあるが、約3時間で行ける。アメリカで一寸の距離感覚となる。日本ならば、遠い道程と言うであろうが、ここアメリカでは短距離である。そんなことを考えながら走っているうちに、間もなくワシントンに入るところまで来た。
  ワシントンに着いたら、先ずホワイトハウスに行った。さすが大統領官邸は日本の首相官邸の比でない厳かに見えた。警護官の凛々しさも素晴らしかった。2m近くのお漢が毅然とした姿勢で立っていたり、動き回っていたりした。ホワイトハウスの庭をもう一度見まわした。目に焼き付けようと
必死に見まわした。でも、大統領は庭にいなかった。ホワイトハウスでアフリカ系アメリカ人の大統領を見るチャンスは来なかった。次のチャンスを待とうと考えなおして、そこを後にした。グッドバイ
ミスターオバマと心で声を力なくかけ、ワシントンの安モーテルに向かった。ホワイトハウスと安モーテルの思い出のワシントンでした。
                                     アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月26日火曜日

2014年までのアメリカ(大西洋沿いの町)・・・162

2014.8.26 水  曇天雨 午前6:30
    ニューヨークから大西洋沿いを南下し、フロリダを通過しキーウエストの最南端まで行った一週間の行程を記します。
   春先三月、ニューヨークの華僑の友人の家に泊まった。その家はニューヨーク湾が一望に見える
島のてっぺんの家であった。センチュリー21というアメリカの不動産王の家を買ったそうだ。その家の広さは日本の裕福な家の広さの比でない。何室あるか分からない家であった。その部屋は総大理石で蔽われ、金色の蛇口、廊下は赤絨毯、キッチンは百人以上を賄える広さ、それが大中小の
キッチンが有り、2百人は入れるニューヨーク湾が一望に見えるパーテイ用のーデッキ、ダイニングからはマンハッタン島とニューヨーク湾が一望に見えた。その華僑のビジネスは、中国大陸とアメリカを結ぶ貿易商である。取り扱い品は原油と絹である。20世紀から21世紀にかけてのシルクロード貿易商人と言えるだろう。ある時、貿易のもつれか、信号で泊まっていたら、窓をトントンと叩く
何者かがいるので、運転席の窓を開けると、ナイフで左頬を切られたと言い、見事なスカーフェイス
面であった。この華僑夫婦ととマンハッタン島で夕食を共にした。奥さんは郁達夫という中国の偉大な作家の子孫である。ハーバード出身の奥さんのインテリジェンス的性格は見事でした。私みたいな日本百姓を相手にして、逸らさない的を得た会話には、思わず感動を禁じえませんでした。
マンハッタン島の案内を得て、彼の自宅に戻り就寝をしましたが、夜半に起きて、そーっとカーテンを開けて、ニューヨーク湾を眺めました。ニューヨーク湾は、深夜になっても煌々と灯りがついていました。正に、ニューヨークは眠らない町でした。明日はニューヨークを出るを記します。
                                                   アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月25日月曜日

2014年までの中国(上海に戻る)・・・161

2014.8.26 火  曇り  午前6:50
  杭州湾を一跨ぎの感じで上海に浦東方面から上海に入った。だんだん上海の明かりが見えてくる
と同時に車が超混んでくる。トレラー、商用車、自家用車等の車を見ると、ドイツ、アメリカ、日本が主流でスエーデン、イギリス、フランス、イタリーの車は少なく見えた。高速道から環状線に一気に入り、銀河飯店(ギャラクシーホテル)に向かう。弊社は一泊16,000を10,000円で泊まれる契約をしている。お馴染みのカウンターからホテルボーイを伴い、部屋にたどり着く。カーテンんを開け、部屋がどの位置になるかを確かめる。環状線が見えれば良い部屋で、ホテルの裏口のような
所が見える部屋だと、忙しくて良い部屋が取れなかった日になる。荷物を置いて、一息が付くと、外に出る。フロントロビーは広すぎるほど広く、高い天井、隅のカフェーが狭く見える。広いフロントには、何故か椅子が少ない。出来るだけ、カフェーを利用して貰いたいホテルの願望がそうしているのだろう。と思う。ここのホテルの朝食は超美味い。新鮮な野菜やフルーツが盛りだくさんにある。
日曜のゆったりした朝食、きょろきょろする朝食、忙しく流し込むような朝食、かみながら外に出る
朝食等のあらゆる環境の朝食を食べた思い出が有ります。
    このホテルから歩いて10分の所に中型スーパーが有り、ホテルの食事が飽きたら、買い出しに
でます。手軽に食べられる弁当を買ってきて、ホテルの窓から外を見て、夏の暑い日に裸に近いスタイルで弁当をパクついたもです。ホテルの見晴らしの良い部屋から外を眺めて、コーヒー等を
すすっていると、良いアイデアが出る時が有りますので、私はこの時間帯を大事にしています。
   夜になると、上海市内の企業家や役人さんの会合や男女の待ち合わせ場所、それから親類家族の面会等多くの人々が集まってきます。同時に赤いランタンが咲き乱れ、華やかな東洋の夜を
醸し出します。着飾った娘さんがしゃなりしゃなりとフロントに花が咲いたように出没します。
   私は上海に入ると、20年来の友人のパブに顔を出します。その店は「イエスタディー」と言いますが、別な機会に記します。中国は7回掲載しましたので、次回はアメリカの思い出を記します。
                                               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年までの中国(杭州湾を跨いで上海へ)・・・161

2014.8.25月 曇り 午前6:40
   杭州湾に橋が架かった。とてつもなく長い橋である。渡るのに小一時間架かりそうな橋である。私は十回以上、商用、観光、案内でこの橋を渡たりました。行くときの話より、起点の上海に戻る時を記します。杭州湾の出口は100km以上ありますが、橋から河口は見えません。上海に戻るときは、太陽が湾の上流にみえます。大きく真っ赤な太陽が、湾の水面をギラギラと照らし、濁流が遠くから押し寄せるように流れてきます。時折、水面から飛び跳ねる大魚を見ます。潮が引くと、水底のドロ肌が現れ、東シナ海の夢が消されてしまいます。満潮時の湾の水量は表現できません。海より多い水量に見えるとしか言いようがありません。年一回の大潮時には、ブラジルのポロロッカのような、湾の逆流現象を見られるそうです。橋の途中に見学所があり、観光客で賑わっていますが、平日はさほどでは有りませんでした。その見学所は有料ですから、一度行けば二度と行きたくなるほどの誘惑力は有りませんでした。
    見学を出たら一心に上海に戻りたくなります。理由は日本と味付けが似ている上海料理が恋しくなるからです。橋を渡ると、何となく上海の街明かりが、遠くに見えるような気分におそわれます。
その上海に向かって後1時間はゆうにかかりますので、明日に記します。
                                           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月24日日曜日

