2014.1.20月 曇 午前6:00
-5°の月曜の朝である。外は暗く、物音一つしないが、ストーブの音だけが活気づいています。
新春といえども春の色は野原に見えず、心なしか町行く人の服装は明るくなってきたような気がします。時折、早い出勤と思われる車が、暗闇の中を音も無く夜間灯を照らして走って行きます。
東海村から2千キロ離れた中国の南京の話ですが、この地は歴史の宝庫といっても過言ではありません。古い歴史や新しい歴史がわんさと町中に横たわっています。唐の時代から明の時代や
昭和を騒がせた日本軍の南京行進等、これらの歴史が南京の町の歴史です。南京の近くの町に、
鑑真和尚ゆかりの揚州がありますが、杭州の西湖に比し、痩湖?と鑑真のお寺が観光地になっています。南京には紫金山や南京城、中山公園と昔の役人が会合や宴会をした場所の有名地が沢山ありますので、書いてみたいと思っています。
明日からはこの町の面白いところを中心に記してみます。
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
2014年1月20日月曜日
2014年1月19日日曜日
1991年から2013年の華中(無錫の太湖)・・・46
2014.1.19日 曇りのち晴れ 午前7:30
無錫には冬に行った時の記憶が鮮明に浮かんできます。その日は仕事が早く終わり、太湖を見学しようとなり、郁運転手と車を太湖に走らせました。太湖の湖は周囲が80kmあり、1周しようものなら150kmくらいを走ることになるので、太湖の岬から歌にある三山を確認しようとスケールを圧縮した小旅行にしました。入場料は1人1,000円くらいですがガッチリ取られました。後に、その入場料の悪評は延々と続き、中国人の観光客が少なくなり、市政府は困っているようです。
この湖の東側に大きな蘇州市があり、西側には浙江省の湖州市に接続し、北側は無錫市、
南側は浙江市の嘉興市と繋がっています。四方の度の町も産業の盛んな町ですから、当然に
無錫も産業の盛んな大きな町です。高速道で南京に行く途中の町です。
太湖に進入した私たちは、湖の北側の岬まで車で行けました。小舟に乗って湖内の島に上がり、猿のいそうな島内を徒歩でびくびくながらゆったりした観光をしました。太湖を一口で表現すると、
「空青く、山高からず、湖は濁水」となります。近くの産業水が湖に流れ込んできているようです。
もったいない大湖は、蘇州の西奥に恥ずかしそうに潜んだ湖でした。2013年12月に再度訪れた
太湖も同じような状況でした。観光資源を大事にしましょうよ。地球人へ。
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
無錫には冬に行った時の記憶が鮮明に浮かんできます。その日は仕事が早く終わり、太湖を見学しようとなり、郁運転手と車を太湖に走らせました。太湖の湖は周囲が80kmあり、1周しようものなら150kmくらいを走ることになるので、太湖の岬から歌にある三山を確認しようとスケールを圧縮した小旅行にしました。入場料は1人1,000円くらいですがガッチリ取られました。後に、その入場料の悪評は延々と続き、中国人の観光客が少なくなり、市政府は困っているようです。
この湖の東側に大きな蘇州市があり、西側には浙江省の湖州市に接続し、北側は無錫市、
南側は浙江市の嘉興市と繋がっています。四方の度の町も産業の盛んな町ですから、当然に
無錫も産業の盛んな大きな町です。高速道で南京に行く途中の町です。
太湖に進入した私たちは、湖の北側の岬まで車で行けました。小舟に乗って湖内の島に上がり、猿のいそうな島内を徒歩でびくびくながらゆったりした観光をしました。太湖を一口で表現すると、
「空青く、山高からず、湖は濁水」となります。近くの産業水が湖に流れ込んできているようです。
もったいない大湖は、蘇州の西奥に恥ずかしそうに潜んだ湖でした。2013年12月に再度訪れた
太湖も同じような状況でした。観光資源を大事にしましょうよ。地球人へ。
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
2014年1月18日土曜日
1991年から2013年の華中(蘇州の宴会の終わり)・・・45