2014年までの中国(杭州湾沿い)・・・160

2014.8.24 日 快晴  午前6:30
  蒋介石の生家を見てから孫義之書聖の故郷に寄ろうと思ったが、上海までの距離は300kmを残しているので、寄らずに上海に向けて車を走らせた。杭州湾を跨ぐ橋が出来たばかりでもあったので、その橋を跨いで上海に戻る計画に変更した。赤茶けた左右の山をぬうように、高速道路はあります。しばし、神経を休ませてぼやーと景色を眺めた。山肌に松の木がへばり付き、所々に岩石を
取った後、何やら山肌に墓地がある。その墓地には、花輪や供物が沢山あがっている。先祖を敬う心は日本より格上だ。日本の墓地と違うのは、西向きの山間に作られていること、墓地の花輪が
けばけばしい事ぐらいかなと、ぼんやり眺める。
   次に、高速道路の出入口近くには、出口から繋がるその町や村の観光所や生産工場の看板が目立ちます。外国等の資本を導入しようと一生懸命看板を立てているようです。何しろ、外国の大口資本を導入すれば、その町は大いに潤うのですから、その町の指導者は頑張るほか無いのである。指導者はより中央に近い位置を取ろうと考えるのでしょう。杭州湾を跨ぐ入口までは、以上の
ような風景が数多くあります。
   杭州湾は観光名所が多いところです。杭州湾の上流に作家の郁達夫さんの出生地と生家があります。彼に敬意を表し5度ほど線香をあげに行きました。日本の東大で学び、中国に戻り、反日
活動中に、マレーシア?で日本の憲兵隊に射殺された方です。偶然、私の会社にその子孫が
働いていますので、5回ほど敬意を表しに行きました。その子孫は、今やハーバード大学の先生
や役人等で活躍しています。
    明日は杭州湾を跨ぎ上海に向かいます。
                                        アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月23日土曜日

2014年までの中国(台州から蒋介石の生家へ)・・・159

2014.8.23 土  曇り 午前8:00
   台州から上海に戻る行程上に蒋介石の生家と孫義之の故郷があることが分かったので、尋ねてみようと考えた。蒋介石の生家に何とかたどり着いたので、早速、徒歩で向かった。台湾からの観光客が多く、大変賑わっていた。おまけに、蒋介石のそっくりさんまでいた。中国の古い衣服を着て
ゆったり歩いている。声をかけて写真を撮ると、お金を請求されるので、写真は撮らなかった。
   日本でいう蒋介石の家は、大庄屋作りであった。これまた中に入るとお金を取られるようになっていたので、中には入らずに入口で写真を取った。その蒋介石の村の殆どが蒋の名字であった。
整った水田が有り、綺麗な小川が流れていて、緑木の多い村で、米と川魚が豊かそうな風景でした。蒋介石は日本に留学していたことが有り、親しみやすい人物ですが、共産党との戦に敗れて
台湾に立てこもり、最後まで大陸反攻を夢見ていたが、その思いは達せずに亡くなりました。
思うに、男は夢を見ながら最後に至るのかなと、感傷的な気分で次の孫義之の故郷には行きたくなくなってしまいました。明日は杭州湾沿いの町に行くを記します。
                                               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月22日金曜日

2014年までの中国(台州)・・158

2014.8.22 金 快晴  午前6:30
   福建省の台州は日本のスクラップ鉄が運び込まれる土地と言うので商売上で行った。上海から6時間くらいで着いた。着いた時間が夜だったので、近くの小観光地の山に泊まった。夜の食事はべら棒に高かった。聞いてみると山奥なので、肉が市場からなかなか来ないので、高いのだという。安い野菜だけの食事にしたが、なかなか美味しかったし、私の健康には極めてよかったので、満足した夕食となった。
    あくる朝、少々の時間を利用して山に上った。途中にお寺があって、スピーカーでお経を流し続け、お賽銭を上げさせていた。更に上に行くと、滝が山の天辺から落ちていたが、長い滝なので、
下に来るまでに、霧になってしまう滝であった。季節はおりしも初夏であったので、子供たちはその下で水遊びをしていた。日本の観光地から見ると、何事もスケールが大きい中国である。山も石も
滝も、木々も日本の数倍あるスケールの台州でした。山を下り、スクラップ鉄が運び込まれる港は
明日に記します。
                                                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月21日木曜日

2014年までの中国(福州の町)・・・157

2014.8.21木 午前6:40
   福州は一度限り訪れた町であった。想い出は少ないが、発展した町の想い出がある。大きく豪華なホテルや整備された繁華街を憶えている。空海の上陸地は訪れはしなかった。理由は、仕事で石材を探しに行ったからである。石材も厦門と違い、柔らかい石が多かったので、輸入までには至らないでしまった。うろ覚えだが、埋もれた古刹は、7百年の時を経て、発見された古刹と言われたので、中に入ってみた。全部が土中に埋もれていたが、階段で中に入れるようになっていた。暗闇の中に、大きな生きているカエルが神の使いとして、飼われていた。奇妙なカエルであったので、薄気味悪くなり、見学も早々に外に出た。思い出すと、外に出たのは、土中が暑くてたまらなかった
からであった。想い出の少ない福州であるから終わりにします。明日は台州を記します。
                                                   アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月16日土曜日

2014年までの中国(福州の空海の上陸地)・・・156

2014.8.19 火  曇り 午前6:00
  お盆が終わった。家の周囲の畑(2千坪)を耕し、庭木を剪定、屋敷周りの草を除草したお盆の休みであった。お盆中は何処にも行かずに過ごした。但し、労働で過ごした休みとなった。体力はついたようである。笑笑。
  さて、福州に石材を仕入れに行った時の話ですが、偶然に福州の町の端で、空海の上陸地点という記念柱を見た。石材を探しに行くのが先だったので、先を忙いでいたから立ち寄らないでしまった。私の先祖が真言宗で祀られているので、日本に帰ってから書物を読んでみた。やはり、福州の
赤岸鎮というところに、空海は流れ着いたのであった。そして、空海が上陸してから西安までの道程に興味を持ってしまった。1300年くらい前の話である。
                                         アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年までのアメリカ(ハイウエーでモーテルの見つけ方)・・・155

2014.8.16土  雨 午前5:40
    ハイウエーを走っていると、夕方時には泊まるところを見つけるのが心配になる。まして、アメリカの初めての旅なら、特に心配になるでしょう。そんな場合の見つけ方を記してみます。
   アメリカのハイウエーは縦横の道路がしっかりと区別されて敷設されています。横の番号は偶数
で縦の番号は奇数となっています。その他に様々なフリーウエーや国道、市道が縦横にクロスされる所があります。そのクロスされる周辺に高中低価格のモーテルが建っていますので、あらかじめ
休憩所で確認をしておくと、その夜のモーテルは簡単に見つかります。びっくりするくらい簡単です。しかし、モーテルはどこを選ぶかが、その夜を快適に過ごせるか否かになります。高級モーテルは、ヒルトンやマリオット等ですが、中級以下はモーテル6やモーテル8、クオリティイン等です。
レッドルーフというモーテルは、安くても部屋が広く、清潔でした。最低は観光地の中級モーテルです。値段は高いが、宿泊地とは言えないキャンプのバンガロー程度と言わざるほかないでしょう。
    不思議に、アメリカでも夕方時は部屋を見つけようと右往左往しているドライバーが多く見受けられました。人間の癖は古今東西、どこでも同じようと思いました。
   モーテルはネットで予約をしておくと便利ですが、そのモーテルにたどり着くのが大変です。理由は英語能力ですが、ナビを使えばそんなに困難では無いと思いますが、アメリカでのナビ探索も
少々の英語能力を要しますので、英語辞書持参で行けばモーテルを見つけやすいです。
    明日からは中国大陸になります。
                                                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月15日金曜日

2014年のアメリカ(ハイウエーの一日)・・・154

2014.7.15 金  曇天  午前6:00
   ハイウエーの朝は忙しく車が動く。乗り降りの車もスピードを出して走ります。それぞれが目的地に向かって、まっしぐらの様相です。トレラー、乗用車、実用車、パトカー等が目まぐるしく走り、休憩所では、手に朝食のマックとLサイズのコーヒーを持った男たちが入ったり出たりしています。
  昼前後になると、一般車が多くなり、女性の運転者も多く見受けられます。割合い、のんびりと走っています。面白いのは、アメリカ女性に車がマッチしていることです。夕方は朝と同じで、忙しく、家路に向かう車が多くなります。夕暮れ時のアメリカのハイウエーは、春秋冬夏にそれぞれの情緒を漂わせてくれます。特に、春の夕暮れ時は、家路を忘れてしまいます。
  明日はハイウエー上でランチやモーテルを見つけるテクニックを記します。
                                       アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月14日木曜日

2014年までのアメリカ(モーテル利用)・・・153

2014.8.14木  曇り  午前7:00
   アメリカ旅行はモーテルが一番です。安くて、綺麗で、プライバシー保護が十分、全然かまって
貰えない、だからです。フロント前に車を止めて、パスポートとカードを出し、ワンベッド、ワンナイト、OKと言えば、相手は「ソーリー、ツーベッド、OK」と言うでしょう。OKと言えば泊まれるし、泊まりたくなければ、隣のモーテルに行けば良い。そこでも、同じように、呪文的英語を奏でれば良い。この方法で全米2万4千kmの行程で、泊まれなかったことはありませんでした。笑笑笑。
    そして、部屋では密かに、持ち込んだ「寄せ鍋」セットで、「アメリカ晩酌」をやる。具は近くのスーパーで日本の具に似たものを調達、酒は日本酒か焼酎、ビールだけはアメリカが可哀そうだから、アメリカ製を飲んであげる。つまり、2対1のテーブルで、アメリカのテレビを見て、音楽を聴き、酔ったら、外に出てアメリカの月と夜空を仰ぐ。これが私のアメリカのストレス解消、一人旅の夜である。酔ったら、そのままベッドに倒れこむように寝る。気分の良い一人だけのベッドとなる。
    朝が来たら、昨夜のパーテイ跡をかたずけて、朝食の食堂に行く。コーヒーとパン、牛乳くらいは
無料で頂ける。食堂内はアメリカの庶民で一杯だから、アメリカ的家族旅行を観察できる良いチャンスです。そこでは、「グッド、モーニング」の連発をすれば、挨拶ができ、気分の良い旅立ちになります。
                                         アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重衛
  

2014年8月12日火曜日

2014年までのアメリカ(ワシントンに向かう・食料)・・・152

2014.8.12 火  快晴秋空  午前6:00
   やっとマンハッタンを出られた私たちは、午後5時ごろにワシントンに向かった。約300㎞の道程を夕方に南西に突っ走った。アメリカン高速は1時間で120㎞を走れる。ワシントンには8時頃に着ける予定であるから、いきなりワシントンに入らないで、10km手前の町に泊まることにした。ワシントン入りは、翌日の早朝にした。その理由は、ワシントンのモーテルは料金が高いと予想、街から
離れれば離れるほどモーテルの料金が安いからである。例えば、街内の料金が15,000円だったら20㎞離れたモーテルは、その半分程度の差がある。宿泊費が安ければ、その分を食費に回せることになる。そういうことから、私たちは手前の「クオリティ・イン」に泊まった。チックインを済ませると直ちに食料調達に出た。ワシントンの手前の街は人口が少なく、飲食店街等は少なく、
食料調達は結構困難となる。経験上から分かっていましたが、その日は着いた時間が遅いので
なかなか見つけることができませんでした。腹が減ってくると、誰でもイラついてくる。なかなか見つからないと参加者が、言葉がトゲトゲしくなったり、ぐちぽっくなったり、黙りこくなってきます。そんな
雰囲気を感じたら、リーダーは直ちにコンビニ等の入り、取りあえずの食料を買って、参加者のご機嫌をとるようにします。取りあえずの食料を携えてから、持ち帰りの弁当店を探すようにします。
そうすると、万一、弁当店が無くても、コンビニ食料で我慢ができます。但し、ウイスキー、ビール、
焼酎、日本酒等は常時携帯していますので、参加者の欲求不満が高まらなくてすみます。
   明日は早朝のホワイトハウスを記します。
                                                      アメリカ・中国馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月11日月曜日

2014年までのアメリカ(マンハッタン内をドライブ)・・・151

2014.8.11月  台風一過曇天  午前6:15
  マンハッタンにやっと入り、マンハッタン内をドライブをしたが、どこをどう通っているかはあまり分からない。どこがどこかも分からないが、現在地の位置は分かるので、迷子にはならいない。しかし、参加者全員が行きたいところに、スムーズに行けないのである。理由は、英語力である。
日本ならば、どこまで行っても大丈夫だが、アメリカニューヨークでは、簡単に移動ができない。
無理な英語でやっと聞いたところで「ここの人ではないから分からない」と言われることが多かった。しかし諦めて、車のナビと地図を頼りに動いているうちに、その街が分かってくる。そのような
無駄な時間と無駄なガソリンを使っているうちに、街のアウトラインが頭に叩き込まれ、結構スムーズに動けるようになった。そうなるまでの時間は5時間や10時間はかかってしまうので、時間を
節約する旅は、友人かガイドを頼む必要があると思う。私たちは何とかマンハッタン内を自由に
歩けるようになり、行きたいところには行けたので、午後に次のワシントンに向かうことになった。
    明日は街から出れないを記します。
                                           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月10日日曜日

2014年までのアメリカ(ニューヨークから出られない)・・・150

2014年8月9日 日 大雨台風  午前7:15
  台風が四国に上陸した朝に記しています。昨年の9月にニューヨーク発~ワシントン~テネシー~ダラス~アビリーン~アルバカーキ~セドナ~ウインストンR66 ~ロス~サンタモニカ~サンタバーバラ~モントレー半島ぺブルビーチ~サンフランシスコゴールデンゲート着のコースを友人4人と廻った。しかもその途中でゴルフを5回プレイーした。ゴルフは全て自分たちで申し込んゴルフで観光会社の敵のような旅行であった。
   その中で最初の町であるニューヨークからニュージャージ州に移動できないハプニングに見舞われたことを記します。少なくとも私は、この時はニューヨークは7度目であったので、まさか迷うとは
思わなかったのだ。親しい友人達とのドライブであったので、心がウキウキして、道路をよく認識しないで動いてしまった。JFK ケネデイ空港を降りると、西の遠くにビル群がみられるので、勘だけを
頼りに、そこに向かってしまった。スピード感あるハイウエイーで進入口を間違うと、全く別の方面に流されてしまうのである。その日は感が冴えなくて、マンハッタンの東側でウロウロしました。しばらく走り、気が付くとJFK空港の東部周辺に入ってしまった。滑走路の端のようで、盛んに飛行機
の着陸光景が見える場所である。友人たちが騒ぎ始めているが、まだパニックには至っていないので、私はすずしい顔をして、「間違った」と言い、近くの空き地を探し、方向転換をした。なんせ、
アメリカは近くに見えても遠い。日本の距離感と違う。明日はマンハッタンに入れたが、町を抜けられないを記します。
                                            アメリカ.中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月8日金曜日

2014年までのアメリカ(サンフランシスコ~)・・・149

2014.8.8金  曇り 午前6:30
  サンフランシスコには都合6回行った。中国華僑が空港までベンツで迎えに来た。初めてなので戸惑った滞在であったが、サンデイゴまで行けた。2回目はアメリカ横断の最終地点として3日間滞在した。初めてゴールデンゲートの上で景観を楽しんだ。3回目はアメリカ縦断の最終地点として立ち寄った。有名大学に行って学生の町を見てみた。またしてもゴールデンゲートに行った。
4回目はシカゴのロータリークラブの帰りに立ち寄り、町を一寸観光した。5回目はサクラメントからの帰りに立ち寄り、最低のモーテルに泊まった。風で高熱を出し寝込んだモーテルであった。6回目はアメリカV字横断の最終地点であった。都合6回のサンフランシスコでこの町の通になった。
   最後の6回目は、ニューヨーク~ワシントン~アーカンソー~ダラス~アルバカキー~セドナ~
ロス~サンタモニカ~モントレー半島のべブルビーチ~サンフランシスコを回った時でしたが、一番
思い出が深く残っています。明日はこの移動中の思い出を記します。
                                                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
ぺブルビーチ海岸・高級別荘