2014.1.18土 曇天 午前7:30
蘇州の宴会の終わり間際に、最後の乾杯をやりました。8人のパーティで日本人は私だけで、後は全部中国人でした。白酒45度を7人とイッキ飲みをしました。小さなお猪口くらいのグラスに満たされた白酒が毒酒に見えました。強い匂いと強い度の酒をイッキに飲むわけですから、日本人の
口と喉、食堂、胃に合うわけがありません。目を閉じ、腹に力を入れて、大きく口を開けて、ガブリと
流し込みます。最初の一人や二人との乾杯までは、何とかいけますが、三人四人となってくると、
ギブアップをしたくなってきます。7人ですから14個の目がこちらに注がれていますので、インチキはできませんし、日本人として頑張りたくもなるものです。遂に頑張って7人との乾杯が終わるころは、目はフラフラ、体もフラフラで立っているのがやっとな状態です。同席者の全員の拍手も聞こえないくらいです。それでも、宴会の目的や相手方への印象を気にしながら退席をします。エレベーターの前で全員と分かれ部屋に戻るのですが、部屋番号等はとっくに忘れています。慌ててカバンを中を探すのですが見つけられません。やむを得なくフロントに戻り、部屋の電話番号を聞きますが、そっけなく言われるだけですから、聞き取れません。紙を出して書いてもらい、エレベータに戻り、部屋に向かいます。フラフラの目や体は、鍵穴への焦点が定まらず、ガチャガチャの音を発してしまいます。やっと部屋が空き、中に入り、ベッドへまっしぐらとなり、ベッドにもぐりこめずに、
ベッドカバーも取らずに眠りこんでしまうことになります。これが中国の1991年代の宴会でした。
言うまでも無く、翌日のひどさは表現できない程に大変なことになってしまいます。
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
蘇州の宴会の終わり間際に、最後の乾杯をやりました。8人のパーティで日本人は私だけで、後は全部中国人でした。白酒45度を7人とイッキ飲みをしました。小さなお猪口くらいのグラスに満たされた白酒が毒酒に見えました。強い匂いと強い度の酒をイッキに飲むわけですから、日本人の
口と喉、食堂、胃に合うわけがありません。目を閉じ、腹に力を入れて、大きく口を開けて、ガブリと
流し込みます。最初の一人や二人との乾杯までは、何とかいけますが、三人四人となってくると、
ギブアップをしたくなってきます。7人ですから14個の目がこちらに注がれていますので、インチキはできませんし、日本人として頑張りたくもなるものです。遂に頑張って7人との乾杯が終わるころは、目はフラフラ、体もフラフラで立っているのがやっとな状態です。同席者の全員の拍手も聞こえないくらいです。それでも、宴会の目的や相手方への印象を気にしながら退席をします。エレベーターの前で全員と分かれ部屋に戻るのですが、部屋番号等はとっくに忘れています。慌ててカバンを中を探すのですが見つけられません。やむを得なくフロントに戻り、部屋の電話番号を聞きますが、そっけなく言われるだけですから、聞き取れません。紙を出して書いてもらい、エレベータに戻り、部屋に向かいます。フラフラの目や体は、鍵穴への焦点が定まらず、ガチャガチャの音を発してしまいます。やっと部屋が空き、中に入り、ベッドへまっしぐらとなり、ベッドにもぐりこめずに、
ベッドカバーも取らずに眠りこんでしまうことになります。これが中国の1991年代の宴会でした。
言うまでも無く、翌日のひどさは表現できない程に大変なことになってしまいます。
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
2014年1月17日金曜日
1991年から2013年の華中(蘇州の色と宴会)・・・44
2014.1.17金 曇天 午前7:10
27年前に蘇州に行きました。当時の蘇州の町の色は、建物は白と黒、服装はブルーの人民服でした。空は紺碧、緑は緑、川の色は混濁色でしたが、ほぼ自然の色が残っていました。夜になるとホテルの宴会部屋は、胡弓を弾く女性のチャイナドレスの色は鮮やか、歌い手のドレスも鮮やかで旅行者の目を楽しませてくれました。中国独特のメロディを聞きながらの蘇州料理を味わったものです。宴会の部屋を出る旅行者の頬がほんのりと赤くなっているのは、酒だけのせいではないと