2014年8月7日木曜日

2014年までの中国(厦門のホテルからの眺望)・・・148

2014.8.7 木  快晴  午前6:30
  泊まったホテルは港の真ん前で中級のホテルであったが、対岸にコロンス島が見え、場所は最高でした。遠くに大型船がタグボートに引かれて悠々と移動をしている。空には大きなカモメが
餌を探して、海面すれすれに飛んでいる。時折、狙われていることを知らない小魚が跳ねている。
対岸の椰子の木はゆらゆらと風にそよぎ、コロンス島内で働いている人々はのんびりと働くように
見える。フェリーだけが忙しく往復を繰り返し、スクリューの波を絶え間なく作り出している。
  私ものんびりとホテルの窓を開けテラスに出る。潮風の匂いと南国特有の香りが一気に鼻に入る。思わず、空を見上げ明日は上海に帰ることを思い出す。南国の空気と香りは今日まで、あと一日いようかな等と無理なことを考える。目の前の空を真っ白なカモメが飛んで行った。ハッと我に帰り、日本の事が頭の中を過った。日本に帰ることも悪くないなと心の中が騒いだ。再見、再見と
海に向かって、サヨナラの挨拶をした。明日は機上の人になる。
    明日からはアメリカの滞在記を記します。
                                          アメリカ.中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月6日水曜日

2014年までの中国(厦門の町の光景)・・・147

2014.8.6 水  快晴 午前6:40
  厦門の町並みは異国情緒豊かである。ヨーロッパ風の瓦屋根と壁の白さが忘れない町である。沿道には椰子の木が植えられていて、手い入れも十分である。時折、ソテツの木も目に入る。空は
あくまで真っ青、海岸の白砂は眩しく、紺碧の海水は透き通っていて、海鳥の鳴き声も南の陽気さを含んでいた。空港内やビルの床は御影石張りで豪華であり、通り一辺を見渡しただけで豊かな
町と分かる。アメリカ並みの高速道路やその降り口のループの見事さ等が更に豊かさに輪をかけ
ています。
   夜の飲食店の賑わいは完全な繁栄の証です。豪華なお店の中は、豪華な器や着飾った姉さん方が、最高級の料理を並べて、目食を楽しんでいます。テーブルに並ぶ酒は、どこかのワインや
高級中国酒でしょう。ほとんどのボトルは飲みつくされていません。封を切っただけのようです。
料理も沢山残されています。このような方々のテーブルは役人か富裕層の方々です。その方々は店を出た途端、最も近い場所に運転士付きのベンツかそれ以上の高級車が待っていてくれます。
私もその方々に等しい富裕層の友人がいますので、マイバッファで飲食店を後にしたことがありました。それは広東の話ですが、それ以来1年間ほどベンツ等の高級車には乗っていません。庶民代表の私です。
                                          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月5日火曜日

2014年までの中国(厦門の採石現場の思い出)・・・146

2016.8.5火 快晴 午前6:20
  厦門の採石現場山に行った。厦門の採石方法は平地から下に掘っていく方法で、山を切り崩しながら採石する方法ではありません。淵の天辺から下を見下ろしたところ、地上から50m程度の下まで掘られた大きな穴に作業が数十人働いていました。危険性極まりない現場に見えました。
  真っ白な御影石の層が何層にもなり、折り重なっていましたが、採石の方法が一定の方法でなく、ここにもある、ここにもあるのような不安定な採石の仕方に見えました。山の案内人は、「この山の下にまだ7人が埋まっているんだ」と言った。私は思わず息を呑んだが、言葉が出なかった。中国経済発展の裏に一体何人の人命が失われているのか。数え切れないだろう、私たちはそのような人の犠牲の上で生活ができるのだと、感謝の気持ちが沸き上がった瞬間の厦門の思い出である。
                                           アメリカ.中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月4日月曜日

2014年までの中国(厦門の顔秋梅女史)・・・143

2014.8.4月 快晴 午前6:30
  私は厦門の顔秋梅女史の叔父の経営する石材会社から、15年以上にわたり石材を輸入しています。彼女はその会社の輸出担当で、夫は証券会社で働いています。年のころは40歳前後ですが、正に日本の良妻賢母を地で行ったような女性です。昼間は諸外国相手に電話やメール等で営業をし、夕方になると夫と子の家庭の下にせせっと帰ります。私が厦門に行くと、この女性は私に石の説明や運転士又は食事のお世話をしてくれます。海の見える粗末な食堂で接待を受けるのですが、どこの店に行っても、彼女の顔が広いことが分かります。自分から店の厨房に入り、日本人の私の舌に合うように調理を指導してしまいます。彼女は一切の酒を口にいませんが、私が飲んでいる間は同席をしてくれます。しかし、私は夜の探訪は一人歩きが好きなので、早めに彼女に帰ってもらいたく、うずうずしていると気をきかして帰ります。翌朝、会社で顔を合わせると母親の
ような顔つきをして、昨夜の夜遊びをたしなめるような目つきをします。私はこの瞬間、目をそらし
直ちに仕事の話に入ります。彼女も仕事の話に没頭します。このような爽やかな人がいる厦門は、
私の冒険的人生で出会う清流水のようなものですが、既に彼女に出会ってから、16年程経ちました。
   明日は石材採掘現場を記します。
                                        アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月3日日曜日

2014年までの中国(コロンス島の奥深くへ)・・・142

2014.8.3日 快晴 午前6:00
    コロンス島の巨岩の上に立って超望を楽しんだ後は更に奥に上るだけです。曲がりくねった坂を
上っていく途中にいくつも豪邸がある。何でも大変立身出世したひとたちの家とのこと。確かに豪邸のようですから、幾つかの豪邸の中を覗き込んでみましたところ、ヨーロッパ式の立派なベランダや
庭が見えました。更に奥に進むと今度は下り坂になってきました。どうやらコロンスは、本当に小島
と思えました。それは西側の海が断崖の間から見え隠れしています。坂道を東方に歩いていくと
立派な鄭成功記念館にぶつかりました。思わず友人に会ったような気分になり、心も体も軽くなって、会館の入り口から中に入りました。そこで分かったのは、鄭成功の父は中国人で母は日本長崎の平戸藩の武家の娘であったことや、南京で高学歴の教育を受けた後は、明時代の末期に復明運動を有名な朱舜水等と連携して抗清活動をしたことや、台湾をオランダ軍から解放したこと等が、具体的に分かりました。日本、長崎、東シナ海、南シナ海、厦門島、コロンス島を結ぶ壮大な
海のロマンが、私の頭の中に連想しました。青空、碧海、輝く太陽、折り返す白波、白砂、椰子の木、断崖の岸等の大好きな光景を思い出しながらコロンス島を後にしたのは、夕日が西に沈み、
月が満天に輝きだした時分でした。明日は厦門の石材会社の顔氏と発掘の石山を見学したことを
記します。
                                                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年8月1日金曜日

2014年までの中国(鄭成功のコロンス島)・・・141

2014.8.1 金  午前 6:20
    昨夜は水戸市の大工町で遊んだ。真夏の暑い朝だが、早く帰ったので普通に起きられた。
さて、今日は中国福建省アモイのコロンス島の思い出を記します。 この島はアモイの海岸から
僅か数百メートルにある小さな島である。明末清初の時代に活躍した明政権の再興運動をした鄭成功(日本人の母)が一時的に本拠地とした場所である。やがて鄭成功は北伐のために、揚子江を上り、南京攻略をしかけたが、失敗して帰りがけに、台湾のオランダ人を駆逐したこと等の拠点となった島です。
    島にはフェリーでいきますが、島には車が一切ありませんから、すべて徒歩で歩きます。徒歩で島内を歩くことによって、島内の名所旧跡を見ることができます。上陸後は真っ直ぐに連なるお土産屋を抜けると、左側に白砂の海岸と高級ホテルが目に入ります。季節時には海水浴客で賑わい
ます。私も泳いだことがありますが、日本の海水独特のピりとくる感触はありませんでした。ドヨーントとした海水でした。左手に海を見てドンドン上っていくと、大きな岩石のあるところにたどり着きます。天から転がってきて、山のてっぺんに止まったような岩石ですが、上り口が付いていて岩石のてっぺんに上れます。どんどん上って石の上に出ると、そこは眺望抜群の場所となります。
南シナ海や中原の世界が前と背中に迫ってくる大陸の場所であり、日本ではお目にかかれない
壮大な景色と言えるでしょう。
    明日は更に島に深く潜入した思い出を記します。
                                             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年7月29日火曜日

2014年までの中国(厦門)・・・140

2014.7.29火  晴れ 午前6:30
  福建省アモイ(シャーメン)には何度も行った。観光ではなく石材輸入商談で行ったのである。アモイの海の向かい側10kmの先に金門島があり、その島は台湾の施政区である。約60年前は戦争状態であったと言う。両岸の軍隊が大砲を相手に向けて撃ち合ったのである。その海岸に行って
見た。大きな岩を細工しトーチカが作られていた。金門島を見張る穴や銃眼である。そのトーチカにもぐってみた。良く相手を観察したり攻撃できるようになっていた。毛沢東と蒋介石が体制をかけた戦いが最近まで行われていた地域である。しかし、不思議なことも現地の古老から聞いた。古老
曰く「夜になると船で相手の陣地に行って交遊していた」と聞いた。どうやら、本当の戦争でなく、
示威攻撃のようのものであったのかなと思われた。
  明日は母親が日本人の現地の英雄の鄭成功の根拠地のコロンス島に行ったことを記します。
                                           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年7月28日月曜日

2014年までのアメリカ(サンフランシスコに戻る)・・・139

2014.7.28月 曇り 午前6:30
  若者の群れの中を脱出した私は一路サンフランシスコに向けて走った。途中にぺブルビーチ海岸やカメルーンという有名な町等を知る由も無く走った。明け方にサンフランシスコ湾に着いた。潮風
はあまり感じないが、やはり、この町は良い。アジア人が多く住んでいるので、何となく東洋文明が
感じられる。待ちゆく人に黒髪を多く見受けられる。凸凹の多い町、金門橋、フィシャーマン、中華料理店等々が有名ところであるが、私はあまり行きたくない。あまり有名な場所は俗化していて
面白くないのである。私が行きたい場所は、俗化していない未開の場所である。その未開の場所が、アメリカには無限にあります。そこに行けば、何を食べても、食べなくても文句はありません。
  結論、アメリカの安宿、未開の地、人が踏み行けない場所に行きたいと思っています。次回は
中国大陸のアモイを記します。
                                                     アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                       アメリカの避暑地セドナ・・・小休止の時

2014年7月26日土曜日

2014年までのアメリカ(高速の上で野宿と車内泊)・・・138

2014.7.26土 快晴  午前6:45
  R1号線上で深夜を迎えてしまった私は覚悟をし、野宿をしようと場所を物色し始まった。高速を降りた周辺の暗闇や大木の下、高い草むらの中、倉庫らしき建物の横、牧場の厩等を探しました。見えない、音が無い、いつまでも暗闇の場所、好条件の場所がなかなか無かった。先ず、高速を降りた暗闇は朝が早く明るくなる。大木の下は夜中の雷が危ない、高い草むらは虫がいる、倉庫らしき建物の横は、所有者に不審がられる、まして牧場の厩は動物臭くて叶わない。つまり、野宿は危険と隣り合わせで好条件が無い。このような場所は諦めて、高速上の駐車場の陰地に車を止めた。
広ーい駐車場に車が二三台停まっている。明らかに野宿組、いや車内泊組の車であった。私も
車を静かに滑らせて、彼らの仲間入りをした。このような場合のアメリカでの仁義は分からない。
朝だけの挨拶で済むだろうと考え、エンジンを切り、窓にシャッツを合計5枚挟み、車内を暗くして
横になった。なかなか寝付けないので、静かにドアを開けて外に出た。カルフォルニアの深夜の空は、満点の星、遠くに北極星がキラキラと輝き、ここは異国の空だと感じ入った。同時に一人ぼっちの寂しさが湧き上がってきてしまいました。こうなるとだめだ、もう寝るほかなく、車内に身を滑らせた。先ほどの星空を思い出しているうちに寝てしまいました。
   明日はサンフランシスコに戻るを記します。
                                        アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年7月25日金曜日

2014年までのアメリカ(若者の群れの中に)・・・137

2014.7.25金 快晴  午前6:20
  若者の群れの中にとにかくゆっくりと車を入れて進んだ。避けたり、逃げたりの様子を見せないで
輪の中を進んだ。幸い深夜なので車の中は見えにくい。窓越しに若者の形相が見える。厳しい顔をした者もいるが、にやけている若者もいるので、非常に危険な状態に至ってないことは判断できる。車をゆっくり進め、輪の中を出た。人混みが薄れたので、一気に加速をして遠ざかった。脱出できた安堵感で疲れが出たが、頑張って深夜のR1号線をサンフランシスコに向かって走った。途中で方向を見失ったが、北極星をめがけて走り、方向を修正した。今どこを走っているのかは分からないが、とにかく車はサンフランシスコに向かっているのは確かだと北極星のおかげで感じられた。明日は野宿をしたを記します。
                            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年7月23日水曜日

2014年までのアメリカ(深夜の高速と田舎道)・・・136

2014.7.23水 快晴 午前6:15
 テファナを後にして、サンデイゴからロス、そしてサンタモニカ海岸を夕方走っている時に暗闇が
追ってきました。本来ならば美しい海岸沿いのドライブであったが、暗くなってくると気が逸り、前へ
前と走るだけのドライブになってしまいました。海で遊んでいた若者達も急ぎ足で車に戻る風景や
飛んでいる鳥も巣に戻る風景を見ると、こちらもアクセルをグーンと踏み込んでしまいます。
  運転中悩んでいました。来た道を帰るか、違う道を帰るか、せっかく旅に来て同じ道を帰るのは
面白くないなと考えました。思い切って来た道の高速101からR1号線を使いサンフランシスコに戻ることにしました。このR1号線は太平洋の海岸線をどこまでも走る道です。狭い道路ですが、日本の狭い道路よりは、格段に広い道路ですから、走っても楽です。ロスを抜けサンタモニカからR1に
入り、左に海を見ながら走るのですが、夜になってしまったので、白い波だけが見える道路になっています。深夜の12時頃、R1を走るのが飽きたので一寸走っている道路を反れて、明かりの見えた横道に入りました。そこで見たものは、若者たちの危険な大騒ぎパーテイでした。右と左に分かれた若者達がいがみ合っていました。私に車はそのいがみ合っている真ん中を進む羽目になってしまったのです。明日はこの危険グループの中をとっさに閃いた方法で進んだことを記します。
                                           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年7月22日火曜日