思いました。我々日本人が宴会室に入ると、すかさず歌い手やバンドのマスターが李香蘭のイエライシャンを奏でたり、歌ったりしてくれました。中国人と日本人の合唱で北国の春を歌ったりもしたものです。円卓テーブルには、山海の珍味や紹興酒、白酒等が並び、アルコールの匂いと蘇州料理の匂いが混ざり独特の中国の夜を醸し出していました。宴は深夜までに及んだものです。乾杯乾杯の掛け声は、正に親友同士の弾んだ掛け声に聞こえました。
明日は宴会終了間際から部屋の戻り、眠りに着くまでを掲載してみます。
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
27年前に蘇州に行きました。当時の蘇州の町の色は、建物は白と黒、服装はブルーの人民服でした。空は紺碧、緑は緑、川の色は混濁色でしたが、ほぼ自然の色が残っていました。夜になるとホテルの宴会部屋は、胡弓を弾く女性のチャイナドレスの色は鮮やか、歌い手のドレスも鮮やかで旅行者の目を楽しませてくれました。中国独特のメロディを聞きながらの蘇州料理を味わったものです。宴会の部屋を出る旅行者の頬がほんのりと赤くなっているのは、酒だけのせいではないと
思いました。我々日本人が宴会室に入ると、すかさず歌い手やバンドのマスターが李香蘭のイエライシャンを奏でたり、歌ったりしてくれました。中国人と日本人の合唱で北国の春を歌ったりもしたものです。円卓テーブルには、山海の珍味や紹興酒、白酒等が並び、アルコールの匂いと蘇州料理の匂いが混ざり独特の中国の夜を醸し出していました。宴は深夜までに及んだものです。乾杯乾杯の掛け声は、正に親友同士の弾んだ掛け声に聞こえました。
明日は宴会終了間際から部屋の戻り、眠りに着くまでを掲載してみます。
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
2014年1月14日火曜日
1991年から2013年の華中(蘇州)・・・43
2014.1.14火 快晴 午前7:20
今日は上海から90km離れた人口1050万人の町、蘇州市を掲載するつもりでしたが、時間が無くなり明日以降にします。
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
今日は上海から90km離れた人口1050万人の町、蘇州市を掲載するつもりでしたが、時間が無くなり明日以降にします。
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
2014年1月13日月曜日
1991年から2013年の華中(南通市)・・・42
2014.1.13月 快晴 午前7:30
私は南通市に2回ほどの訪問歴があります。一回目は1991年でしたが、揚子江をカーフェッリーで渡り、22年後は高速道の高架橋で渡りました。一回目の訪問時の目的は、最近発達している
対岸の町に様子見に行こうや、と中国人の友人に誘われたので、ヒルトンホテルからハイヤーを
調達して行きました。その当時の道路は整備がされていなくてとも不便でしたが、2013年12月の訪問時はとても便利に行けました。
南通市の人口は769万人です。五代十国時代に誕生した町といわれていますので、相当古い
歴史があると思いますが、有名な地名や歴史の舞台を聞いたことをありません。方言は呉の国の
方言が使われているようですが、詳しくは分かりません。地理的には上海から東に揚子江を渡った100kmのところで、黄海と太平洋に望んでいる町です。今や中国内でも最大の発展をした屈指の町になっているそうです。日本の泉市や豊橋市と姉妹都市にあります。
私の一回目の訪問は経済視察と観光、二回目は商談です。何となく思うのですが、良い商談に
発展するような気持ちでいます。理由は日本人と似たような気質を持っているように感じたからでっす。距離にすると鹿児島から南通市まで直線距離で800kmですから、大陸続きなら10時間で車で走って行けます。明日は数十回訪れた蘇州を掲載します。
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