2014年までのアメリカ(メキシコ国境の町テファナ)・・・135

2014.7.22火 曇り 午前6:20
  昨夜慌てて泊まったモーテルは酷かった。床は裸足で歩けない、スリッパは無い、トイレはカギがかからない、おまけに入口のドアの鍵も形ばかりであった。そこで私は300ドルだけを出して取られてもところに置き、その他のドルは分かりにくいところに隠し、非常事態に備えた。アメリカの安宿
は、必ずと言ってよいほどエアコンの音が煩い。このモーテルも例外でなく、疲れていないと寝られないが、ドライブ旅行は疲れるので寝ることは大丈夫でした。
  幸いに何もなく寝られたので、朝はスッキリ起きられた。庭にでて見ると、酷く疲れたモーテルであるが、朝の気分の良いのはどこでも同じです。庭にはハイビスカス等の南の花が咲き乱れ、地球の南にいるのだと感じました。ここはメキシコ国境の町でメキシコ人が多く、越境者も多いと言われる町です。犯罪も多く、薬、発砲、暴力が日常茶飯事のようですが、私は幸いに目にしなくてすみました。国境のバリケードを見たくて、車でバリケードに突き当る道路を真っ直ぐ進み、太い針金の
バリケードに突き当たったので、そこで車を止め、しばらくバリケードの先のテファナを眺めてから、そこを後にしました。明日はサンフランシスコに戻る深夜から暁のスリリングなドライブを記します。
                                        アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年7月20日日曜日

2014年までのアメリカ(メキシコ国境の町)・・・134

2014.7.20日 曇り梅雨去らず 午前7:00
  テファナの町の安宿に着いた私はレストランかマックを探しに出かけた。夜なので危険は分かっていたが、腹が減っては戦ができないとばかりに、夜の町に夕食を求めて出かけた。夜道をしばらく歩くと寂しいスーパーや名ばかりのレストランが見えてきた。すると後ろからつけてくる二人組に
気づいた。直ちに危機感を感じたので警戒態勢に入り、ベルトに挟んである護身用のナイフを
再確認し、五感を高め、態勢を整えたのである。次に最適な防御場所を探し、左側に塀があった
地点で、その塀を背中にして、後ろの二人組をやり過ごそうと立ち止まった。私はいかにも警戒態勢を整えたかのような仕草で、彼らに右手で先に行けというようなしぐさを行ったのである。彼らは
気づかれたと思ったのか、目線の挨拶だけで私を追い抜いて行ったのである。このような危機は
私の思い過ごしか、それともピタリと当てたか分からないが、とにかく無事にスーパーまで行って、
夕食を買い求め、モーテルに戻り夕食を得られたのでした。面白かったことは、緊張感の後に、スーパー冷え冷えの缶ビールをやっと見つけたところ、レジで午後9時以降なので売れないよと言われ、とても残念感を味わったことでした。その日は深夜まで、私の頭と喉が冷たいビールを求め続けていたが、そのうちにぐっすり寝られ、翌朝を迎えることになりました。明日は国境の町テファナ周辺を掲載する予定です。
                                                     アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                          このような目つきでアメリカを探検しています

2014年7月19日土曜日

2014年までのアメリカ(ロスからサンデイゴに向かう」・・・133

2014.7.19土 雨 午前6:30
   サンタバーバラからルート101を更に南下するとサンタモニカを過ぎてロスに入れます。モニカやロスでは名所がたくさんあるが、さほどハリウッドに興味の無い私はぐんぐん南下します。昼食ためにデズニーのある町で牛丼を食べ、一寸の休み時間でサンデイゴに向かいました。
  サンデイゴは南のリゾート地でもあり、アメリカ海軍の基地でもあります。サンデイゴに着いた私は
モーテルを探し求めて彷徨ってしまいました。メキシコ国境のテファナ周辺をぐるぐる歩いた後、
やっと一軒の安宿を見つけ、転がり込めました。夜の9時頃になってしまいましたので、夕食を求めて夜の危ない道に出かける羽目に陥ったのです。そこで遭遇した事件は明日掲載します。
                                         アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年7月18日金曜日

2014年までのアメリカ(サンフランシスコ~サンタバーバラへ〉・・・132

2014.7.18 金  雨  午前4:40
  サンフランシスコ空港を出た私はレンタカーを借りて一路サンタバーバラに向かった。R101を
一気に南下するのです。太平洋を右に見ながら、ドライブをします。椰子の木と真っ赤な太陽、
青空と砂浜、海辺で泳ぐ少年少女達の景色もカルフォルニア景色です。夕方になると、一番近い
モーテルに宿をとります。1泊は約100ドル前後で普通のモーテルに泊まれますが、観光地周辺
は、やや高くなります。
  私の気分は一気に開放的になり、グーンとアクセルを踏み込み、車のラジオを流し、窓を開け、
肩肘を出して、太陽と潮風を車内に取り入れて気分爽快で走ります。サンフランシスコからサンタ
バーバラまで450km、走行時間は5時間です。海岸沿いの道路では、海に浮かぶ高級クルーザーやヨット等が目に入ります。昼食はマックで夕食は日本の居酒屋で取れます。サンタバーバラの居酒屋では旅の安全を祈願し、乾杯の儀式をしましたが、一人旅ですから、つぶやくだけの乾杯でした。明日はサンタバーバラからロスを抜けて、サンデイゴまで走ります。
                                               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                           サンタモニカ海岸の背景

2014年7月17日木曜日

2014年までのアメリカ(サンフランシスコ~テファナの間)太平洋沿い・・・131

2014年7月17日木 曇天 午前5:〇〇
  昨日はゴルフをした。とにかく暑くてスコアは暴れた。55:45の100叩きの刑を受けた。猛省をしている朝です。
  今日はアメリカに戻り、何度か訪れたサンフランシスコとその周辺を記します。初めてサンフランシスコの町に行ったのは、十数年前であったと思う。成田から飛び立ち10時間くらいで着いたので
びっくりしたことを思い出した。ニューヨークだと14時間くらいかかるのを10時間で着いたものだから、思わずびっくりしたことを思い出しています。憶えていることは、入国管理官の質問が色々煩かったことでした。どこからどこへ行くか、仕事か観光か、なぜ1万ドルを持っているか等々を聞かれたことでした。思うに、日本人は外国人と言うだけで善良な人と考えてしまい、どうぞ、どうぞと
言わんばかりで、通してしまうのかもしれないが、人種多様の国のアメリカは、そうはいかないのである。それでも、悪いものを持ったり、悪いことをしに行くわけでないので、堂々と答え、入管を通り、荷物を受け取り、税関を通り、空港の外に出られました。外に出て、シャトルでハーツレンタカー
会社に向かいます。ハーツでは日本から予約を入れているので、比較的簡単に車をゲットできますが、むやみやたらに保険の加入を勧められますので、レンタカー保険の勉強を日本でしておけば用意万端です。ただし、私はあまり勉強をしません。理由は英語が不十分だからです。そんなこんなで、レントした車をハーツの駐車場で拾います。運転席に乗り込み、方向器やサイドブレーキ、
タイヤのスペヤ、オイル、ワッシャー、ウインドブレかー等を十分点検し、車を目的地方向に発車させます。私がいつも向かうのは・・・・・です。明日を読んでください。
                                              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・・・照沼重輝