私は南通市に2回ほどの訪問歴があります。一回目は1991年でしたが、揚子江をカーフェッリーで渡り、22年後は高速道の高架橋で渡りました。一回目の訪問時の目的は、最近発達している
対岸の町に様子見に行こうや、と中国人の友人に誘われたので、ヒルトンホテルからハイヤーを
調達して行きました。その当時の道路は整備がされていなくてとも不便でしたが、2013年12月の訪問時はとても便利に行けました。
南通市の人口は769万人です。五代十国時代に誕生した町といわれていますので、相当古い
歴史があると思いますが、有名な地名や歴史の舞台を聞いたことをありません。方言は呉の国の
方言が使われているようですが、詳しくは分かりません。地理的には上海から東に揚子江を渡った100kmのところで、黄海と太平洋に望んでいる町です。今や中国内でも最大の発展をした屈指の町になっているそうです。日本の泉市や豊橋市と姉妹都市にあります。
私の一回目の訪問は経済視察と観光、二回目は商談です。何となく思うのですが、良い商談に
発展するような気持ちでいます。理由は日本人と似たような気質を持っているように感じたからでっす。距離にすると鹿児島から南通市まで直線距離で800kmですから、大陸続きなら10時間で車で走って行けます。明日は数十回訪れた蘇州を掲載します。
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
PM2.5で太陽も景色も見えにくい環境でした(冬12月)
2014年1月12日日曜日
1991年から2013年の華中(松江区と水戸黄門さん)・・・41
2014.1.12日 快晴 午前7:00
私は松江に少なくとも10回は訪問しているはずですから、思うままに記すことになります。上海から33kmの松江区に方塔公園があり、その中に朱舜水記念館があります。その記念館の中に水戸黄門さまの武家姿の写真が掲げられています。何故、松江区に朱舜水の記念館があるのかは、調べたところによると、9歳の時に親を亡くし、兄が松江の役人であったので、それを頼りに明の時代に移り住んだとなっています。古い時代の松江は唐の時代に役所がおかれ華亭と呼ばれていたそうです。最近になり上海市の行政体に組み込まれた区となっています。
1990年に茨城大学と復旦大学の交流があり、茨城大学に来水した数人の大学教授が、茨城県日中友好協会の会合で、朱舜水のことを崇めていた茨城人の心意をくみ取り、帰国後に日本の橋本大使を招き、朱舜水と水戸黄門さまの武家姿写真を掲示したそうです。
水戸黄門さまの写真が、上海市松江区の朱舜水記念館に掲示されているということは、私たち
茨城人にとって、とても胸を張れる日中交流の美談といえます。思うに、日中の今の諍いは、
淋しく悲しい出来事ですが、終わらない諍いは無いとの信念で、終わるのを待ちわびます。
次回は南通市を掲載します。
アメリカ・アジア大陸馬賊隊・・・照沼重輝
私は松江に少なくとも10回は訪問しているはずですから、思うままに記すことになります。上海から33kmの松江区に方塔公園があり、その中に朱舜水記念館があります。その記念館の中に水戸黄門さまの武家姿の写真が掲げられています。何故、松江区に朱舜水の記念館があるのかは、調べたところによると、9歳の時に親を亡くし、兄が松江の役人であったので、それを頼りに明の時代に移り住んだとなっています。古い時代の松江は唐の時代に役所がおかれ華亭と呼ばれていたそうです。最近になり上海市の行政体に組み込まれた区となっています。
1990年に茨城大学と復旦大学の交流があり、茨城大学に来水した数人の大学教授が、茨城県日中友好協会の会合で、朱舜水のことを崇めていた茨城人の心意をくみ取り、帰国後に日本の橋本大使を招き、朱舜水と水戸黄門さまの武家姿写真を掲示したそうです。
水戸黄門さまの写真が、上海市松江区の朱舜水記念館に掲示されているということは、私たち
茨城人にとって、とても胸を張れる日中交流の美談といえます。思うに、日中の今の諍いは、
淋しく悲しい出来事ですが、終わらない諍いは無いとの信念で、終わるのを待ちわびます。
次回は南通市を掲載します。
アメリカ・アジア大陸馬賊隊・・・照沼重輝
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