2014年7月14日月曜日

2014年までの中国(広州市)・・・130

2014.7.14月 快晴 午前6:30
  そこは天空のレストランであった。広州市の有名な中華料理店である南海漁村が運営している
空中第一号という店です。私はその店の経営者と友人でもあり取引先でもある。1㎏が数十万と
いう超高級食材を買ってくれているお店です。先ず入口から度肝を抜かれます。入口の大理石は
希少価値のブルーの大理石を使用し、中国の国宝に匹敵する絵画が飾られています。一点が
数千万円と言っても過言でない代物です。数々の個室が揃っていますが、その個室にたどり着く
廊下は金銀色に輝いています。その部屋の一つに入ると、そこはまるで天空の金色の食堂と
いうほか無いような天堂の部屋です。目のやり場がなくなり、遠くを眺めると、広州市の富と権力を
集中したと思われる建物等は眼下に小さく目に入ります。
  その店でオーナーからの接待を受けて、食事を共にしました。色々な話をしながらの食事は
大変楽しくて有意義でした。世界経済や世界平和の話を、私は顔を赤らめて真剣に話をした
記憶が蘇ってきました。中国編は海南島から広州市まで記しましたが、明日からの1週間はアメリカに移ります。
                                      アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年7月13日日曜日

2014年までの中国(広東省広州市)・・・129

2014.7.13日 曇天 午前6:30
  2012年4月に広州市に行った。干しアワビの営業で訪れたが、4月は見本市が開かれていたので、どこのホテルも超満員でした。この町に行くと分かるのは、中国は世界にあらゆる商品を輸出
しているのだなということでした。世界のバイヤーがこの町に来て商談をしている光景を見ました。
 この町に有名な空中一号というレストランがあります。それは日本にはあり得ないレストランです。
大胆、奇想天外、豪華、天空と一体になっているレストランでした。このレストランを明日から記します。
                                          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年7月10日木曜日

2014年までの中国(海南島三亜を去る)・・・128

2014.7.10木 台風  午前7:15
   台風が九州に上陸とテレビで放映された時間に記しています。大被害が起きているようです。
さて、三亜でリラックスができたので、名所旧跡の断崖浜にも行きました。断崖の天辺に上り、
遠くの水平線を私は眺めました。青い海原の上空に入道雲が登っています。一方の浜には
観光客が集積しています。観光客の顔を観察すると、ニコニコ平和を楽しんでいます。主に
青年男女たちが多いようです。
  中国の島でこのような平和を楽しんでいる若者を見ました。平和の時代を楽しむ権利は、どの国の人々にもあるでしょう。アジアは平和でなくてはなりません。そのようなことを断崖の上から
海原と水平線を眺めていいる若者を見て、感慨にふけてしまいました。
  三亜からの帰りは、深圳~上海の行程で帰りました。明日は広東広州市を記します。
                                             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
三亜はフロリダキーウエストの海の色と同じでした


2014年7月8日火曜日

2014年までの中国(海南島の三亜)・・・127

2014.7.8火 晴 午前6:00
  三亜に着いた。ホテルはすぐ見つかった。地元資本か香港と思われるホテルであった。その当時
流行りのリゾートホテルでした。そのホテルは地下に飲食街、フロント以上の階は宴会場とか宿泊場があった。フロントから庭を通り海岸に行ける道があったので、海に出てみた。1月2日なのに
泳いでいる人がいたので、私は海に入り泳いだ。冷たくなく泳げたので海水温は、泳ぐのには
充分であった。海から上がり、ホテルに戻った後に夕食に出かけた。夜の街で食事をしたが、
塩辛く美味しいものは無かった。島にはインドネシア系の音楽が流れていて、南国気分は満喫
できた。日本軍が引いた鉄道があると聞いたが、それには出会えなかった。翌朝、再度海に出てみた。旧日本軍が上陸した場所が観光地になっていた。旧日本軍はアジアのどこの地でも進出
していたが、無謀な戦争と思えた。思うに、人間にとって戦争は残虐な殺し合いだ。今、どこかの
国が戦争を仕掛けたら、その国の指導者が先ず戦争に行ってもらいたい。鉄砲の弾が自分に
向かって飛んで来たら、どんな思いをするだろうか。政治家よ早く目を覚ませ。
                                          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                     東シナ海のある貿易港で政治家と視察

2014年7月7日月曜日

2014年までの中国(海南島の最南端)・・・126

2014.7.7月 雨 午前7:00
  早朝散歩からホテルに戻り、東山温泉を出発をした。やがて、海岸と椰子の木が左に見えてきた。太平洋の海の色はコバルトブルーであり、真っ白な海岸と水平線が特に綺麗であった。
  この海南島は漢族の他に何種類かの種族が住んでいて、農民と漁民を掛け持ちして生活を
営んでいるようです。名所旧跡はどこにでもあり、そこにいれば、そこが名所のようで、とても綺麗
な島でした。どこまでも続く青空と入道雲、目の前の椰子の木とは白砂、緑と汐の匂いがミックス
した南国の匂いが満ち溢れている島です。時折、インドネシア系の音楽がラジオから流れてきます。そのような感覚を全身で受けながら、最南端の三亜を目指して一日中を走りました。
  三亜に午後の明るいうちに尽きました。明日は三亜の事情を掲載します。
                                               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
アメリカ大陸のカリブ海の高級リーゾートホテルにて

2014年7月5日土曜日

2014年までの中国(東山温泉)・・・125

2014.7.5 土  午前5:30
 海南島のほほ中央部に東山温泉というところがある。日本みたいに大浴場があったり、宴会が
ある温泉ではないが、それなりに温泉プールがありました。水着を着てプールに入るわけですが、
温泉というより、水泳などを楽しむプールでした。私も水着を着てプールに入り泳ぎましたが、
日本的にリラックスというわけにいきませんので、泳いで楽しみました。
 寝静まっている朝方に、そーっと村の部落に早朝の散歩にでました。高いヤシの木が部落を囲んで立っています。鶏の鳴き声と小鳥のさえずりを聞きながら細い道を歩みました。大豚に会いながら、更に奥へ歩きました。道は舗装されていませんが、ごみ等は散らかっていない道でした。
 これ以上奥に入ると何があるか分からないので引き返すことにしました。ホテルに戻り、朝食を食べて三亜に向かいました。
             アメリカ・中国馬賊隊・・・照沼重輝

2014年7月4日金曜日

2014年までの中国(海南島海口)・・・124

2014.7.4 金  雨 午前 5:45
   海南島の入口は海口という町である。飛行場があり、上海から飛び立ち、そこに降りた。12月一であったが一気に夏ムードである。入道雲と椰子の木は、南国ムードを盛り上げる。中国は東洋
のハワイと宣伝をしている島である。飛行場にハワイアンが流れていた。こうなると我々の気持ちは高ぶり、海に入りたくなる。泊まったホテルも一流、値段は二流であり、嬉しくなる条件が揃った。
   ホテルでレンタカーを手配し、島の縦断を計画した。海口から三亜までやく300kmの縦断で、
1泊二日でゆっくり縦断するのである。南国気分を全身に受けて、左に海を見てのドライブは悪く
無い旅行となった。翌朝の10時にレンタカーが来た。優しそうな運転士である。先ず先ず一安心して、荷物を車に積んだ。水戸の神成先生夫婦、習志野の庄子社長、現地案内人、それに私の5名の旅が出発した。海口の町を抜けると、直ぐに南国の木が満ち溢れ、まるでジャングルの中に入っていく道路を突っ走った。30分で左に海が見えてきた。次の宿泊地の東山温泉まで一直線に走った。
                   
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・・照沼重輝
 
東シナ海に浮かぶ島の役所

2014年7月2日水曜日

2014年のアメリカ(一先ずアメリカは終わり)・・・123

2014.7.3 水  快晴  午前6:00
  アメリカは一先ず終わりにします。次のアメリカへの旅立ち計画が始まったら記します。さほど
遠くありません。
  さて、今日からは中国に戻りますが、どこの町から書けばよいか迷っています。南の町から記し
ていこうと思っています。行ったことのある町のどこにしようか、尖閣列島や南沙諸島近近くの海南島から思い出すままに記してみようと思います。
  海南島には一度限り訪れたことがあります。北の海口から三亜までミニバンをチャーターし、
商用と周遊を兼ねて訪れました。四方が海に囲まれた島ですが、白砂、紺碧、潮騒、海の匂い、
椰子の木、ギラギラの太陽、砂地の上に立つ民家、民家周辺の野放しの豚等々を思い出して
います。・・年1月1日の元旦を海口で迎え、同月2日は島の中央部の東山温泉に泊まり、3日は三亜に泊まった。高校恩師の神成先生夫婦と千葉県の建設会社社長の庄子氏とご一緒しました。
 次回は海口の町を出るまでを記します。
                                             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                      小職が中国に売っている中華料理食材の最高峰乾しアワビ

2014年7月1日火曜日

2014年のアメリカ(海を越えて大陸へ〉・・・122

2014.7.1火 朝は快晴 午前6:20
 海を越えて大陸に渡るのは心地良い。そこでは何かを見られるか、何かと会えるか、ワクワクする気持ちがやたらと彷彿してくる。大陸に上陸し、大地に足を出した瞬間に、私の精神力は強靭に
なる。大地を拝み、青空を見上げ、スーツケースを引っ張り、レンタカー会社に向かう。何の心配
も無く、さわやかの気持ちで、ゆったりと歩く。目標のレンタカーを手に入れる。キーを預かり、
車庫に向かい、2週間ほどの相棒と出会う。軽く会釈をして、ドアを開けて、キーを差し込む。
キーをひねる。ブルールーンと快音が響き、車体が軽く震える。レンタカーが「待っていたよ」と
言ってるみたいに、運転席の座り心地が良い。駐車場の屋根の下から、青空の下に出ると。
遠くにマンハッタンのビル群が見える。これがニューヨークJFKケネデイ空港を出る瞬間である。
いつもアメリカの旅は、サンフランシスコ、ダラス等の各地の空港から、このように出発してきた。このような旅の回数は8回になった。また行くぞ、気合が充実したら。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・・照沼重輝
サンフランシスコの華僑の友人とスタンフォード大学での写真

2014年6月30日月曜日

2014年のアメリカ(またアメリカ大陸に向かう〉・・・121

2014.6.30月 一部快晴、一部大雲 午前6:30
 なぜだろう、アメリカから戻ったばかりで、またアメリカに行きたくなっている。なぜだろう、と考え続けている。アメリカはやはり素晴らしいのだと思う。何が素晴らしいのだ、と考える。アメリカの
土地は一つ一つが広く、相当な量のエネルギーが大陸から発射し続けているのだ。それだけで無い、あらゆる世界の人種が一同に会し、社会を形成している。食べ物や、飲み物、遊びが等が素晴らしいのではない、素晴らしいことの極まりは、私は法律で社会を安定化し、人々が安心して暮らせていることと結論をつけました。島国日本人は大陸人の優れている点を学ぼうではありませんか。だから、学びにアメリカに行きたくなっています。
 
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
クリントン大統領の生家の玄関先に座る

2014年6月29日日曜日

2014年のアメリカ(ダラス・ヒューストン・ガルベストン島・ベリーズを目指して)・・・120

2014.6.29日 雨 午前11:00
  雨中の草刈りをした。雨音が草刈機のエンジン音に消された作業を2時間ほどした。大汗が流れた。夢中で作業をした結果、家の周りの伸び放題の草が無くなった。清々しい感じで昼飯を食べ
られた。その後、PCに向かう。
  ダラスに行くには、自宅から成田まで2時間、搭乗手続きに2時間、離陸後から着陸まで12時間、ダラスの街の中に入るまで1時間ですから合計17時間の旅でした。ダラスからヒューストンまで6百㎞ですから車で6時間、ガルベストンまで150kmだから1時間30分、そこから飛行機で
2000km離れたベリーズまで3時間を要します。今回の旅はベリーズまで行きませんから、合計
24時間をかけてメキシコ湾のガルベストンまで行ってきました。ガルベストンは島ですから、海産物業者の宝の島になるか否か、楽しみになっています。
                                                             ガルベストン島の堤防
                                                            浅瀬の黄色、遠くの紺碧

2014年6月28日土曜日

2014のアメリカ(赤い魚と出会う)・・・119

2014.6.28 土 曇天 午前6:30
  やはり、赤い魚はメキシコ湾にいた。アメリカ友人からのメキシコ湾の情報は本当でした。正式名はレッドスナイパーといいます。既に、現地民は食べていました。炒めたり揚げたりする食べ方でした。現地民は干しては食べていなかった。ビジネスチャンスを見つけた。その瞬間、その魚と出会った私の心はカリブ海の青空のように清々しました。思うに、私はいつも旅に出ると、面白いものが無いかの心で彷徨ってしまいます。今日はその魚の写真を掲載します。
                                      アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                     この魚を日本人の口に入れたい

2014年6月27日金曜日

2014年のアメリカ(高級赤魚をメキシコ湾に追う)・・・118

2014.6.27金 雨 午前5:00
  雨の中を歩いてきた。6月は熱く、湿度多く、嫌な汗が出て、好きでな季節です。湿度が少ない
テキサスを歩いてきたので余計に湿度を感じています。
 さて、メキシコ湾沿岸の島のガルベストンに言った時の話です。島の突先のモーテルで早く目を覚ました私は海をある目的をもって眺めていました。海の早朝は漁船が港に帰ってきます。その帰ってくる漁船の向かう先を特定するために海を眺めていたのです。それは漁船から水揚があるだろうと想像している赤魚を追っているのです。是非とも、魚市場か漁船かの何処かで赤魚と遭遇したく
昨夜から考えていたのです。数隻の漁船が入り江の中を遡上していきます。並行に走る道路を
漁船と肩を並べて、遅れまいと島内を東から南東に車を走らせました。漁港に着き、車を止めて
桟橋に歩を速め向かいました。桟橋に横付けした漁船の船倉から揚がる魚を、早く早くと、もどかし気に見つめました。次回へ
                                             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                                         一人用漁船
                                                                    直販用鮮魚袋
                                                     

2014年6月26日木曜日

2014年のアメリカ(次の大陸目標地)・・・117

2014.6.26木 曇り 午前7:20
 
 昨日の午前中に、尊敬する友人の事務所でアメリカのお話をした。彼は以前からハーバート大学に行ってみたいと言っていたので、、ふと私はその希望を実現させたいなと思った。彼には数十年にわたり、物心共に温情を受けてきた彼と奥さんをアメリカにご招待をし、思うままにハーバード周辺を散策してもらいたい。密かにその旅の研究を始めよう。楽しみが出来た今朝でした。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・・・照沼重輝

2014年6月24日火曜日

2014のアメリカ(テキサス帰国後4日)・・・116

2014.6.24火 雨 午前6:30
  朝の運動は雨により中止としました。帰国後4日となり、次の目標はどこにするかなと考えています。やはり、アメリカか中国大陸の奥地にしようかなと思います。アメリカ大陸で英気を養い、中国大陸奥地で人生観を極める。これらの旅で得られるものは、人生の充実感だと思う。
  皆さん、今からでも遅くないぜ、一緒に出ようよ。永久青年を希望する同志諸君。
                                                      アメリカ・中国馬賊隊・・・照沼重輝

                                                                      果てしない人生の道
                                                            繋がれてはいけない人生
                                                          第3別荘で休養を取れたら最高